第10話 ∞草餅の告白



 二十八歳の誕生日を迎えてすぐ、十一果穂といちかほは潮風食堂に来ていた。大学の同期だった数田育美かずたいくみの誘いである。育美は企業マニュアルの翻訳業プロダクションに勤める同い年。専業主婦の果穂とは親友だ。


 果穂は、まさに今、店の戸を開けた。

「ごめん、育美。待った?」

 テーブル席に座る待ちぼうけた育美の退屈そうな顔に、拝を入れて謝る果穂。十分少々の遅刻だ。


 ふざけて睨む育美は、

「毎度毎度、あんた、本当に時間にルーズよね」とあきれ顔だ。


 育美は学生時代からきちっとした性格で、レポートの提出期日厳守や試験の時間厳守など先生の評判も良い性格だった。また面倒見が良いところもあり、同級生には『世話好きおかあさん』の異名あだなで通っていた。卒業してから随分とたった今でも、その性格は健在だ。


「なにしてたのよ?」

 別に遅刻したことに興味はないが、一応理由、言い分けを訊ねる。学生時代からのおきまりのルーティンだ。垂れ目顔の憎めない愛嬌の持ち主果穂は済まなさそうにずっと手を合わせている。

「てへへ。松島くんね、離婚しちゃったみたい」とSNSの画面を見せる。

「また松島?」


 松島應治まつしまおうじも同じ大学の同期で、どの学校のクラスや職場に一人くらいはいる典型的な成績優秀でスマートに生活するお金持ちの御曹司。


「それ、松島に返事を送っていたら、遅れたって事?」

 怒る気にもならない育美。

「うん」

 物怖じしないのんびり屋の果穂は育美とは正反対。集中すると他を忘れてしまう性格だ。

「脳内にデュアルCPUを埋め込んでマルチタスク化しなさいね」と皮肉る育美。職業婦人は言うことがひと味違う。


「それ焼き鳥の塩なの? それともたれ?」


 ところがデジタル音痴の果穂にはそんな嫌みは通じない。社会人としての常識なんて知らないお気楽人の果穂にとっては、何の意味も無い雑音程度の単語である。

 薄目を開けながら、

「マジか? 焼き鳥とデジタル用語のどこに接点あるのよ?」と額を押さえて、諦める育美。


「松島ってさあ、結婚式に有名な人たち呼んで豪華絢爛な披露宴を開いたっていうじゃない? そんな簡単に別れられる身分だったの? あたしらみたいに庶民なら、離婚届と署名で済むけど、それじゃ済まなそうなしがらみが沢山ありそう」


 実は育美は学生時代から松島が苦手だった。高い食材と高貴な場所を選んで誕生会を開いたり、持ち物は万年筆からハンカチや時計まで高級ブランド。そんな日常気安く使うことの出来ないようなグッズを、まるでその辺のスーパーで買った庶民の品のように、適当に扱って使っている。平均以下の家庭で育った育美とは生活水準が違いすぎたのだ。


「もうちょっとで来るから、その辺りは本人に聴いてみたら?」と当たり前のように言う果穂。

「へ?」

 目が点の育美。湯飲みを持ったまま氷のように固まっている。


「今地下鉄の駅に着いたから、あと五分でここに着くって」

「さっきからスマホの画面チラ見していたけど、まだ交信途中だったのか。で、あんた、彼をここに呼んだの?」

「うん」と悪びれた様子もない果穂。

「なんで?」

「一人のお正月で暇だっていうし、育美もいるよ、って送ったら、近くに住んでいるから合流するって」とありのままを報告する果穂。そして「今の住まいが西船橋なんだって、ちょうど良いよね」と付け加えた。


 育美は、「何にちょうど良いのか、果穂のいっている意味が分からないんだけど!」とえらく動揺している。苦手が服着て歩いてくる。まるで東京湾からゴジラが上陸するという時の、劇中の宝田明と河内桃子の心境だ。


 その言葉が終わるのと同時に店の引き戸がガラガラと開いて、松島の顔が暖簾越しに入ってきた。放射能を吐かないゴジラ上陸である。マフラーとブルゾン、松島にしては庶民的なカジュアルである。育美の知る大学時代の彼のカジュアル・ファッションとはえらく違っていた。


「よう、数田、久しぶり。五年前の十一の結婚式以来だな」

 どうして良いかも分からず、ぎこちなく中途半端に手を挙げる育美。着の身着のままのファッションの自分が恥ずかしく思って、目線を落とす。


「あ、うん」


『そう、なんでいつもこうなのよ。偶然とは言え、男性の友人である松島が果穂の披露宴、しかも私の隣の席にいた。あの時も、苦手な人間を横に置く、考えなしの果穂の行動に文句を付けた記憶がある』

 難しい顔の育美。しかめっ面で首をひねる。


 上着を脱いで、壁際のハンガーにかけると、間髪入れず、迷うこともなく彼は、育美の横に座る。

「な、なんでこっちに座るのよ」と椅子を引いて距離をとる育美。しっしっと野良犬を追い払うような手つき。不自然に互いの椅子を遠ざける。


 その様子を見て、松島は果穂の顔を見る。そしてニコッと笑うと、

「な、言ったろう。数田、オレのこと苦手だよ」と彼女に想定内という表情を見せる松島。


「ええ? そうだったの」


 天然印の果穂は今知ったというような顔。鳩が豆鉄砲を食らったという風だ。

『これだけ長い時間一緒にいて、果穂はなんで分からないかな?』と育美が心中いらついていたのは言うまでもない。


「なんでこっちに座るのか、というと、十一は主婦、要らぬ誤解を生まないように、の配慮だ」


 さもありなん、至極当然という、どや顔で言う松島。そして仕切り直して、育美のほうを向き直して笑う。

「ありがとう」と手放しで喜ぶ果穂。

 


「こっちだって、嫁入り前の大事な身。変な虫が付いたと噂になったら困るんですけど」といきり立った声を出す。怪訝な顔で、テーブルに右手を置いて、人差し指をトントンと動かし、苛立ちを隠せない。この様子では、変な虫など自力で追い払うことが出来そうなくらいのたくましい物言いだ。


「結婚決まったの?」

 弱々しい松島の言葉に、

「そういうことではなくて、これから未来の話ね。あんたのせいで縁遠くなると困る、って事よ」と腕組みをして返す育美。

「だよね。数田に限ってそれはないわ」と決めつける松島。

「それ、どういう意味よ。なんか聞き捨てならない。まるで私が結婚できないっていう風にとれるわよ」


 相変わらずの二人という顔で果穂は呆れていた。ちなみに育美はそこそこの美人で、世話好きだが、恋愛話からは遠い存在のように同級生には思われていた。奥手というより、頭が邪魔して、何かと理由を付けては恋に踏み込めないタイプである。

「あんたこそ、そうそうに結婚した十歳近く年下の、あのお嬢様はどうしたのよ。政略結婚かどうか知らないけど、ハイソサエティ同士の家の絆が壊れちゃうわよ」と嫌みを言う育美。果穂は育美がこんな必死に嫌みを言うところを見たことがないので驚いた。


「ええ、育美ちゃん。言い過ぎ!」と珍しく果穂が止めに入る。


 すると「いいんだ」と手を挙げて、果穂の乗りだした顔を止める松島。


「一理ある。数田のいうことは当たっているよ。お手軽な女性で自分の現況の穴埋めしようとしたオレが悪いんだよ」

「随分素直じゃない、珍しく。離婚が堪えた?」と育美。眉を歪めて、相変わらず腕組みをして偉そうに見える。

「昔から厳しいな、数田は。真面目だもんな」と頭を掻く松島。こっちはこっちでお坊ちゃまの余裕がある。

 その二人のやりとりを見ていた果穂は、

『なんで育美ちゃん、松島くんのことになると、こんなにムキになるんだろう?』と首を傾げている。


 そこに間をとって、様子を見ていた零香が近づいてきた。軽く果穂の肩を叩く。

「ごめん。お二人の注文きいても良いですか?」

「ああ、ごめんなさい。じゃあ、私と彼は鯛飯御前でお願いします」と注文を入れる。

「お正月らしいわね」と笑う零香。まだまだ七日。松の内だ。

 既に注文は一色にも聞こえており、鯛の身をほぐし始めている。


「実はさ、元のお嫁さん。彼女、墨田すみだ百貨店の役員の娘でね、彼女を妻に迎えると、うちの会社のポスシステムを百貨店で一式導入してくれるという話もあった。だからあながち数田の言うことも、外れてないんだ」

 腕組みの育美の横で済まなそうに話す松島。

「それ見なさい」と笑う育美。鬼の首でも取ったかの様な勝ち誇った顔だ。


「でも結婚を決めたのは、それが一番の理由じゃないんだ。心惹かれた出来事があってね」

「ほう」と頷く育美。頬杖ついて松島を見る。

「お見合いの席で、彼女、『心からワーズワースの詩を愛している』って、言ったんだよ。それが嬉しくてね、決め手だっんだ」


 松島のその言葉に、育美は内心、『あっ』と思い当たる節があった。それは大学三年生の秋、卒業論文の主題を決めるのに学食で駄弁っていた時だ。


 優等生の育美は、「私はワーズワースの自然叙情感の詩を愛しているのよ! そういう気持ちを持った人になりたい! 絶対、それが主題」と断言したことだ。たしかその時、テーブルを囲んでいた学友の中に松島もいた。


 だが、育美は内心、『私の思うあの大学時代の出来事が、元奥さんとの結婚の決め手? まさかね?』と偶然の一致と切り捨てた。


「今日、数田に会いに来たのは、人生を名古屋でやり直すことに決めて、お別れにお前さんの顔を見たかったんだよね。大学時代の朋友知己ほうゆうちきであり、『憧憬しょうけいきみ』だった数田に」

 神妙な面持ちの松島。


「またそんな口から出任せ言って。浸りきったお芝居で叙情感誘っても、私の胸には刺さらないわ。二十歳そこそこの小娘とは違うわよ、私。軽いのよ、あんたの言葉。昔から重みが足りないわ」

 照れ隠しも重なってか、いつも以上に手加減しない育美の言葉に松島は頷く。

「また辛口な叱咤激励しったげきれいの嵐。これこれ、懐かしい」

 松島は変に嬉しそうだ。

「あんたマゾか?」

 薄目を開けた表情で、軽蔑の眼差しを送る育美は、すぐにハッと気付いたように、


「でも、それはそうと、人生をやり直すって、どういうこと?」と松島に問い直した。

 育美はそっちが気がかりだった。


「暫く、都落ちって事よ。いくらオレが同族の非上場企業の経営者の息子とは言え、ウチの規模は全国区だ。決まっていたポスシステム導入の話がお流れになったということは、会社業務の面で責任をとらされるのは当たり前。組織って言うのは、誰かが責任をとらなくちゃいけないのさ。そこに特別扱いはない」

「だって離婚と仕事は別でしょう? プライベートなこととオフィシャルは分けるべきだわ。あんたのせいじゃないでしょう」

 彼はフッと笑うと、

「初めて味方してくれた」と儚げではあるが嬉しそうだ。

「馬鹿」としかめっ面の育美。

 そして松島は続ける。

「数田の正義感は常に正しいよ。でもね、会社っていうのは、下に示しがつかないと困る。責任を誰もとらないわけにはいかないのも現実だ。名古屋の港湾管理部門で、在庫管理を一生懸命やってくるよ。数年は東京とはお別れだな。明日が引っ越しなんだ」


 彼は届いた鯛飯を前に話し終えると箸を割った。それ以後、松島は食べることに専念して、身の上話を止めた。

 

 果穂と松島が帰った後、「飲み直すわ」と潮風食堂に一人残った育美。近所と言うことで、零香に熱燗とあたりめを頼んだ。

 カウンターに移って、アラサー女子一人、手酌で晩酌を始める。

 一色が厨房から出てくると、小鉢をふたつ置いた。

「はい、あたりめ。それと、おまけのきなこ草餅もどうぞ。草餅って、昔の宮廷文化からの習わしで邪気や邪念を払う食べ物なんだよね。要らない邪気とプライド、みんな、誰にでもあるんじゃない? 払っちゃえば?」と言って微笑んだ。


 含み笑いと一緒に肩をすくめる育美は、混沌とした脳裏にあるもやもやを酒で洗い流していた。



 育美はその夜夢を見た。大学時代の、例の学食での場面だ。


「私はワーズワースの自然叙情感の詩を愛しているのよ! そういう気持ちを持った人になりたい! 絶対、それが主題」

 あの時の自分の台詞だ。社会の複雑さを知らない純真無垢な自分。正直に、真っ直ぐに生きることが正解と考えていた初々しい自分が居る。


 今この夢で、不思議なことに育美は自分の姿を客観的に見ている。つまり構図として、自分を他者として眺めているのだ。

 育美の言葉を聞くと、果穂は松島の方を見て笑う。親指を立てて「グー」と言った。自分の演説めいた台詞に自己陶酔していて、あの時は周りのそんなこと全然気付かなかった。

 一方の松島は、鞄から電子辞書を取り出す。『ワーズワース』と入力してる。


「桂冠詩人なんだ。英文学か」


 そう、独りごちると、彼は皆のもとを離れ、そのまま学内の図書館に向かった。そして一冊の本を借りてくると、午後一番の授業で、長いすの育美の横に座る。

 キッと睨む育美を余所に、

「数田。オレもワーズワースが好きなんだ。教えてくれよ」と言って、今し方借りてきた本を机に出す。不器用なアプローチの仕方である。御曹司なのに女性一人、スマートにアプローチ出来ていない。今の育美になら、この時の彼の心情にあるそれが分かる。


「お生憎様。自分の力で論文は書きなさい。大学時代の勉強の集大成、人の力を当てにしない方が良いわ」と突き放す。おきまりの彼女の塩対応、いつものことだ。


 それを前の席で聴いていた果穂が、

「ええ? 私や清張くん、誠一くんには教えるのに、なんで松島くんには教えないの?」と驚いている。明らかに松島にだけ対応が違う。


 振り向くと、

「この人はすぐに甘えて、人を頼ろうとするからだめよ」と手厳しい辛らつな言葉が返ってきた。今考えると、裏を返せば松島の性格を知っているから言える自分の言葉だ。


『本当。私、何でこの人にだけ、こんな冷たいのかしら?』

 当時の自分を俯瞰する育美。アラサーの今、この当時の自分の行動が理解できない。


 すると独り言のように囁く果穂の声が聞こえる。

「育美ちゃん、自分が松島くんを意識していることに気付いていないんだわ」とため息交じりに。


 果穂のその言葉に我に返ったような育美。


『果穂は気付いていたんだ。それで自分の結婚式に二人をくっつけようと呼んだんだ』


 今更ながら育美は自分だけが分かっていなかったことに、この夢の中で気付く。

『松島はずっとあたしを待っていたんだ。何年も何年も……』

 初めて自分がやってしまった失敗に気付く育美。取り返せないほどの月日が流れてしまった。


『ごめん松島……ずっと待っていたんだね。私が振り向くのを』

 そう思ったときに、彼女の頬には涙が伝う。

 自分の愚かさに気づき、「甘えていたのは私のほうだ」と自然に発する言葉。

「どうしたら許してくれる、松島。まだ間に合うの?」


 そう思ったときに育美は目覚めた。冬の太陽は寝坊助ねぼすけだ。七時を過ぎた頃に、ようやく朝陽が木漏れ日となって、彼女のベッドに降り注いでいた。


 そして彼女は寝ぼけ眼のまま、スマホを手にしてショートメッセージを松島に送った。

「これから行くから待ってて!」と入力した文章は瞬時に彼に届いて、既読マークが付いた。

 彼からの「わかった」の返信が戻る。



 かつて果穂の結婚式の帰り、着替えた後、彼が褒めてくれたファッションで素直な自分を出しに行くことを決めた育美。

「よし! 女子力ばっちり」

 ハーフのスカートにロングブーツ、白いセーターにコートを引っかけて。さすがにアラサー、いくらお昼時とは言え、昔のように寒さには耐えられない。中に厚めの防寒肌着を着込んでいるのは仕方ない。


 教えられた住所を入力したマップアプリを確認する。自分の最寄り駅から二つ先の駅、そこを降りて早歩きをしている。


 ようやく辿り着いた目的地。シックな新婚さん向けの小洒落た建物。その二階の角部屋。半分開いた扉、その部屋の前で育美は中を覗き込む。


 昼下がりの柔らかい日差しが部屋に差し込んでいた。部屋の中は、引っ越し業者が持って行った後らしく、荷物は見当たらない。ただフローリングの床に、座敷箒とちりとりがポツンと置かれているだけだ。その真ん中に胡座あぐらをかいて座っている松島がいた。


「よう、いらっしゃい。何もない部屋だけどゆっくりして行きなよ」と笑う松島。

「言葉の額面通りに何もないじゃない」とあきれ顔の育美。


 そして「何時の新幹線?」と訊ねる。

「五時かな?」

「夕方か。向こうの荷ほどきは明日?」

「業者さんによれば、明日の夕方になるって」

「そう、じゃあ何もない部屋に一人は寂しいわね」

 にやけ笑う育美。


「またそんな意地悪言いに来たの?」


 悪戯顔、でも嬉しそうな松島。

「そんなわけ無いじゃない。気付いたことがあったから来たの」

「へえ、完璧主義の数田でも気付くことあるんだ」

「どういう意味?」

 深読みしすぎる育美は、ストレートな彼の言葉を常に分析してしまう。実は昔から彼の言葉は少年のように真っ直ぐなだけで、他意は無い。大人になると疑うことを覚えてしまい、彼の言葉を素直に受け取れず『策士さくし、策におぼれる』ということわざの類いを実践する育美だ。


「何でもそつなく俊敏にこなすから、時間をかけて気付く事なんて無いと思った」

「それがさあ、人の恋心はまるで分かって無くて、わたしずっとあんたを意識していたことに気付いたのよ。それで無意識に松島には厳しくしていたみたい」

「オレだけいつも冷たくされていたのはそういうこと?」

「うん」

 素直に頷く育美の表情が愛おしく感じる松島。

「数田」

「えっ?」

「お前高校生以下だな、恋愛の偏差値」

「うるさい!」

 真っ赤な顔の育美は俯いたまま角口をした。



「慣れない土地での単身、一人暮らしは栄養のバランスが悪くなるぞ。あんた料理できるの?」

「即席麺ぐらいならね」と笑う松島。


「週末の土日だけ。遠距離の彼女、やってやるよ」

「えっ?」

「こんなアラサー年増で悪いけど、居ないよりマシでしょう。まだまだ女盛りだから、週末の東京と名古屋の往復、やってやろうじゃない。元嫁だった二十歳そこそこの若い女子にだって負けないわよ」

「本当に数田がオレの彼女になってくれるの?」

「バツイチおじさんにはもったいないか? この美貌」と笑う育美。


 ジョークを交えた育美のその言葉に、松島は真顔で驚いていた。ジョークでは済まされない心境のようだ。

 見れば、俯いたまま床を見て話す松島。

「だめなことばかりだった。生活も仕事もみんな投げ出してしまおうかと悩んだんだ。もう全てが終わったような気分だった」と堰を切ったように涙を床に落としながら男泣きの松島。か細い声で「ありがとう。良いことあった……。生きていけそうだよ」と泣き笑いだ。


「大げさだよ」と照れ隠しの育美。

「ずっと、ずっと好きだったんだ。大学の入学式で会ってから、ずっと」

 松島のその言葉を受けて、育美は片足をあげブーツのジッパーを下ろす。手際よくブーツを投げ捨て、小走りに部屋に入ると、彼の胸に飛び込んだ。

「馬鹿。この先、もっと何十年も好きでいなきゃ駄目なのよ! 私と一緒になったら離婚なんか許さないし……」

「もし数田と一緒になったら、手放すわけ無いだろう。一番に思い続けてきた女性なんだから」


 二人の涙が暫く乾くことはなかった。

「素直な私も愛せる?」

「当たり前だよ。それをずっと待っていたんだから」

「よし、じゃあ、私も同じ新幹線予約するわよ。新天地、二人で乗り込もうじゃないの」

「数田、お前、仕事は?」

「早めに全部仕上げて、来週の月曜日までフリーなの」

 余裕の返答はいつもの育美だ。

「そっか、やっぱお前は学生時代と変わらない。相変わらず段取りも効率もいいんだな」

「当たり前じゃない。私を誰だと思っているの」


 その言葉に、涙の乾かぬ瞳でニンマリとした松島は、

「オレだけの彼女、オレだけの未来の奥さん」と満足そうに笑った。


 そしてこの二人の恋愛成就を誰よりも喜ぶ者がもう一人。それはやがてこの事実を知ることになる、もう一人の立役者、果穂である。



                                        了

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