第三十五章 8月31日

 岸本有馬は先程まで停止状態にしていたスプリンクラーを作動させた後、天井から降って来る水で掛けていた眼鏡が濡れるのを見ていた。


 視界が悪く邪魔になった眼鏡を外し、銃弾を使い切りもう使用する事の出来なくなった散弾銃を床に置き、目を細めてリビングの絨毯の下に隠していた包丁を手に取った。


 スプリンクラーの水のお陰で息子や自分から硝煙反応が出なくても警察は疑わないだろう。


 目の前の高倉はスプリンクラーのシャワーによって視界が遮られている。


 自分が高倉を刺す事は正当防衛だ。高倉を刺しその後高倉にも包丁を握らせ指紋を付け、高倉の恋人に刺さっている包丁も抜きその包丁にも高倉の指紋を付ける。


 岸本は包丁を手に持ち高倉に近寄った。高倉はアイランド型キッチンの前でしゃがみ込んでいたが今は立ち上がっているようで、その場に立ち尽くし動かなかった。


 岸本は手に持っていた包丁を上下逆さに持ち、鋭利な面を上にして高倉に近付いた。高倉は逃げも隠れもしなかった。恋人から離れたくないのだろうか。岸本は自分の血の繋がった息子を二人も殺す事に抵抗感が少しだけ芽生えた自分に気が付いた。岸本はその考えを払拭するように、高倉の腹に向かって動き両手に持った包丁を突き刺した。


 岸本はスプリンクラーの水を浴びながら高倉の顔を間近で見た。間近で見た事によって眼鏡を外していても高倉の表情が見えた。高倉も先程まで掛けていた眼鏡を外していた。高倉は無表情で、表情一つ変えずに目の前に立ち、岸本を見下ろしていた。こう見ると岸本よりも高倉の方が背が少し高い事が分かる。岸本は高倉が表情を変えない事に違和感を覚えた。


 その時、自分の左側から勢いよく自分の身体に何かが当たった感覚がした。岸本は思わず右横に倒れそうになった。


 岸本は自分の左脇腹に痛みを感じ、自分の腹に視線を移した。


 岸本は自分の左脇腹に深く刺さっている包丁を目にし、言葉を失った。


 高倉は岸本に刺さっている包丁を右手に持ったまま岸本の身体に包丁をさらに押し入れ、身体の中で包丁を回すように動かしたので岸本は激しい痛みに思わず声が出た。岸本は高倉に刺した包丁を握る力が入らずに包丁から手を離した。包丁が床に落ちる音がした。


「この状況で銃は使わないと思ったよ。やっぱり親子なんだね」高倉の声がした。「俺ならどうするか考えた」


 岸本は左脇腹から広がる激痛に耐えられず、手で抵抗をしようとしたが高倉の力の強さに敵わず、包丁で指を切ってしまった。


 岸本は痛みから言葉を亡くし思わず高倉を見た。高倉は少しだけ微笑んでいた。その時勢いよく刺さっている包丁を抜かれ、岸本は耐えられず床に前かがみに倒れた。


 自分の手で刺された箇所を塞ごうとしたが、床に広がる水溜まりに血が染み出し、床の大理石が赤く染まっているのを見た。岸本は反射的に呼吸が荒くなった。視力のせいなのか貧血なのか、目の前が霞んで見えた。


「これは役に立ったみたいだ。思い切り刺せば貫通する事もあるみたいだけどね。息子相手に抵抗感でも出たのかな」高倉はそう言うとしゃがみ込み、岸本の近くに顔を近付けてきた。


 岸本は出血多量と痛みで意識を失いそうになりながらも、震えながら高倉の方を見た。


 高倉は着ていたワイシャツを捲り、ワイシャツの中に着ていた黒い服を見せてきた。高倉の腹には刺し傷が何もなかった。岸本は確かに高倉の腹に包丁を刺したはずだった。岸本は訳が分からなかった。


 スプリンクラーが止み、視界が広がった。


 岸本はその時、高倉の後ろのアイランド型キッチンの手前に俯き座っている男に視線が行った。


 男の腹には自分が刺したはずの包丁が刺さっていたはずなのに、今男は腹から血を流していたが包丁は男の身体の何処にも刺さっていなかった。

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