第2話 なにもない僕がやりたいこと
どうしてもお礼がしたかった。彼に——。
あれから。七音は、あの男を探し続けた。あの桜並木に立ち、男を探したのだ。
しかし、彼を見つけることはできなかった。桃色に染まっていた桜並木も、今ではすっかりと葉を落とし、閑散とした光景になっている。七音の一つ上の先輩たちは受験で忙しい時期だ。
窓際にある自分の席に座って、七音はそっと外を眺める。隣の梅沢附属中学校の校舎は見えるが、もちろん、中の様子などはわからない。けれども七音はずっとその校舎を見ていた。このどこかに彼がいるのかと思うと、嬉しい気持ちになったからだ。
しかし、七音はふと教室に視線を戻した。いつもだったら、特段気にすることもないクラスメイトたちの会話の中に「附属中」という言葉が聞こえたからだ。
「吉田先輩は、桃花高校に行くんだって。高橋先輩は梅沢高校志望」
「本当に? それはすごいな。高橋先輩って、そんなに頭良かったっけ? 梅沢高校に入るには、学年で5番には入らないとやばいだろう?」
「市立の中学校から入るのは、かなりの難関なんだから。だから、みんな附属中にお受験をして、早めに進路を決めちゃうわけだよな。附属中に入れたら、よっぽどのことがない限りは、梅沢高校にストレートで入学できるから」
いつもはゲームやネットの話ばかりしているクラスメイトたちだが、受験が一年後に迫ってきているのだ。意識したくなくとも、意識せざるを得ない状況のようだ。
市内で一番の進学校は梅沢高等学校だ。国立大学の指定校推薦が受けられるということで人気は高い。しかも入学生の大半はこの附属中学生が占めてしまうのだ。他の高校よりも倍率が跳ね上がるのはそのためだった。
(附属中生は梅沢高校に進学する。ってことは。もしかしたら、あの人も梅沢高校に行くのかもしれない。いや、きっとかなりの確率で梅沢高校に行くんだ。そしたら。御礼、言えるかもしれないんだ)
七音を助けてくれた男が、同級生なのか、先輩なのかはわからない。けれども、梅沢高校に行けば、会える可能性がある。そう思ったら心が躍った。
七音はそんな気持ちが外に出ないようにと、表情を引き締める。とクラスメイトの高梨と視線が合った。
どうやら無意識のうちに、彼らを凝視していたらしい。高梨は「なに見てんだよ」と言った。七音は、はったとして首を横に振るが、高梨はお構いなしだ。まるで嫌味のように「篠原はいいよな~」と言った。
「お前は頭いいし。けどさ。お前に必要なのは、いい大学に行ける高校じゃなくて、言葉を教えてくれる学校、だろう?」
彼は大きな声でそう言った。そばにいたクラスメイトの女子が「やめなよ。そういう言い方」と口を挟むが、高梨はやめる素振りはない。
女子たちの注目も集めて、余計に嬉しいのか、高梨は、「ぼ、ぼ、ぼくちゃん。うま、うまく、おはなし、で、できないか、ら」と、七音の口調を真似るようにおどけて見せたのだ。
高梨が話をしていた男子グループから笑いが起きる。七音は恥ずかしい気持ちになって俯いた。
七音は小さい頃から、言葉がうまく話せなかった。言葉の障害がある、と自覚したのは小学校の低学年のころだった。吃音症という診断を受けた。それから、時々、学校が準備した「言葉の学校」というものに通わされた。
しかし。七音の吃音症は、一向に改善する気配はなかった。リラックスしているときですら、うまく言葉が出ないのに。こうして人に注目されると、余計に言葉が出なくなってしまう。そのおかげで、小学校から一緒の高梨たちには、毎日のように揶揄われているのだ。
だからいつも一人でいる。それが一番楽だし、周囲にも迷惑がかからないと思っているからだ。
(そっとしていて欲しい。僕は一人でいいのに)
クラスが騒然となってきたとき、始業のチャイムが鳴りだす。次の講義担当に教師が「席に就けよ」と入ってきたのを合図に、クラスメイトたちは自分の席に戻っていった。
「おい。篠原。どうした。具合でも悪いのか?」
顔でも赤くなっていたのか。教師は七音に声をかける。すると、高梨がクスクスと笑っている様子が見えた。七音は首を横に振って見せる。教師は「ならいいが」と気にする素振りもなく、授業を始めた。
七音は自分自身が嫌いだった。どうして自分だけ、人と違うのかわからなかった。もう消えてしまいたい。消えてしまったところで、悲しむのは家族くらいなものだ。かといって、命を絶つほどのことでもない。家に閉じこもる勇気もない。
いったい、自分はなにをしたいのか、自分自身がさっぱり理解できなかった。だから、揶揄われても、嫌でも。朝起きて、ごはんを食べて学校に通った。そして、誰とも話をすることなく帰宅をする。
家に帰れば、やることもない。ゲームもうまくないし、趣味もない。ただ勉強をして夜は寝るだけ。それの繰り返し。
そんな、なんの面白味もない日常の中。突然——。キラキラの王子様みたいな男に出会ったのだ。あの男に執着するのは、当然といえば当然のことなのかもしれない。
(あの人に「ありがとう」って言いたい。だから、僕は——梅沢高校に行ってみたい)
七音は教師の話をそこそに、附属中学校の校舎に視線を戻した。
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