箱庭のなかで

望月夕炉

第1話

 頭上遥か高くに鬱蒼と聳え立つ木々。常に水に身体を浸しているかのような湿気。ぼくはこの惑星のそんな場所に気づいたら生まれ落ちていた。肌を無限に汗が這い、自分の体から立ち籠める饐えた匂いにはすっかり慣れてしまっていた。この一帯がどれほど広いのかはわからない。なにせどこまで走り回って確かめても、樹木の隊列が視界から消えることはなかったからだ。きっと悠久の時から変わらない景色がここにはある、ということが何となくぼくにもわかっていた。ぼくたちはその中のわずかな一区画にいつからか居を構えて暮らしている。

 ぼくには母と妹がいる。ふつうは家族を構成する人員として"父"というものが存在するらしいが、ぼくにはいない。どこまでも延々と名も知らない植物が生い茂るだけのこの場所で、3体の人間がポツンと暮らしているのである。

 母と妹のために、今日もぼくが食糧を調達しに行くことになっている。母の好きな〈自立型集合菌類シイタケ〉を採りに行こうか、妹の好きな〈落下型乾果クルミ〉を採りに行こうか迷ってしまうな。

「お兄ちゃん、気をつけて行ってきてね」

「あまり無理をしないでいいからね」

 昨日と同じことを言われる。どうやらぼくのことを心配してくれているみたいだということはわかるのだが。

 母と妹に送り出されたぼくは、いつもの採集地へと向かう。半刻ほど歩くと、やや遠目の木々の根元に〈自立型集合菌類〉だとわかる白〜薄茶色のモザイク状の模様がぽつぽつと見えてくる。ぼくのお気に入りの〈自立型集合菌類〉の群生地。どうして気に入っているのかはわからないが、29万4569回目の採集である今日も自動的にこの場所に向かっていた。荷物を置いて中腰になり、根元から捻りちぎるようにして黙々と収穫をはじめる。



【とある場所】

「くそっ、2京5γ座標系の箱庭ガーデンでバグだ」

「いつものモーション・パターンアルゴリズムの軽微なアップデートで改善する程度のものだろう」

「いや、そんな些末なものではない。アダムが"外延"を認識してしまう事象が発生しているようなんだ」



 どれだけ作業に精を出しただろうか。大量の〈自立型集合菌類〉と妹への少しの罪悪感を手にした帰途、ふと空を仰ぐ。樹のビル群の隙間からわずかに覗く絵の具めいた碧を空と言えるのかどうかは別にして。

 ぼくには母と妹がいる。"家族"とぼくが勝手に呼んでいるものだ。だけど家族とはなんだろう。毎日ぼくが身体の中の大事な水分を汗腺から蒸散させて、生きるための栄養源を集め、それを共有するだけの矮小な共同体。同じように毎日繰り返されていく生活の営み。どうせ帰ったところで「今日もたくさん採ってきてくれてありがとう」「えー〈落下型乾果〉はないのー?しょうがないなあ」と、母と妹は口腔から音節の塊を発するのだろう。そのあとは、誰に頼まれたわけでもないのに自律機械のように〈自立型集合菌類〉を具材にしたスープを作り始める母の姿がすぐそこに浮かび上がるようだ。そんな日々が明日以降も続いていくことをしっかりと予感していた。



【とある場所】

「8垓42θ辺縁を少し修正してみたが、どうだ」

「だめだ。パターン外の挙動が今も複数確認されている」

「2pmほど開かれたクラック・ホールから別の座標系の干渉を受けてしまったのだろうか。明らかにこの座標系では発生するはずのない知識から形成されるアダムの懊悩だ。これは崩壊等級デストラクションスケールⅣの事態になるかもしれんな」

「なぜそんなに落ち着いていられる!だから2京5γ座標系は気にしておけと言っただろう。だいたい、アダムが箱庭ガーデンの内包の外に興味を持った時点で処理をしておくべきだったのだ」



「こんなに遅くまでどこに行ってたの!!…とっても心配したのよ…ぼろぼろじゃないの…」

「お兄ちゃん…もう帰ってこないかと思った…よかった…」

 母と妹から言われた言葉が脳内に静かに染み込んでいき、どうやらぼくは相当長い時間採集作業に没頭してから帰路についたのだということに気づいた。そして、母と妹の目じりから光るものが零れ落ちているということにも。この星には昼夜という概念がない。それがぼくの時間感覚を狂わせたのだろうか。昨日も同じことをしたはずなのに。あれ、「今日もたくさん採ってきてくれてありがとう」「えー〈落下型乾果〉はないのー?しょうがないなあ」と聞き飽きた定型文を言われるのではなかったのか。ちょっと帰りが遅くなっただけで、なぜこんなにもぼくのために泣いてくれているのだろうか。そんなことを考えていると、ぼくを抱きしめようとする2人が視界の端に飛び込んでくる。それと同時にぼくの眼球の上にじんわりと水分が覆っていくのをゆっくりと噛み締めた。



【とある場所】

「予想通り、崩壊等級デストラクションスケールⅣか」

「このまま放置していれば等級Ⅴにすぐ遷移してしまう。リセット…だろうな」

「ああ、そうか。仕方がない。」

「30万回目の試行を目前にしてこの体たらくか。上が何と言うかな」

「ああ」

「お前、もっとこの事態の緊急性を…」

箱庭の楽園ガーデニング・シミュレーションを一時的にオフ。2京5γ座標系を速やかにフォーマットしたのち、1回目の試行からリスタート」

「おい、聞いているのか」

「神たる我々にもできることとできないことがある。無窮の再現性をただ祈るしかないこの試行下では、アダムの行動の不測性は最も忌避すべきものだということはわかっている」

「それはそうだが、お前、なんかおかしいぞ。少し休め」

「2京5γ座標系の初期化を見届け次第、そうさせてもらう」


***


 頭上遥か高くに鬱蒼と聳え立つ木々。常に水に身体を浸しているかのような湿気。ぼくはそんな場所に気づいたら生まれ落ちていた。肌を無限に汗が這い、自分の体から立ち籠める饐えた匂いにはすっかり慣れてしまっていた。この一帯がどれほど広いのかはわからない。きっと悠久の時から変わらない景色がここにはある、ということが何となくぼくにもわかっていた。ぼくたちはその中のわずかな一区画にいつからか居を構えて暮らしている。

 ぼくには母と妹がいる。どこまでも延々と名も知らない植物が生い茂るだけのこの場所で、3体の人間がポツンと暮らしているのである。

 母と妹のために、今日もぼくが食糧を調達しに行くことになっている。母の好きなシイタケを採りに行こうか、妹の好きなクルミを採りに行こうか迷ってしまうな。

「お兄ちゃん、気をつけて行ってきてね」

「あまり無理をしないでいいからね」

 どうやらぼくのことを心配してくれているみたいだ。

 母と妹に送り出されたぼくは、いつもの採集地へと向かう。半刻ほど歩くと、やや遠目の木々の根元にシイタケだとわかる白〜薄茶色のモザイク状の模様がぽつぽつと見えてくる。ぼくのお気に入りのシイタケの群生地。どうして気に入っているのかはわからないが、自動的にこの場所に向かっていた。荷物を置いて中腰になり、根元から捻りちぎるようにして黙々と収穫をはじめる。


「母さん、今日はこれで何を作ってくれるかな」

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