第68話:カタビランカを目指して
サルトリア魔術学院を出発した私たちは、国境の西側を迂回するような進路で帰ることにした。まっすぐカタビランカに帰ろうとすれば国境沿いの戦場とぶつかってしまうからだ。西にそびえ立つ山を抜け、農具が打ち捨てられた廃村を通り、無人の監視塔で休憩を挟みながらカタビランカを目指す。
「あの川を越えた先に街があるわ。それほど大きな街じゃないけど、補給ぐらいならできるでしょう」
アルジェブラさんの指示に従いながら道なき道を進み、空が夕焼けに染まり始めた頃、私たちは街に到着した。
路地を歩いているとそこかしこから空腹を刺激する良い匂いがする。腹を空かせた私たちは適当な大衆食堂に入った。吊り下げられた蝋燭ランプが暖色の光で店内を照らし、西方でしか見られない観葉植物が窓際に飾られ、それらの前を酔っ払った客や店員が行き交っている。
「久しぶりにまともな食事が取れそうですね。もう保存食と硬いパンはこりごりです」
「飯にありつけるだけマシなほうだぞ。カタビランカの貧民街なんて日に一食でも食べられたら幸運だ。軍も最近は配給が厳しいのだろう?」
「シャルマーンとの戦争が長引いているせいでどこも困窮しているわ。王都の空気もずっと暗いままだし。まあ、サミダラ要塞を陥落したから少しは明るくなるでしょうけど」
「生きづらい世の中です。そう考えるとこの街は栄えていますね」
決して大きな街ではないけれど、店を見る限りではカタビランカに負けないぐらい賑わっている。それに西方蛮族……つまりカーリヤ人が多い。基本的にパラアンコ人とカーリヤ人は仲が悪いけど、この街みたいに両者の中間地点では協力して暮らしているようだ。
壁にかけられたメニューを眺めた。今日のおすすめはプーレ鶏の香草焼きだってさ。骨まで食べられる西方地方の名産だとか。何を頼もうか考えていると、近くのテーブルから聞き覚えのある声がした。
「――それで俺は言ってやったのよ。『花街はすでに独立した。お前たちの居場所はない』ってな! そしたらマダム・リンダの残党は尻尾を巻いて逃げちまった。まあ奴らは元々腰抜けだ。マダムがいなくなりゃ怖くない」
大きくはだけたようなシャツに古びたブーツを履き、指に魔導具と思われる指輪をはめた男が、隅っこのテーブルで女の子と話している。私はエマと頷き合うと、アルジェブラに「席を外します」と断ってから男のテーブルに近寄った。
「だからあんな場末の酒場じゃなくてうちに来なよ。大丈夫、花街にも真っ当な仕事はたくさんある。俺が紹介して――」
私たちに気づいた男が言葉を止めた。あんぐりと口を開けながら私たちを見ている。まるで幽霊に会ったみたいだ。
近寄ってみると、彼が話している相手は私と同じかそれ以上に幼い少女だった。しかもカーリヤ族の少女だ。
「元気そうで何よりだパシフィック。お前がマダム・リンダを追い出したって? ずいぶんと面白そうな話をしているじゃないか、ぜひ我々にも聞かせてくれ」
「パシフィックさんの好みに口を出すつもりはありませんが……この子は流石に若すぎると思いますよ。私よりも小さいじゃないですか」
「お、お前たち、なんでここに……」
「任務帰りだ。誰かさんと違ってな」
嫌味を込めてエマが言う。たしかパシフィックさんは花街の復旧を手伝うとかで戦争に参加していなかったはずだ。なのにこんな場所で女の子を口説いているのだからエマが怒るのも仕方がないと思う。
「違う、です。パシフィック様は私を助けてくださった、です」
向かい側の少女が弁解するように口を挟んだ。
「カーリヤ人、外の街では働けません。お金もらえない、仕事もない、お腹空きます」
「そっ、そうなんだよ。よその酒場で見かけたんだけど、この子、カーリヤ族だから不当な扱いを受けていてさ。情に厚い義勇兵としては見過ごせなかったというか……」
こくこくと少女が頷いている。意外とパシフィックさんにも良いところがあるらしい。軍のお金をちょろまかして借金返済にあてるような男だけど。
「パシフィック様、店主と喧嘩しました。私、追い出されました。仕事ありません」
「パシフィックさん、喧嘩ばかりしていますね」
「先に手を出したのは向こうだ。しかもこの子を殴ろうとしたんだ。俺は悪くねえ」
「だが君は仕事がなくなってしまったのだろう? これからどうするのだ?」
「大丈夫です。パシフィック様、おっしゃいました。“俺のもとに来い”って」
「やっぱり下心が……」
「ないっての!」
本当かなあ。この人、ロリコンだからなあ。
私とエマの疑うような視線に居心地が悪くなったのか、パシフィックさんは誤魔化すように酒をぐびっと飲んだ。
「とにかく行き場がないから花街に来るように提案したんだよ。もちろん売りをさせるつもりはないぞ。俺が紹介すればある程度まともな仕事に就けるはずだ」
「さっき、マダム・リンダがいなくなったって聞こえましたけど、今は誰が統治しているんですか?」
「誰もいねえよ。おかげで無法地帯になりかけていたから、俺みたいな手の空いた義勇兵が自警団をしている」
「でもマダムはそのうち帰って来ますよね。後で問題になりませんか?」
「うーん……いや、大丈夫じゃねえかな。なにせマダムが向かったのは旧シャトルワース領だぜ?」
ああ、確かに。マダム、もう帰らないかもね。また今度セルマに会ったら聞いてみよう。
「ちなみに、えーっとあなたは……」
「パリータです」
「パリータはどうして故郷を離れて暮らしているんですか?」
「兄を探しているです。兄、戦争に参加していなくなりました。でも死んではいません。死んだらわかります」
「なるほど。素敵な兄妹愛だ」
「茶化すのはやめなさいエマ。見つかるといいですね。それじゃあパリータもカタビランカに来るんですか?」
「行きたいです。でも……私、契約あります。借金返すまでこの街出られません」
パリータが右腕をまくった。少女の細い右手首に腕輪がつけられている。ただの腕輪ではない。表面に魔導回路が刻まれており、魔術の中でも強力とされる契約魔術の一種だとわかった。あの腕輪が擬似的な呪痕の役割を果たし、契約が破られた場合は着用者に相応の対価を払わせる。契約の内容によっては無論、命を落とすこともある。
「それが明らかに不当な契約なんだよ。酒場の薄給じゃあ利子ばっかり高くなる。ヒスロンの沼地で蛙漁をしたほうがまだ稼げるぜ」
「いくら借りているのだ?」
エマの問いにパシフィックさんが指を立てて答えると、彼女は「なんてこった」と言いたげに口を曲げた。義勇兵として危険に見合うだけの報酬を貰っている私たちからすれば大金ではないが、パリータのような少女が背負うには大きすぎる額だ。パリータの様子から察するに、悪徳な高利貸しに捕まったか、返せないまま利子が膨れ上がったかのどちらかだろう。
「だから俺が肩代わりするって言ってるんだが……この子、かたくなに頷かないんだよ。借金を返す先が俺に変わるだけだぜ? 別に利子なんていらねえし、カタビランカで真面目に働きながら兄貴を探して、いつか貯まったら返してくれればいいのに、カーリヤ人は借りを作らないって頑固なんだよ」
なんとなく、パシフィックさんが借金をしていた理由がわかった気がする。意外と誠実な一面もあるようだ。もちろん軍のお金を横領するのは良くないけれど、戦場でパラアンコ軍の装備が貧弱だったことを考えると、軍備資金がまともに使われていないのは明白だ。どうせ軍の偉い人と貴族が癒着しているのだろう。ならばパリータのようなむこの民を救うために横領するのも悪くないかもしれない。
「この腕輪、強力です。あなたが肩代わり、呪い受けます。とっても危険です」
「俺だって魔術士の端くれだから、その魔導具がどういうものかわかっているさ。こう見えて準一級魔術士だぜ? 呪い程度へっちゃらだよ」
「危険、です!」
なるほど、これは堂々巡りだ。たしかに契約の魔導具を無理に外すのは危険である。私もルル婆の屋敷で身をもって体験したからわかるけど、呪い返しと呼ばれるものは本当に強力なのだ。あれは暑い日のこと、ルル婆が「呪いの危険性を教える」と言って私に契約をかけた。修行の一環だから軽い契約だったけど、その日は日が暮れるまで立ち上がれなくなった。動けない私にセルマがいたずらをしたのは今でも許していない――。
閑話休題。
呪いと呼ぶと恐ろしいものに聞こえるが、構造自体は魔術と同じだ。魔導具に呪い返しの回路が組み込まれており、条件を満たすことで魔力が流し込まれて発動する。
「腕輪を見せてもらっていいですか?」
パリータの手を取った。病的なほど細い腕。私のような義勇兵と違って、まともな食事を取れていないのだろう。少女の手を労りながら腕輪に触れる。魔導回路を調べてみると、思ったとおり呪い返し用の回路が組まれていた。ご丁寧に防護用の魔術もかけられている。
私は鞄から戦場で拾った赤硝の破片を取り出すと、適当な布の上に乗せて、髪の毛を何本か切って破片に混ぜた。それから学院で習ったことを思い出しながら魔力を込めた。
「何、しているですか?」
「錬金術です。見るのは初めてですか?」
「錬金術、しりません。とっても綺麗です」
髪の毛が糸のように赤硝と布を繋ぎ、薄紫色の光を放ちながらゆっくりと溶けた。やがて三つの材料が完全に混ざり、赤みを帯びた布が手の上に残る。赤硝は魔術に対して高い抵抗を持っており、これと混ぜればただの布が簡易的な防護服になるのだ。出来上がった布を腕輪と肌の間に差し込み、きちんとパリータの肌が保護されるように巻いた。
「ちょっと痛いかもですが我慢してくださいね」
「え、ちょっとメヴィちゃん!?」
パシフィックさんが止めようとしたが、私は素早く呪痕に力を込めた。しゅわしゅわと音を立てながら魔導具が溶けていく。一瞬だけ回路が光った。呪い返しが発動した証拠だ。
少しずつ崩壊する魔導具。保護していなければパリータの腕も同じように溶けていただろう。我ながら恐ろしい魔術だ。でも怖がられるかなって思ったけど、パリータはきらきらとした目で腕輪を見ていた。
やがて腕輪の上部分が完全に溶けてしまうと、支えを失った腕輪が勢いよく床に落ちた。ぼろぼろになった断面から未だに煙がのぼっている。
「契約はなくなっちゃいました。これで心置きなくカタビランカに行けますね」
「メヴィちゃん……頼むから一言伝えてからにしてくれ。いや、気持ちは嬉しいし助かったんだけどね、俺の心が持たないんだわ」
「ありがとうございます! あなた、とっても凄い魔術士です!」
「ふふん。準二級の名は伊達じゃないのです!」
そういえば、これだけ騒いでいるのに店員から苦情が来ない。不思議に思って周りを見渡すと、誰一人として目が合わなかった。まるで私たちの姿が見えていないかのように。いや、本当に私たちの存在を認識できないのだろう。
私の様子に気づいたパシフィックが軽くウィンクをした。騒ぎにならないように幻術を使ってくれたらしい。さりげなく気を遣ってくれるあたりがパシフィックらしいというか、手慣れている感があるというか。
「メヴィちゃんはいつ街を出るんだ?」
「今日着いたばかりですが、補給に寄っただけなので明日には出発すると思いますよ」
「慌ただしいねえ。それじゃあ俺たちのほうが後になるな。カタビランカに帰ったら花街の様子を見てくれないか? うちの部隊が見回りをしているはずなんだが、もしサボっていたら注意してほしい」
「ですってエマ。私は小娘なので、花街のことは任せました」
「む? むう、まあ仕方がないな」
パリータが名残惜しそうに見上げるから、道中は気を付けるように言って彼女の頭を撫でた。まるでお姉ちゃんになった気分だ。エマが隣でなにか言いたそうに見つめてきたが無視をした。
二人に別れを告げてから元の席に戻ると、アルジェブラさんが先に料理を食べていた。
「あら、おかえりなさい。先にいただいているわ」
私とエマは思わず顔を見合わせた。先に食べているのは構わない。問題なのはアルジェブラさんが食べている量だ。テーブルに並ぶ大量の料理。大人の男性が三人集まっても食べきれないほどの量を、アルジェブラさんは平然とした顔で食べていた。
「アルジェブラさんって大食いでしたっけ……?」
手を止めずにアルジェブラさんが答えた。
「いくら食べてもお腹が満たされないのよね。どうしてかしら……不思議だわ」
首を傾げる彼女はなんだか不穏な目をしていた。何かに憑かれたようにぼんやりと宙を見つめている。霞がかった瞳で一体何を見ているのか。なんだか怖い雰囲気だ。
「そのあたりでやめておけ。路銀が尽きるし体に悪い」
見かねたエマが止めた。私たちは残った料理に手を伸ばす。タロッコの実を贅沢に使ったパイ、プーレ鶏の香草焼き、帝国産の豚の腸詰、探鉱者が愛する葡萄酒とパン。決して安くない料理のはずだけど、向かい側に座るアルジェブラさんの様子が気になって集中できない。
結局、料理の味はよくわからなかった。何がおかしいのかわからない。でも、何かがおかしい。致命的なズレが目の前で広がっているような予感。その正体を掴めぬまま、私たちは酒場を後にした。
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