献身欲求
畑中みね
第1話:今日から私は魔術士です
――奉仕せよ。
聞き覚えのある声に目が覚めた。
最初に見えたのは初老の女だ。なにかを私に語りかけている。だが、頭がぼんやりとして彼女の言葉を聞き取れない。女は奇妙な格好をしていた。枯れ木のような薄茶色の髪。いかにも怪しげなローブを羽織り、右手から顔にかけて灰色のタトゥーを彫っている。なかなかにイカした婆さんだろう。
なぜ彼女の格好を奇妙だと感じたのかはわからないが、おぼろげな思考で「コスプレにしては出来すぎている」と感じた。そんな感想も、数秒たてば忘れてしまった。
ただただ眠かった。まるで深い眠りから強引にゆり起こされたかのように、猛烈な睡魔がもやとなって脳を支配する。ああ、いっそのこと、睡魔に身をゆだねて眠ってしまおうか。そう思ったとき――。
「はよう目覚めい」
「あいたっ」
頭に衝撃が走った。引っ叩かれたのだ。
反射的にまぶたを開けると、私はひどく散らかった書斎の中心に座っていた。インクが滲んだ羊皮紙が床に散らばったまま放置され、古風な装丁の本がそこかしこに積み上がり、ランプに照らされていびつな影を落とす。きっと初老の女は奔放で大雑把な性格なのだろう。私はなんとなく近くの本に手を伸ばそうとしてみたが、思っていたよりも自分の腕が短かくて届かなかった。視線も低く、声も高い気がする。はて、私はこんなにも幼かっただろうか。
「右腕は痛むか?」
そう言われて初めて、私の右腕に奇妙な痣が広がっていることに気がついた。目の前の女と同じく、灰色の不気味なタトゥーだ。彼女の痣が顔にまで刻まれていることに対し、私の痣は雑草が生えた程度の小さなものだった。
「痛くないです」
「ふむ、痛覚が鈍いのう。魂と肉体の解離によるものか。まあいいじゃろう。そんなこともある」
そんなこと、で済ましていいのだろうか。よくわからないが頷いておこう。
「それが“
「私は魔術が使えるのですか?」
「使えるようになる。なにせわしの弟子になるんじゃからな――」
そこまで言ってから、女は思い出したように言葉を切った。
「そういえばおぬし、名は?」
「名?」
首をかしげてみると、女は残念そうに眉を下げた。
「記憶までは引き継げないか。まあ仕方がない。長く輪廻の海を漂ったんじゃ、成功しただけでも十分じゃろう」
彼女はそう言って人さし指を立て、まるで宙に絵を描くように滑らせると、散らかった本から一枚のページが千切られて私の前に浮かんだ。初めて見る、本物の魔術だ。にわかに光を帯びた紙切れが、とんでもない宝物のように映った。
「誇り高き“輪廻の魔女”ルーミラ・ルーがおぬしに名を授けよう。光栄に思うがよいぞ? わしが弟子を取るなんて前代未聞。明日の魔女新聞にでかでかと載るじゃろうて」
誇り高いと自称した魔女が意味ありげに笑った。ページに書かれていた文字がみるみるうちに消え、代わりに新しい文字が焼きついた。知らない文字だが読める。ジジッ、という小気味良い音とともに、紙の焦げる匂いがした。
「おぬし名はメヴィ。“心のままに”という意味じゃ。歓迎するぞ、新たなる魔術士の卵よ」
怪しげな魔女に導かれるまま、私は魔術士になった。
○
どうやら私は八歳らしい。知識を飲み込みやすく、かつ魔術士の特訓に耐えられるぎりぎりの年齢だと魔女が言った。実年齢はもっと上だった気がするが、余計なことを言うのはやめておこう。沈黙は金だ、とかすれた記憶が教えてくれたから。
「彼らは使用人ですか?」
私は屋敷のなかをパタパタと歩く人間達を指差した。年齢は様々だ。魔女よりも歳上と思われる男や、若く麗しい乙女、もしくは私と同い年ぐらいの男の子もいる。
「あれはわしの魔術で魂を吹き込んだ、いわば
「死霊術ですか」
「そんな下賤の魔術と同じにするでない。魂を失った肉体に精霊を宿した高等魔術であり、断じて中途半端な死霊術とは違うのじゃ。おい、セルマ」
セルマ、と呼ばれた使用人が足を止めた。癖のある黒髪をした、線の細い少年だ。無表情で大人しそうな雰囲気だが、一瞬だけ面倒臭そうに顔をしかめたのを私は見逃さなかった。
「お呼びでしょうか」
「こいつはメヴィ。新しい弟子じゃ。しばらくはうちで面倒をみるから頼んだぞ。なに、魔導協会に加盟するまでの間、魔術について色々と教えてやれば良いだけじゃ」
「弟子の世話は契約に含まれていません。そもそも弟子に教えるのはあなたの役目でしょう」
「固いことを言うでない。わしは教えるのが苦手なんじゃ。おぬしがそうやって小言を言うから、見てみろ、わしの髪がまた白くなってしもうた」
「それは歳のせいです」
すでに言うことを聞いていないが大丈夫だろうか。
セルマは
「私も
「おぬしは間違いなく人間じゃが、おぬしに使った魔術は
「親戚」
魔女が細くて歪んだ指を私に向ける。魂のありかを指し示すように、私の心臓をまっすぐ指差す。
「細かいことはどうだっていいじゃろう。おぬしは輪廻の海をかき分けて魔導の世界に舞い降りた……それだけで十分じゃ! カカッ!」
陽気に笑う魔女を見ていると、たしかにどうだっていい気がした。私はここに生きている。これから魔術士になる。理屈なんてよくわからないが、今はそれだけで良いのだ。
「ああ、それと、おぬしはもう少し表情をどうにかせい」
「表情?」
「そうも無表情で淡々としていると、わしの弟子として印象が悪いからのう。このひねくれ
「誰がひねくれ
セルマが不服そうに口元を歪めた。なるほど、確かに人間っぽい。
威厳のある顔をすればどうだろうか。幼子特有の丸みを帯びた頬に両手をあて、むむむっと押し上げてみる。残念ながら、もちのように弾むだけで威厳の“い”の字も感じられない。それどころか「ぶっ」と吹き出す使用人の声が聞こえた。まったくもって不本意だが、格好いい女性路線は向いていないようだ。
今度は別の女の子を想像してみる。できる限り普通の、友達想いで優しくて、誰かのために行動するのが大好きな女の子。おや、おやおや、思っていたよりも上手く想像できた。まるで過去の自分だと錯覚しそうなほど解像度が高い。
「おぬし……」
魔女が奇怪な生き物を見つめるような視線を向けてきた。私は構わずに、想像した女の子を模倣してみる。腰は少し曲げたほうがいいだろう。上目遣いで顔を上げ、魔女と目を合わせる。
そして気弱そうに、さも無害な小動物のように、眉を下げてにへらと笑みを浮かべるのだ。
「よろしくお願いします、師匠」
私は笑う。にっこりと笑う。右腕の呪痕がわずかに光った。
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