第10話奥方様(近日予定)は見てしまいました!
レンブラント館へ参りまして、三日目の朝のことでございます。
朝日がもうすぐ昇るという頃、空腹のあまり目が覚めてしまいました。健康な証拠ではありますが、貴婦人としては感心できない……なんて言われそうな気もします。
特に、リヨンとか。
でも、お腹が空いちゃったのは本当なのですもの。仕方ありませんでしょ。
いい匂いがしたのです。あれはパンの焼ける匂いでした。おそらくライ麦入りの丸パンでしょう。ああ、そう思うとますますお腹が空腹を訴えてくるのです。
こうなるとジッとしてなどいられません。
小間使いのマルゴが起こしに来るまでベッドの中で待っているのが決まり事(一昨晩そう教えられました!)なのですが、そっと抜け出すことにしました。
ご安心あそばせ。いきなり厨房に押しかけるなんてことは、さすがにいたしませんわ。空腹を紛らわせるために、身体を動かすことにしたんです。コルセットで締め付けられ、大人しく猫を被っている窮屈な生活は、身体がなまってしまいそうなのですもの。
二日で
音を立てず(ここ大事!)に腕や肩の筋肉をほぐし、手首、足首、身体の関節を――とやっておりましたら、外で物音がします。正確には窓の外――
予測が細かい? 私、耳もよろしゅうございましてよ。
急いで、でも忍び足で窓際に寄れば、ほら、やっぱり! 荷台に荷物をいっぱい積んだ荷馬車が、ロバにひかれて館の前を移動しています。しかも手綱を握っているのは、料理人のコルワートではありませんか! それともうひとり、昨日厨房では見かけなかった体格のかなり良い下女が荷馬車を後押ししていました。
ええ、視力もタカ並みに良いのです。私は!
次第にあたりは明るくなろうとはしていますが、こんな早朝からどこへ行こうとしているのでしょう。
館の裏手――おそらく厨房から回ってきたであろう荷馬車は、居館の私の寝室下を通りそのまま旧館の方へ。あちらの地下室にも貯蔵庫があるのでしょうか。
よくよく見れば、荷は焼きたてのパンや昨日食料庫で見た豆類の入った袋、ベーコンやハム。それから家庭菜園で収穫したであろうキャベツやタマネギ、ニンジン、カブ、ニンニクといった野菜類。
まさか、こっそり、どこかへ横流しをしようとでも? ふたりの表情を見ると、そんな風には思えませんわ。
では、あの荷はなに?
荷馬車は旧館前を通り過ぎると南へと、あの「近づいてはいけません」とリヨンに厳命された南の森の方向へと進んでいきます。まさかオオカミに餌をやろうという訳でもないでしょうけれど、だとしたらあの食料はどうなるの?
固唾を呑んで見ていたのですが、その時、扉をノックする音が。
眼下の状況に気を取られていて、マルゴがやって来るのに気付きませんでした。ヤバ……じゃなくて、これはいけません。ダッシュで(もちろん音は立てず!)ベッドの中へと潜り込み「たった今目覚めました」を装います。
「おはようございます、エムリーヌ様。お目覚めはいかがですか?」
ここでお腹が空きました――とは言えませんし、荷馬車の行方を問うわけにもいかず。
どぎまぎしていると、マルゴがスカート脇のポケットから、小さな包みを取り出しました。清潔な麻のナプキンに包まれたそれは、薄くスライスしたライ麦パンにチーズを挟んだものでした。
パンはまだ温かいですから、おそらくコルアートたちが運んでいた焼きたてのパンを少し分けてもらって、マルゴが即席に作ったものでしょう。この館で、私が食するパンは小麦で作られた白パンのみです。
「朝餐までまだ時間がございますから、そちらをお腹に入れておいてくださいませ。ささ、お早く。他の者たちに見られたら厄介なことになりかねませんから」
ありがとー。さすが、私付きの小間使いです。なんて気が利くのでしょう。もう、マルゴにだったら笑われたって構うものですか。大口開けて、パクつきます。
「美味しい!」
「まあ。由緒正しいレンブラント伯爵夫人がライ麦パンを美味しいなんて、いけませんわ。貴族の方々は白パンを召し上がるものです」
「私、元は貧乏貴族の娘ですから、雑穀入りのパンだって大好きですわ。むしろ雑穀入りパンばかりを食して参りましたのよ」
主食のパンですが、裕福な王侯貴族は白くて柔らかい白パンを食することが出来ましても、農民はライ麦やオート麦など安い雑穀を混ぜた黒くて堅いパンしか食べられません。そちらの方が安価ですし、保存も利きますから。当然、貧乏貴族の実家ホルベイン男爵家も、雑穀入りパンがメインでした。
それさえままならないときは、粥ですよ。ドロドロに煮込んで、それを啜っていました。
「エムリーヌ様も、お辛かったんですね!」
泣きそうな顔をして同情してくれるマルゴなのですが、今、「も」って言いましたよね。「エムリーヌ
「あたしだって、伯爵様にか……、あ! 大変。他の者たちが参りました。急いでっ!」
廊下から数名の足音が聞こえて参ります。うわっ、マルゴ以外の私付きの侍女たちが、朝の支度を調えようとやって来たようです。軽食を挿し入れたことでマルゴが咎められるようなことはないと思いますが、食いしん坊の奥方様の醜聞が広まることは避けたいです。
最後の一切れを口に放り込み、急いで咀嚼。間一髪のところで、胃の中に送り込みました。
かろうじてバレずに済んだようです。ホッ!
そうです。どうしてマルゴが朝食前にも関わらず、お腹になにか入れておくように計らってくれたのか。ですわよね。
朝食前に沐浴するんです。洗顔して、歯磨きして、沐浴。洗髪もします。贅沢ですし、なによりさっぱりとして気持ちいい。――と、ここまでは良いのですよ。
その後、お肌に香油を塗り込んでマッサージして、髪の毛を梳って、化粧して結髪に着付け……と、もしかしたら私は侍女たちの玩具にされているのではとも思いたくなるような
それはもう、彼女たちは丹精込めてお手入れをしてくれるのですが、熱心過ぎて、恐ろしいものさえ感じるほどなのです。その甲斐あって、髪も肌も短期間で見違えるように艶が出てきました(……それは嬉しい)が。
美しくなるのは侍女たちのいいなりに翻弄される恐怖心と表裏一体なのかよ、と。
これも伯爵様のお申し付け、貴婦人としての体裁を整えるための重要な条件だと彼女たちは申しますが、この扱いは「奥方様を麗しく磨きあげよう大作戦」と称して遊ばれているとしか思えません。
着用するドレスを選ぶのだって、けんけんガクガクの大議論大会が始まってしまうのってなぜですのっ!
私は着せ替え人形かーー!!
「エムリーヌ様を最高の花嫁に仕立てて差し上げますから!」
マルゴ以下侍女二名。三者三様に目を輝かせながら、そんな宣言をしてくださらなくても結構ですのにぃ~。
貴婦人たるもの、美味しい朝ご飯にありつく前にも一大試練が待ち受けているんですのよ!
ああ、そういえば。あの時、マルゴはなにを言いかけたのでしょう? ほら、伯爵様になんとか……とか言っていませんでしたっけ。
気になります。
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