30:秘匿(1)
次の日、ライナスがエルシーの様子を見に行くと、エルシーは眠っていた。痛み止めの副作用でどうしても眠っている時間が多くなってしまうらしい。
その寝顔を見つめながら、ライナスはエルシーの左手を自身の両手で包み、物思いにふける。
母親のことを話した時に、エルシーがライナスを慰めようとしてくれていたことに彼は気づいていた。けれど、その言葉を聞いたら、きっとエルシーを手放せなくなると、その言葉をはばんだ。
エルシーが婚約者として任命式に参加することに不安を抱えていたという母の言葉がライナスを臆病にさせたのだ。
エルシーにとっては、仮初の関係。約束通り、解放しなくてはいけない。だから、エルシーが無事だったというそれだけで良い。それ以上は、望まない。
ただ、この関係が終わるまでは、傍で彼女のいろんな表情を見ていたい。
「……エルシー、あなたのことが好きだ」
小さく呟いた言葉は、ライナスの胸の中だけに秘められていた。
◇
それから一週間後、エルシーの体にあった痣も薄くなり、痛みもほとんど感じなくなった頃、やっと医局から出ることが許された。使用人に手伝ってもらって病衣から、締め付けの少ないドレスへと着替える。
この一週間で、あれこれと考えを巡らせていたエルシーは自分の役割が終わったことにすでに気づいていた。おそらく近いうちに婚約者候補の任は解かれ、ただの伯爵令嬢に戻るのだろう。
部屋に戻ったら、荷物をまとめて屋敷へ戻る準備をしなくてはと、エルシーは胸に燻る想いにも蓋をする。
王城の貸し与えられていた部屋へ戻ると、使用人に声をかけ、外へ出ていてもらった。これだけ動ければ、いつ屋敷に戻るように言われてもおかしくはないので、もう荷物をまとめておこうと思ったのだ。
二ヶ月の間に溜まった私物はそこそこの量になった。それらを持ってきてもらった時のようにまとめていく。
ふと、自分で刺繍を刺したハンカチが目に入った。ライナスが契約の終わりまで貸してくれるという青い花のイヤリングをイメージして暇つぶしに刺したものだ。
ドレスやイヤリングのお礼に何か返そうと思い立って作ったものの、なかなかその機会は訪れなかった。
できればライナスに渡したいが、ラッピングなんて準備している時間はあるだろうかと部屋を見回す。部屋には当たり前だがそのようなものはない。どうしようかとハンカチを見つめ、しばし考え込む。
すると、扉がノックされた。外から、使用人が声をかけてくる。
「お嬢様、皇太子殿下がお呼びでございます」
「えぇ、今行くわ」
エルシーはドレスのポケットにハンカチを慌てて入れて、廊下に出た。いつものように、フィルが迎えに来ている。
久しぶりに顔を合わせる人物に会釈して、二人で連れ立って廊下を歩いた。
「クルック嬢、体は大丈夫ですか」
珍しく、フィルが自分から話しかけてきたので、エルシーは笑顔で答えた。
「えぇ。もうすっかり良くなりました。まだ少し痣が残ってしまっているのですが、この通りです」
「良かったです」
フィルの隣を歩きながら、ここを歩くのも、もしかしたらこれで最後かもしれないとエルシーは眉尻を下げた。
しかし、いつもならライナスの執務室へ行くために曲がるところで、フィルは曲がらない。
どこへ案内しているのかとエルシーは隣を歩くフィルの顔を伺った。その視線には気づいているのだろうが、フィルはもう、いつも通りの無口に戻っている。
しばらくしてたどり着いたのは、エルシーが初めてライナスと話をした部屋の前だった。フィルに促されて部屋へ入ると、ライナスとトレイシーがいる。
さらに、机の上には見覚えのある封筒があった。あの中には例の契約書を入れていたはずだ。
フィルはいつも通り扉の前で護衛として立ったままなので、エルシーは一人でライナスの座る向かいのソファへと進んだ。
「エルシー、どうぞかけてください」
「ありがとうございます、殿下」
エルシーがソファにかけると、使用人がお茶を入れて部屋を出ていく。部屋の中に三人だけになったところで、ライナスが口を開いた。
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