番外編04エルシーの帰郷


 正式な婚約者となってから、エルシーは空いた時間でライナスの手伝いを自らするようになり、執務室にいるのが当たり前になっていた。


 執務の邪魔にならないよう、エルシーは一段落したところでライナスに話を切り出すことにした。

 

「殿下、来週から一旦、領地に父と母と共に帰らせていただきたいと思っています」


 ライナスは執務の手を止め、エルシーを見た。一瞬、発言の内容に虚をつかれたが、すぐにその意味を理解して頷く。


「あぁ、もうそんな時期でしたね」

「はい、狩猟大会の準備のため、先に領地に戻らせていただきたいのです」


 クルック家の治める領地は、王国の西側にある。そこには、大森林と呼ばれる森が広がっていて、一年に一度、クルック家は狩猟大会を開くことになっている。

 

 大森林は、普段は領地に残っているエルシーの兄夫婦が管理を任されていた。次期クルック伯爵として、今、研鑽を積んでいるのだ。


「今年は、私が父に代わり参加することになりましたから、楽しみにしていますね」

「殿下がいらっしゃるのですか?」

「ええ、父上には王国で養生してもらいますよ」


 社交シーズンが終わり、各貴族が領地へ戻る頃に狩猟大会は開催される。例年は、国王が娯楽として参加していたが、今年は王妃のこともあり気落ちしているため、ライナスが名代になるらしい。


「私も殿下が来てくださるのを楽しみにしています」

「ええ。……ただ、執務の都合で、二日目からの参加になってしまうのですが」

「分かりました、準備は任せてください!」


 毎年、王家や貴族が滞在する別館はかなり手の込んだ準備をしているが、今年はより手が抜けない。エルシーは、帰ったら忙しくなると予定を頭の中で考え始めた。

 

 そんな彼女が自分としばらく離れることに特に何も感じていないことに気づいたライナスは、少し面白くない気持ちになる。

 

 椅子から立ち上がり、ソファに腰掛けるエルシーの隣へ移動した。


「殿下?」

「……今のうちにたくさんかまおうかと思いまして」

「そんな動物みたいな……それに、今はトレイシー様もいらっしゃいますよ」


 コホンと部屋の端からわざとらしい咳払いが聞こえ、トレイシーが眼鏡のアーチを指先で押さえる。それをライナスは一瞥して、笑顔を浮かべた。


「あぁ、あれは壁と一緒ですから」

「殿下っ……!?」


 さすがに堪えたらしく、トレイシーが不服そうな顔をする。そのやりとりがなんだかとてもコミカルで、エルシーは思わず微笑んだ。

 

 そして、ライナスはすっかり気の抜けたエルシーの手を取り、彼女の手の甲に口付けを落とす。


「エルシーが少しは離れがたいと思ってくれるといいんですが」


 顔を上げてそう言うと、青い瞳でエルシーを射抜いた。エルシーは、取られた手を自分の胸元に戻し、恥ずかしいのをごまかしながら、小さく呟く。


「……早くいらっしゃってくださいね」


 ライナスはその言葉に思わず彼女の体を引き寄せそうになるのを抑えて、頷いた。

 

 そして、甘い空気に当てられそうなトレイシーは、もう壁になろうと心を無にしたのだった。


 ◇


 同日、アストリー公爵家。

 

 以前、ライナスと歌劇場で出会い、そしてこの間フラれたばかりの公爵令嬢――ブレンダ・アストリーは、兄のジョエル・アストリーの出迎えをしていた。

 

 ジョエルは、今日、隣国の留学から帰ってきたばかり。再会はゆうに数年ぶりとなる。


「お兄様!」

「ただいま、ブレンダ。待っていてくれたんだね」


 絹のように白い長髪を首の後ろで束ねた青年が馬車から降りて、ブレンダに手を振りながら近づいてくる。


「楽しみに待っておりましたから」

「優しい妹を持って嬉しい限りだ。さあ、僕がいなかった間の話を聞かせて」

「ええ、ええ。ぜひ聞いてくださいませ!」


 優しくて美しい兄は、ブレンダの自慢だ。二人は並んで、屋敷の中へと向かう。居間にはすでに二人のための茶会の席が設けられていた。

 

 席に着いて、ジョエルのいなかった間の国内の話や、留学先の隣国の話をする。手紙でのやり取りはあったものの、ひさびさの兄妹の会話は弾みに弾んだ。

 

 話題が一区切りつくと、ジョエルはカップを置いて、ブレンダに視線を投げる。ブレンダは、兄の目を隠す薄青のレンズを見つめた。


「そうだ、ブレンダ。ライナス皇太子が婚約したと聞いたよ」

「……そうなのです」


 先ほどまでの楽しそうな声色が、随分と落ち込んだトーンに変わる。

 

「ブレンダは、あの方に想いを寄せていたのだったね」

「……はっきりと断られてしまいましたわ。」


 勇気を出して想いを伝えようとした時、ライナスから、これ以上の話は聞けないと言われてしまったことを思い出す。

 

 まさか自分より格下の家格の令嬢が、試験までパスして本当に婚約者になるとは、ブレンダも思っていなかった。


「そうだったのか。辛かっただろう。傍にいることもできず悪かったね……」


 ジョエルは、ブレンダの隣に座り直し、彼女の肩を抱く。そんな兄の肩に頭を預け、ブレンダは口を開いた。


「いえ……はっきり言っていただいたおかげで、もうこの想いは忘れようと思えましたの。あの方には感謝しておりますわ……私も家のために、きちんと自分の将来を考えます」


 あんな美しい王子に愛されてみたい。そんな幼い子どものような憧れはもう捨てるべきなのだ。


「……ブレンダ、君は随分素敵な女性に成長したようだね」

「お兄様にそう言っていただけて、嬉しい」


 ブレンダは頭を上げて、体を離してから、ジョエルに向き直る。すると、珍しく兄が色素の薄い瞳を守るための眼鏡を外していることに気づいた。金色の瞳が、ブレンダを映している。


「相変わらず、素敵な色の瞳ですね」

「ありがとう、さあ、よく見ていて」


 吸い込まれそうなその瞳に見惚れてしまい、目が逸らせない。


「ねえ、ブレンダ。君は素敵な女性だよ。ライナス皇太子殿下を諦めるなんて勿体無いだろう……?」


 ジョエルは、ブレンダの瞳を覗き込みながら、彼女の心に吹き込むようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……まだあの方を慕っていて、むりやり諦めようとしている……違うかい?」


 まるで幼児を寝かしつけるときのような優しい声に、ブレンダはこくりと首を縦に振った。


「諦めることなんてないんだ。ブレンダ、君なら、ライナス皇太子の婚約者を引きずり落とせる……できるね?」

「……はい、お兄様」


 はっきりと肯定を示した妹に、ジョエルは微笑みを浮かべた。


「……君の想いを叶えよう、そして私もね」


 ブレンダはまた、こくりと頷いた。

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