熾火

しょうじ

熾火

1998年10月(1)

 まだ夜も明け切っていない頃、疲れの取れない身体を持て余していた昌行は、このまま起きてしまおうかと考えていた。すると、部屋のドアを誰かが叩いたような気がした。その音の主は、父の義和だった。

 「明日までに今月分の返済があるんだよ。すまないが、10万円ほど用立ててはくれまいか」

 何だって? 昌行は耳を疑ったが、それ以上に、新築して10年ほどになろうとしているタニナカ・ベーカリーの店舗兼家屋の返済が、それほどまでに逼迫していることに驚いた。いや、そうではない。昌行は谷中家の財政の窮状を知っていたはずだった。

 山手線に接続する私鉄沿線の商店街で、谷中義和と妻・峰子は、先代から続くタニナカ・ベーカリーを手堅く経営していたのだが、狂乱地価という時代のうねりに飲み込まれ、借地権の更新に合わせて大きな賭けに打って出た。当初はあくまでも「増改築」程度の計画だったところだが、昌行の知らぬ間に、猫の額ほどの土地の上に5階の「ビル」を建てる計画に膨れ上がっていた。その図面を見せられるまでの間、信用金庫や銀行の支店長クラスが日参し、「どうか私どもにご融資をさせてください」と平頭していた。それを見聞きしていた昌行が、数十年にわたり地道に商売をしてきた父母を誇らしく思っていたことは間違いなかった。しかし、大学院への進学も視野に入れていた昌行は、その不安をついに伝えることができないままでいたのだった。

 数回の院試を経たものの、結局は進学を取りやめた昌行は、母校の桐華大学近くに借りていたアパートから、実家の空き室に戻っていた。新築なったタニナカ・ベーカリーの売上が好調だった時期は、10年もなかったかもしれない。階上に入っていたテナントが退去してしまった後の新しい契約は決まらず、カレー・ショップを開いたことは傷口を更に広げただけではなかった。次男の昇が何とも病名のつかぬ病に倒れていたのだった。にも関わらず、昌行はサプライ・システムズの勤務を続けていた。そう、「にも関わらず」――。

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