第5話 霞む顔


 翌日。重い足取りで学校へ向かった。初日から、変なことに巻き込まれた。母親がいなくてよかった。そう思ったものの、噂とは巡り巡っていくものだ。

 帰宅してみると、なぜか学校の違う姉、かなでから、「あんた、七の女王になったんだって?」と揶揄われた。

「女子高生の情報網、なめちゃいかんよ。今時は、どんな些細な情報でも漏洩するものなんだから」

 奏はニヤニヤと意地悪な笑みを見せている。着物から解放されて、ほっとした表情の母親は「七の女王ってなに?」と首を傾げた。

「梅沢高校に昔から伝わるジンクスよ」

 奏は七音よりも詳しく、七の女王についての説明をした。

「へえ、そんなことあるの。かずちゃん。ラッキーじゃないの」

「ど、ど、こが?」

「だって。先輩たちや、同級生とも仲良くできるんじゃない? そういえば、前に学校に問い合わせたとき、学力だけじゃなくて、部活動も盛んだって言っていたわ。文武両道ってね。かずちゃんも、なにかの部活に入らなくちゃいけないでしょう? そういうときに有利になるんじゃない」

(部活動……)

 七音の脳裏には、教室に押しかけてきた先輩たちの姿が浮かぶ。勉強ばかりの人生だったのだ。勧誘をされたところで、どの部活もまともに務まるとは思えなかった。

「七の女王なんてネーミング。素敵よね。さすが梅沢」

「ど、どういう、い、意味?」

「あら? 知らないの。梅沢高校っていえば……むふふじゃない」

「む、む、むふ、ふ?」

 奏はますます意地悪そうに笑う。

「昔から。梅沢高校には、学校内交際が、まかり通っているのじゃ。七音も素敵な彼氏見つけてきなよね」

 それに吹き出したのは父親だ。彼は読んでいた専門誌にコーヒーを吹きかけたのだ。

「あらやだ。お父さん」と母親は笑うが、父親は七音の元に駆け出してきた。

「まだ、嫁入り前だぞ。お付き合いだなんて、父さんは許さないからな」

「き、決まったわけ、じゃ、ないじゃない。ぼ、僕。別に……」

(そう。好きな人なんて……好きな人、?)

「いいか。そういう相手ができた場合、一番に家に連れてきなさい。健全なるお付き合いが必要だ。影でこそこそと付き合って、悪い結果になったのでは元も子もないのだからな」

「そっち? なに。いいの? お父さんは。七音のお相手が男子だったとしても」

 母親は呆れた表情を見せるが、父親は銀縁の眼鏡をずり上げると、「関係ない」といった。

 七音の父親はいろいろなことに寛容だ。精神科医ということが影響しているのだろうか。

「お前がいいと思った相手だ。父さんは全力で応援する覚悟はできている」

「だ、だから。いないんだ、って」

 なんだか大変なことになってしまった、と思った七音は自室に戻ることにする。今日は本当に疲れる一日だった。階段を上る途中で、ふと足を止める。七音の頭の中に浮かぶ人影は、獅子王だった。

(強烈すぎる。あのキャラ。ああ、ダメだ。あの人を探そうって思っているのに。獅子王先輩の顔しか思い出せなくなってしまった!)

 七音は首を横に振った。


(やっぱり、7はいいことがない。7は嫌い。出席番号変えてもらえないのかな)

 翌朝。憂鬱な気持ちを引きずったまま、昇降口から一年生の廊下に入った瞬間。七音は足を止めた。廊下にいる生徒たちが、七音を見て、ヒソヒソと囁き合っているのだ。

(帰ろうか。やっぱり。やっぱり。僕には……)

 思わず、一歩、二歩と足が後退していく。しかし、後ろにいた人に背中がぶつかってしまった。

「す、す、すみませ……」

 頭を下げて振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた生徒が一人立っていた。彼は「おはよう! 一緒に行こう~」と七音の腕を取った。

「あ、あ……あの……?」

「あ? おれ? おれは鯨岡ゆう。同じ7組だよ。よろしくね」

 七音は「うんうん」と首を縦に振った。優は「それにしても、昨日のアレは面白かったね」と七音の肩を軽く叩いた。

 七音にしてみれば、昨日の出来事は愉快なものではない。とても笑えないものだ。しかし、周囲からみれば「愉快な余興の一つ」くらいの話なのだろう。七音は押し黙って俯いた。

「いやあ、でもさ。やっぱ、かっこよかったよね~。獅子王先輩って!」

「あ、あの人の、こと。し、知って……る?」

「知ってるよ。獅子王たすく。合唱界では有名人だから。知らない奴はモグリだって言われちゃうくらいだよ。おれね。絶対に梅沢高校の合唱部に入ろうって決めてるんだ。だから、初日からあの先輩を拝めるなんて、本当に幸せ! 神だね。神。尊い! もう。本当、お前のおかげだよ!」

「あ、それから!」と優は急に立ち止まると、七音に顔を近づけてきた。

「獅子王先輩からスカウトされたんだから。お前は幸せ者だ! 一緒に合唱部で頑張ろう! よろしく~!」

 優は「あははは」と笑いながら七音の背を叩くと、先に教室に入っていった。

(そんなこと、言われても……。まだ。決めてない。合唱部なんて。歌なんて。僕。歌えるわけ、ない……)

 七音はじっとその場に立ち尽くす。昨日の獅子王の瞳を思い出した。

「待っている。お前の意志でこい」

 ——運命に流されて、自分自身を見失ってはならない。自分自身のことは自分で決めろ。

 彼はそう言いたいのだろう。その言葉は、ある意味冷たいようにも聞こえるが、そうではない。彼は七音をしっかりと一人の人間として認め、そして信じてくれているようにも思えた。七音をじっと見据えていたあの瞳の奥には、温かく、そしてキラキラと輝くものが見て取れたのだから。

(優しい人……、なのかも知れない。見た目は怖そうだったけど。あの人は、きっと。悪い人ではない)

「ち、違う。僕は……。あの人を」

 七音は何度も首を振るが、どうしても獅子王を思考から排除することはできなかった。

(どうしよう。このままじゃ、あの人のこと。忘れてしまうかもしれない)

 本当ならば、とても悲しいことであるはずなのに、獅子王を思い出すだけで、七音の心臓はドキドキと音を立てるのだ。

(どうしちゃったんだろう。なに、これ。僕、変になっちゃったみたいだ)

 そんなことをしていると、始業のチャイムが鳴りだす。七音は慌てて、教室に足を踏み入れた。

 クラスメイトたちは、相変わらず七音に興味関心の目を向けていた。不躾なその視線は、中学校の頃と変わらない視線だった。

「お前はいつも黙っているからな。聞いてないんだろうけど」

 高梨たちはそう言って笑った。「耳も聞こえていないんじゃないか」と何度も言われた。けれど。聞こえている。心は何度も傷ついている。けれど。それをどう表現したらいいのかわからなかった。だから、ただ黙って、そこにいた。本当は逃げ出したくて、耳を塞いでいた。あの日々が続くのか。そう思うと心がくじけそうになった。

 けれど。あの時の自分とは違うのだ。生まれて初めて七音は、自分の意志でここにいるのだから。拳をぎゅっと握りしめる。

 先に座っていた鯨岡優が七音に手を振っていた。クラスメイトからそんなことをされことはない。七音は戸惑い、それから軽く手を振り返すと、彼は満足げに笑みを見せてから前を向いた。

(ちょっと、違うのかもしれない。この学校は。中学校の頃とは、違う……。合唱部のことも、ちゃんと考えてみよう。もしかしたら、なにかきっと。いいことがあるのかもしれない)

 七音は荷物をロッカーにしまいながら、小さく頷いた。すると「また、お前か」と声がかかる。はったとして振り返ると、担任の藤田が教卓のところに立っていた。七音は慌てて頭を下げてから自分の席に座った。

(うう。悪目立ちばっかりじゃない。どうしたらいいんだよ……)

 一度そういう目で見られてしまうと、汚名返上は難しそうだ。一瞬でも「中学校とは違う」と思った自分がバカみたいに見えた。七音はため息を吐いてから、自分の席に腰を下ろした。







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