第83話 北条氏政①

 北条氏照・氏邦兄弟に連れられ、家臣の直江信綱と千代丸と共に、わたしは氏政のいる部屋の前までやってきた。

「こちらで兄上がお待ちしているはずです」

「私たちは一度この場を離れますが、中には兄上のほか、数名の侍従が控えているはずです。なにかあれば彼らにお申し付けください」

 氏照と氏邦の言葉に、わたしは静かにうなずいた。

 ただ、後者の氏邦の発言には、どこか引っかかるものを感じた。

 二人がこの場から離れること自体に、特に違和感はない。

 だが、「侍従がいる」ということを、わざわざ声に出して告げる必要があるだろうか。

 氏政は北条家の当主である。側に小姓や近侍が控えているのは当然のことだ。

 現にわたしも、信綱や千代丸、与六やお船などが常に近くにいる。

 つまり、言うまでもないことを、あえて口にしたということ。

 それはすなわち、「何かあればこちらも容赦しない」という、柔らかな言葉に隠された警告なのだろう。

 温厚な犬に見せかけた、牙を隠した獣。

 そんな印象が脳裏をかすめた。

 天守閣での会話で、多少は警戒が解けたと思っていた。

 だが、やはり、あれはあれ、これはこれ。

 この時代は、優しさを捨てるなとは言わないが、時には優しさは仇となることの方が多いのだろう。

「兄上、虎姫どのをお連れいたしました」

 氏照の声が廊下に響く。

 やがて襖がゆっくりと開いた。

 ちらりと振り返ると、氏照と氏邦の二人が小さくうなずいてみせる。

 わたしは信綱と与六を後ろに伴い、作法にのっとって静かに部屋へ入った。

「朝方ぶりですね、虎姫どの」

 落ち着いた声が室内に満ちる。

 北条氏政。その眼差しは穏やかでありながら、どこか底の見えぬ静けさを湛えていた。

「ええ。また氏政どのにお会いできて、うれしいです」

 わたしは世間話でもするように、口角をやわらかく上げて笑った。

 氏政も、それに呼応するように、静かに笑みを浮かべた。

「虎姫どの、小田原城はいかがでしたか?」

「大変すばらしい城だと思いました」

 それは嘘ではない。

 小田原城は、現代で見たものとは違ってそこまで立派というわけでもないのだが、戦国時代の城としては見ごたえのある城だったとは思う。

 何より、氏照の巧みな案内によって、城の構造や意匠の奥深さを知ることができたのは大きい。

 まるで、城そのものが生きているように感じられたほどだ。

「それは、よかったです」

 氏政は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。

 その表情には敵意も圧もない。

 けれど、どこか底の見えぬ静けさが、言葉の奥に漂っていた。

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