第25話 エレナから見た婚約者

 エレナがノアの身の回りの世話を始めてから感じたことは、彼があまりにも無気力だということだった。


 基本的に彼は部屋から出ることはなく、やることといえば屋敷内にある図書館へと向かい本を読むだけ。


 それ以外は何もせずじっと窓の外を眺めるだけで、時々ノアが本当に生きているのか、実は人形なのではないかと思うほどに無気力だった。


(任務とはいえ、こんな彼を監視して報告する必要はあるのでしょうか)


 世話が掛からなくて楽ではあるが、時折この世からふとした瞬間に消えてしまいそうな危うさは、見ているだけで不安を感じさせる。


 ノアの監視を始めて二ヶ月が経った頃。ノアのもとに一人の客がやってくる。


 この日のために一ヶ月前から身なりを整えていたノアは、まるで大切に育てられた貴族の子供のように綺麗な格好をしており、その時だけは敬い傅くメイドや執事たちの姿を見たエレナは、その光景に恐怖を覚える。


(この屋敷の人たちは、みんなおかしい)


 しかし、エレナが一番恐ろしいと感じたのはノア自身であり、彼はこの状況に文句の一つも言わず受け入れると、寧ろ「ありがとう」と感謝を口にしながら世話をされたいたのだ。


 そんな異様な雰囲気に恐怖を感じながら一ヶ月を過ごすと、ノアの婚約者であるイリアがファルメノ公爵邸へとやってきた。


「ノア。久しぶり。元気にしてた?」


「久しぶり、イリア。俺は見ての通り元気だったよ」


「ふふ。そっか…、ね」


 イリアはそう言って僅かに目を細めると、何かを確認するようにノアの全身に視線を向ける。


「それよりノア。あなたの後ろにいるメイドを見るのは初めてね。よかったらあたしに紹介してよ」


「いいよ。彼女は二ヶ月前から俺の世話をしてくれているエレナ・マルシェだ。エレナ、こっちは俺の婚約者のイリア・ドルニーチェ。ドルニーチェ伯爵家の長女だよ」


「よろしくね、エレナ」


「よろしくお願い致します」


 イリア・ドルニーチェはピンク色の髪に蜂蜜を溶かしたような甘い黄色の瞳をした美少女で、体は小柄でありながらも、一つ年上のエレナよりも胸が大きく、なんとも庇護欲と包容力を兼ね備えた少女であった。


(なんだか……嫌な感じがしますね)


 イリアは笑顔でエレナのことを見ているはずなのに、何故か彼女からは言葉では言い表せないような威圧感を感じ、まるで蛇にでも狙われているような寒気を感じさせる。


「ふーん……根っからの敵ってことでは無さそうだね。まぁ、邪魔になりそうなら消せばいいかな」


 小声で話していたため聞き取ることはできなかったが、エレナは自身が品定めされている事だけは理解することができた。


「イリア、どうかした?」


「ううん。なんでもないよ。それより、公爵様たちに挨拶しに行こうよ。その後は、いつもみたいに二人でお茶会でもしよう?」


「はは。イリアは本当にお茶会が好きだね。わかった。なら、早く父上たちに会いに行こうか」


「うん!」


 イリアは元気に返事をしてから花が咲いたように笑うと、ノアと腕を組み、公爵たちが待つ場所へと向かった。





 公爵たちとの挨拶を早々に終えたノアたちは、エレナを含めた少人数の従者だけを連れて庭園でお茶会をしていた。


 その時、エレナはノアと話すイリアの姿を見て、彼女が心の底から彼を好いていることを察した。


 いや、好きなんて言葉はあまりにも軽く、偏愛や狂愛と言っても過言ではないその愛は、しかし当の本人であるノアには全く伝わっていないようだった。


(ノア様は鈍感なのでしょうか。いえ、おそらく他者からの愛情というものが分からないのでしょうね)


 エレナが聞いた話では、ノアの母親である前公爵夫人は彼が幼い頃に亡くなったらしく、それ以降は一人であんな生活をしてきたらしい。


 であれば、ノアが人の愛を理解できなくなるのも当然であり、更に言えば実の父親からあんな扱いを受けているのだから、愛なんて抽象的なものを感じられなくなるのも当然であった。


 それからしばらくはイリアと落ち着いた時間を過ごしたノアだったが、彼女が自分の領地へと戻ると、またいつもの部屋へと戻され、世話役はエレナ一人だけとなる。


 それからさらに半年ほどが経つと、ノアは12歳となり、職業選定の儀を受けることになった。


 その儀式で魔法職を授かっていればまだ扱いもマシになったかもしれないが、彼が授かったのは器用貧乏と呼ばれる最低職の魔法剣士で、その日から彼が部屋へと戻ることはなかった。


 エレナは部屋に戻って来ないノアが心配ではあったが、自身の役目はノアの監視であり、任務を放棄すれば殺されるのは自分だと理解していたため、彼女が何かをすることは無かった。


 ノアの儀式が終わってから一週間が経つと、エレナは自分が所属する部隊のリーダーに呼ばれ、彼のもとを訪れる。


「エレナ。これまで監視の任務ご苦労だった。本日、最後の役割を果たせばこの任務を終了とする」


「ありがとうございます。それで、最後の役割とは」


「お前も知っていると思うが、ノア・ファルメノの職業は魔法剣士だった。公爵様はノア・ファルメノが魔法職を授かれば何かに使えるとお考えのようだったが、今回の件で奴を処分することを決定された」


「処分…ですか?」


「その通りだ。だが、屋敷内で病死したとなれば外聞も悪く、さらに何か勘繰ってくる者たちも現れるため、奴の処分は公爵領内にある貧民街で行うことになった。その後は適当な貧民を犯人に仕立て上げ、公爵様は息子を殺された被害者として地位を固めるつもりでいらっしゃる」


 ここまでの説明を聞いただけでも、公爵は人間のクズであり、もはや本当に人間なのか疑いたくなるような腐った性格である事が分かる。


「そこでお前に任せたいのは、隠し通路を使いノア・ファルメノを脱出させ、その後は貧民街へと奴を連れていき始末することだ」


「え……?」


「だが、始末と言ってもお前が手を下すわけじゃないから安心しろ。殺すのは他の暗殺者に任せる。お前はノア・ファルメノを外へと連れ出し、合図を送るだけでいい。できるな…?」


「………」


「できないのか?なら、作戦を知った以上お前をここで殺すことになる。それと、ついでにお前がいた孤児院の仲間たちも殺してしまおうか」


「そ、それは…」


「守りたいのなら…わかっているよな?」


「わかり…ました…」


 無関係な孤児院の友達たちまで人質に取られてしまえば、エレナに選択肢などあるはずも無く、彼女は命令に従うことしかできなかった。


 それからは指示通りに行動したエレナだったが、一週間ぶりに会ったノアは身体中にアザがあり、生きているのが不思議なくらいにボロボロな姿をしていた。


 しかし、一番変わったのは彼の放つ雰囲気で、これまではまるで仕方なく生きている人形のようだったが、今の彼は今この瞬間を楽しんでいるようで、傷だらけのはずなのに何故か生き生きとしていた。


 エレナは何があったのか理解することはできなかったが、ようやく生きようとしている彼をこれから死地へと連れて行かなければならないのだと思うと、胸が締め付けられたように痛くなる。


(これは仕方がないこと。大丈夫。私は合図を出したら後は隠れればいいだけ)


 自分勝手だということは分かっていても、人の命の価値が軽いこの世界で他者を気遣う余裕などあるはずもなく、エレナは自分にそう言い聞かせながらノアを指示された場所へと連れて行こうとする。


 しかし、そこで全く予想もしていなかった言葉を、エレナの後ろを歩いていたらノアから掛けられる。


「一つ聞きたいんだが、お前の知り合いっていうのは、さっきから俺たちを隠れて監視しているやつらのことなのか?」


(まさかバレた?!)


「あはは。エレナ、お前は暗殺者失格だな。そんな簡単に表情に出したら、自分も仲間だと言っているようなものだぞ?」


 そう言って笑いかけてくるノアの表情は、確かに笑っているはずなのにどこまでも冷たく、まるで猛獣の尻尾を踏んでしまったような恐怖がエレナに警鐘を鳴らす。


「みなさん!私たちのことがバレています!早く始末しましょう!」


 殺さなければ殺される。それを感じ取ったエレナはすぐに声を出して仲間の暗殺者たちに指示を出すと、隠れていた暗殺者たちが姿を現した。


 多少のトラブルはあったが、これで任務は達成したと安堵したエレナだったが、数十分後には絶望することになる。


 何故なら、四人もいた暗殺者たちがレベル1で戦闘経験すら無い12歳の子供に全滅させられ、彼を裏切った彼女だけがその場で生き残ってしまったのだから。






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