第82話 天守閣③
しばらくのあいだ、小田原城の天守から城下を見下ろしていると、背後から二人の声が聞こえてきた。
「……そういえば、氏邦。なぜお前はここにいるのだ? お前は今日の夕餉の指揮担当ではなかったか」
氏照が眉をひそめてそう言った。
二人とも警戒心は強いはずなのに、わざわざこちらに聞こえるような声で話している。
ということは、この会話はわたしが耳にしても構わない類のものなのだろう。
「……ああ、そうでありました。ここから城下を眺めていたら、ついうっかり忘れてしまいました」
「……」
「……」
氏照とわたしたちは沈黙し、氏邦はおどけたように肩をすくめた。
まるで子どもが叱られて誤魔化しているようなその仕草に、思わず口元が緩む。
彼の言葉の真意は分からない。
けれど、今それを詮索しようとする者は、この場に一人もいなかった。
世の中には、知らなくていいことと、知るべきでないことがある。
これはおそらく、そのどちらにも当たるのだろう。
「虎姫様、当主・兄上がお呼びです」
氏邦の兄上であり、北条家当主、すなわち氏政のことだ。
「氏政どのが?」
「ええ。なにやら朝餉の折に交わしたお話がたいそう楽しかったそうで、もう一度お話したいとのことです」
「……分かりました」
わたしは小さくうなずいた。
「しかし、虎姫どの。朝餉の頃に兄上が部屋へ訪ね、共に食事をとったと聞きました。大丈夫でしたか?」
「大丈夫……って、なぜですか?」
そう問い返しながら、わたしの脳裏には自然と北条氏政という男の姿が浮かんだ。
氏政は、この氏照や氏邦のように華々しい武功を立てた人物ではない。
上杉から見れば脅威ではあるが、必ずしも名将という言葉がふさわしい男でもない。
だが、上に立つ者に求められるのは、必ずしも天才的な才覚ではない。
優秀な家臣の意見を聞き入れ、正しく判断し、責を負う覚悟があること。
それさえできれば、極端な話、戦国最弱と揶揄された小田氏治でさえ天下を取れたかもしれない。
いや、あれは地理的条件と時勢が悪すぎただけではあるが。
北条家の家臣たちは、いずれも有能だ。
氏政が特別に何かへ秀でていなくとも、この家は盤石に保たれる。
むしろ、それこそが北条という家の強さなのだろう。
けれど、もしもその「支える者」がいなくなった時、この家はどうなるのだろう。
胸の奥に、ひとつの不安が小さく芽吹いた。
氏照と氏邦の二人も、その懸念を抱いてここへ来たのかもしれない。
ぶっちゃけその間違っていると断定ができるほど北条家の未来が明るい訳でもない。
「虎姫どの、兄上がなにか不躾なことでも致しましたでしょうか?」
「い、いいえ。とても楽しい食事会でしたよ」
「それなら良いのですが……」
氏照と氏邦のふたりは、同時に小さくため息を落とした。
そして、わたしたちは氏政のいる部屋へ向かうことにした。
二人もおそらく氏政で、ずいぶんと苦労しているのだろう。
そう思うと、自然と苦笑がこぼれた。
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