潜入

 雨はもうすっかりやんでいた。ダムの近くの駅で仁はタクシーを降りた。ここからダムの方までは歩いて20分程。そこから位置情報の場所を探すのにさらに時間がかかるだろう。


 しかしながら、この暗闇の中で行くのは危険だと仁は判断した。雨のせいで泥濘んでいる可能性がある。間違えてダムになんて落ちたら笑いものだ。


 近くにコンビニがあったので、そこで弁当を買う。仁はその弁当を胃袋に流し込むようにかきこんだ。ふと自分の履いていた靴に視線がいく。この中には野田が仕掛けたGPSがまだ入っている。ここに向かう前に処分しようかとも思ったが、仁にはそこまで彼女のことを裏切る決心がつかなかった。


 家に入れた時、野田は気がつくといなくなっていたが、あの時の楽しそうな表情は嘘ではなかった筈だ。仁は自分が彼らを殺したあと、朱理の元へと向かうつもりだ。そうなった後に母親がどうなるかも心配だが、野田のことも心配だった。


 彼女はこれからも孤独の中を生きていくのだろうか。何も悪いことをしていない人が、どうして辛い目にあわなければいけないのだろうか。野田の人生を狂わしたのも、朱理の人生を狂わしたもの善悪の判断もロクにつかない未成年の子供。


 自分も未成年の子供に違いないが、彼らとは絶対に違う。彼らはきっと自分たちは常に搾取する側とでも思っているのだろう。世の中でそうやって存在価値を見いだすしかないのだろう。そんなやつら、この手で殺してしまっても文句はない筈だ。


 日の出まではもうすぐ。もうすぐでようやく復讐が達成できる。仁は復讐心が少しでも薄れないために、あの忌々しい動画をもう一度見る。この動画を本当に回収できてよかった。朱理はこんな姿を人には見られたくないだろう。勿論それは仁にだって見られたくなかった筈だ。


 仁は動画を見たことを後悔した。今はまだ動くことができないのに、いてもたってもいられなくなった。心の奥の方からドス黒い感情が湧き上がってくるのが分かる。今ならこの感情の名前が分かる。復讐心や悲しみなどではない。これはただの殺意だ。


 人をここまで殺したい何て思ったのは初めてだ。そして仁は彼ら三人を殺すことになんの躊躇いもしないだろう。ただ、どうして朱理だったのか聞いておきたいとは思った。彼らは反省をしているのか、少しでも罪悪感に苛まれているのだろうか。


 それだけはどうしても気になっていた。もし、少しでも朱理に詫びるならば楽に殺してやろうとは思考を変えるかもしれない。


 遠くの空から朝日が差し込み始めていた。昨夜の雨が凄かったせいなのか、標高が高いせいなのか霧が深くかかっている。こんな言葉はないかもしれないが仁は思った。人を殺すのには絶好の天気だと。


 仁はスマートフォンの位置情報を照らし合わせながら、ダムの方へと歩いていく。ダムに流れ込む水の勢いが凄まじく、巻き込まれたら死ぬんだろうな。なんてどうでもいいことを考えていた。それにしても空気が美味しい気がする。自然が多いからもあるが、単純に車の排気ガスが少ないからだろう。


 そう考えると、人間は生きているだけで罪なのかもしれない。生活が便利になっていくにつれて、環境はそれに比例して壊れていく。動物だってそうだ。本来食物連鎖の上で、生態系はバランスを保ちながら変化していく筈なのだ。


 しかし、人間という生物がいるせいで全てが崩れていく。そういう意味では人間は地球から見て間違いなく悪だと仁は思った。


 ダム沿いの道路を歩いていく。仁は非通知の相手が何者なのかを考えていた。ここまできてあの情報がデマだとしたらどうする。その嫌な予感も頭の中を過っていた。今更になってなんの根拠もないのに、よく信じてしまったと思う。


 冷静なフリをしていただけで、やはりそうでもなかったのだろう。野田が一緒にいれば冷静に仁を諭していたのだろうか。


 久しぶりに長い距離を歩いているせいか、息はもう上がっていた。コンクリートの上はまだいいが、地面が泥濘んでいて歩きにくい。そして地図の通りに森の中へと入っていく。道路も通っていたのだが、万が一鉢合わせてしまうとまずいことになる。


 その為には隠密に行動するほかはない。そもそも武器を持っているとはいえ、こっちは一人であっちは三人もいるのだ。別荘ということは包丁くらいは置いてあるはずだ。普通に正面から行ったらおそらく返り討ちにあう可能性が高い。


 理想は一人ずつこのスタンガンで、行動不能にしていくこと。出来れば三人とも生きたままで拘束したい。しかしあくまでこれは理想論。拘束が難を極めるとしたら、有無を言わせず殺してしまうつもりだ。もし、もし本当に殺すことが成功した時に、果たして自分は何を考えているのだろうか。


 どう考えてみてもあまりパッとこない。そのあとのことは何も思い浮かぶことが出来なかった。


 肌に触れる濡れた葉っぱの雫がとても冷たくて気持ち悪い。なるべく触れないように仁は歩いていく。


 途中、蜘蛛の巣にかかった虫がもがいているのを見つけた。近くでは捕食の準備をしているのか、蜘蛛がゆっくりと近づいている。仁はその虫を蜘蛛の糸から解放してやった。解放された瞬間、虫はすぐに飛んで行ってしまった。


 大きな木の横を向けた先に、立派な建物が見えてきた。地図の位置情報と照らし合わせてみても、おそらくあの建物が非通知の人物が教えてくれた別荘だろう。まだ中に奴らがいるとは限らない。情報の信憑性は高まってはいるが、未だに仁は完全に信じきれてはいなかった。


 自分の顔は三人の中の一人、長田茂にだけは割れている。他の二人においては仁が映像で一方的に知っているだけのはずだ。ということは長田茂にだけには見つかるわけにはいかない。


 忍び込むなら今しかない。早朝の今ならまだ寝ている可能性は高い。寝てさえいてくれるのなら、拘束も多少は楽にできるかもしれない。建物の周りを仁は静かに歩く。当然だが、雨戸はしまっているしカーテンは閉じられている。


 連中もそこまで馬鹿じゃないらしい。わざわざこんなところに潜伏しているとしたら、恐らくは仁ではなく警察から逃げたと考える方が自然だ。


 警察から逃げるために人気の少ないこの場所を選んだのだろうが、仁にとってもこの場所にいてくれたのはラッキーだった。多少の大声も外には聞こえないだろう。何も考えず手荒にいくこともできる。


 どこかに侵入できるところがないかを仁は探す。もしこれで普通の人間が暮らしていたら、強盗か泥棒で自分は捕まってしまうなと仁は鼻で笑った。


 裏口の窓が割れていた。そこはダンボールで補強されてはいるが、もし彼らがここからにいるならここから侵入したのだろう。てっきり仁は彼らのうちの誰かの所有物だと思ったが、恐らくは彼らもこれから仁がするのと同じように忍び込んだのかもしれない。


 なぜこんな場所を選んだのかは知らないし、電話の主が何故ここにいることを知っていたのか知らないが、警察はまだこの場所に気づいていない。


 侵入するとしたら割れた窓ガラスからしかない。手を入れれば内側から鍵を開くことは容易かった。


 物音を立てないように仁は窓から侵入する。予想通りまだ寝ているのか、中は物音一つ聞こえてこない。土足だと音がなることに気づいた仁は、靴を脱ぎリュックにしまい込んだ。


 この建物は二階建て。まずは一階から見て回ることにした。廊下にはおしゃれな絵画や壺が飾られている。その様子から、持ち主はかなりこだわってこの別荘を建てたのだと伺える。


 リビングには誰もいない。中心に四人掛けのテーブルが置いている。モダン調のテーブルクロスの上には、お菓子やカップ麺のゴミが散乱している。


 ソファーの上には脱ぎ散らかした洋服も転がっている。綺麗なインテリアにはその光景はあまりのアンマッチで、まるで男子校の合宿所のような印象を受ける。


 トイレやバスルームにも目を通したが、誰の姿もない。恐らくは二階の寝室あたりにいるのだろう。仁はスタンガンを握りしめながら、音が鳴らないように細心の注意を払い階段を上っていく。二階の部屋は三つあったが、どの部屋も扉が閉まっている。


 もし三人が別々の部屋にいるのだとしたら、かなり厳しいことになる。しかし寝室には仁に抵抗できるようなものは無いはず。眠っていてくれさえすれば、その無防備な体に電流を流し込んでやればいい。


 仁は深呼吸をして一つ目の扉を開く。するとそこは寝室のような部屋ではなく、望遠鏡が置いてあった。天体や星についての本があるし、この部屋の屋根はガラス張りになっている。持ち主は星が好きなんだろう。この秩父では星はよく見えそうだ。


 気を取り直して隣の部屋の扉を開く。そこには大量の洋服が置いてあった。棚にはその洋服が綺麗に収められている。しかし床には幾つかの洋服が散乱していた。きっと奴らがここで服を拝借したのだろう。


 残りの部屋は一つ。この部屋に三人がいる。三人と一斉に対面するとは予想していなかった。仁はポケットの中の花びらを握りしめ、ゆっくりと扉を開いた。


 ーーそこにはベッドが四つ並んでいるが、誰もいなかった。シーツは乱れ、ここでも洋服が散乱している。その生活感はついさっきまではいたような印象を受けるが、ベッドは冷たい。


 仁は焦った。来るのが遅すぎたのだろうか。もしかして向かって来ているのが気づかれたのだろうか。仁はベッドに腰をかける。結局、空振りに終わってしまったのかもしれない。こんなところまでわざわざやってきたのに、無駄足で終わってしまったことになんだか可笑しくなってきた。


 頼みの綱の相手も非通知のため、こちらからは電話をかけることはできない。緊張感の張り詰めていた全身は、一気に力を失っていた。一体自分はここで何をしていたのだろうか。誰もいないのにこそこそと勝手にしていただけなのだ。


 外の景色は完全に目を覚まし、青空が広がっていた。


 ーーしかし、その時別荘の外から車のエンジン音が聞こえてきた。


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