第一章 9月10日

「創也は俺以外に連絡先なんてなくていいんだよ」


 高倉有隆は麻酔で頭が上手く働かない中、病室の扉の前に立ってこちらを向いている恋人の笠木創也に向かって言った。


 笠木は茶色い瞳を伏せていたが、高倉の発言を聞き高倉の方を見たので視線が合った。笠木の肩まで付かない長さのウェーブがかった黒髪が揺れている。それは笠木が小刻みに震えているからだった。小柄な笠木の二十六歳に見えない幼い顔立ちが苦悩に歪んだ。


「どうしてそんな事言うの」笠木は頬に涙を流して言った。


 高倉は笠木がこの状況で涙を流している事に戸惑ったが、怒りの方が勝っていた。笠木は自分に内緒でゲイバーへ通っていた。笠木はただ友達が欲しかっただけだと言ったが、高倉は信じられなかった。自分に嫌気が差して男を乗り換えようと思ったのではないかと思考をした。高倉は笠木を問い詰め、責め立てたのだった。


 高倉は自分の腕に点滴が繋がっていなければ、自分に怪我がなければ笠木を抱き締めて離したくなかった。何故こんな状況になってしまったのか。


 高倉は笠木を守り、逆上した被害者遺族の辻井という男に腹をナイフで刺された事を後悔した。被害者遺族とは高倉の弟の起こした殺人事件の被害者遺族だ。


「どうしてそんな事言うの」だと?高倉は笠木が自分の気持ちを理解していない事に絶望した。


「それは」高倉は笠木を見て口が開いたまま一瞬沈黙した。「それは、愛してるからだよ」


「愛してる?それは歪んだ愛だよ。愛してたら何で僕の母さんの悪口まで書くの?人としておかしいよ」笠木は自分の手で涙を拭いながら言った。


 高倉は笠木を束縛する為に、ネットの掲示板に笠木の悪口を書き、笠木のスマートフォンに入れたゴーストアプリで笠木の個人情報を集めSNSの裏アカウントを作成し、友人関係から笠木を孤立させた事を後悔した。それは弟の引き起こした殺人事件の影響で人が離れて行く自分から、笠木が離れて行かないように仕向ける為だった。それが笠木に露呈した今、笠木は自分から離れようとしている。


「前田さんの事も本当に何も知らないの?」笠木は先程から手に持っていた黒い手帳を握りしめて聞いてきた。


「知らないよ」高倉は苛立ちを感じ言った。被害者遺族の辻井と前田という男が居なければこんな事にはなっていなかった。


「ごめん、僕有隆君とはもう別れる。本当は別れたくなかった。だから今日確認しに来たのに。僕はもう無理だ。僕を守ってくれたのは本当にありがとう。だけどもう無理だよ。ごめんね。さようなら」笠木は高倉から視線を外してそう言うと、手帳を片手に抱えたまま涙を拭って病室から出て行った。


 高倉は笠木の発言を聞いて目を見開き、病室から笠木が出て行くのを見ていた。


 途中で口を挟もうと思っていたのだが何も言葉が思いつかなかった。いつもは嘘が口を滑るように出て来るのにこんな時に限って出て来なかった。麻酔のせいだろうか。


「創也、待って、行かないで」高倉は大声で笠木を呼んだが、笠木は戻って来なかった。


 高倉は笠木を追おうと体を動かしたが、点滴の針が腕に刺さっていて皮膚が引っ張られ左腕に違和感がした。高倉は点滴の先の針を見ると、針を腕に押し付けるようにしてゆっくりと針を抜いた。腕に痺れるような痛みが走り出血がしたが、高倉はそんな事は気にせずベッドに起き上がっていた。


 高倉は歩こうとベッドから立ち上がったが、麻酔をしていてもナイフで刺された下腹部に痛みが走った。呼吸が荒くなった。過呼吸を起こしていた。


 高倉は過去両親に虐待をされていた事による複雑性PTSDを持っていた。こんな状況で症状が出るとは。安定剤を飲もうにも今は手元に薬がない。


 ふと下腹部に視線をやると、高倉は目を丸くした。下腹部の傷口が開いたようだった。白い病衣が血で滲んでいた。


 高倉は荒い呼吸を必死に抑えようとしながら右手で腹を抱えると、ベッドに左手を置きその場にしゃがみ込んだ。腹の痛みが酷い。麻酔が切れかかっているのだろうか。出血もあるのでナースコールを押そうとしたが、床に流れている自分の血に足が滑り転び、高倉は床に倒れた。腹に激痛が走り高倉は思わず声が出た。出血がさらに酷くなった。


 高倉は床に倒れた状態で右手を下腹部に当て、出血を抑えようと浅い呼吸を繰り返した。高倉は自分の着ている白い病衣が血で赤く染まっているのを見て、ふと昔の事を思い出していた。


 痛みで気が遠くなる中、自分の両親が死んだ十一歳の頃の記憶を思い出した。その頃の記憶は曖昧だったのだが、十一歳の高倉は手に白い包帯を巻いていてその包帯に血が滲んでいた。


 何故包帯に血が滲んだのか。


 それは母親が普段料理を作らないので、前日高倉が弟に何か食べさせようと思い、料理をした際に包丁で切ってしまった指の傷が再出血した時だった。


 母親は家事をあまりしなかったので、週末だけ家政婦を雇い家事を家政婦にやらせていた。また、母親は酷く癇癪持ちで気に入らない事がある度に高倉達兄弟を虐待していた。


 高倉が女性を苦手になった原因だった。


 母親は父親と仲が険悪だったせいか、父親が出張で自宅に居ない時を見計らっては、知らない男を家に招き入れて嫌な声を出していた。その度高倉は弟と一緒に子供部屋で布団に入り耳を塞いでいた。


 普段男が家に来る際は子供部屋の外側に取り付けられた鍵を掛けられ、外に出られなくなっていた。その間トイレに行けなかったのでおむつを渡されていた。他にも、学校での成績が良くなかった時や母親の機嫌を損ねた時も、部屋の外側から鍵を掛けられ子供部屋に閉じ込められた。特に母親は成績の悪かった弟に対する当たりが酷かった。高倉は母親が弟を虐待しようとする度に母親と弟の仲裁に入った。


 ある日、十一歳の高倉は弟と一緒にいつものように二階の子供部屋でベッドの布団の中に入り、耳を塞いでいた。一階から激しい喧嘩が聞こえたからだ。両親の口論は珍しい事ではなかったが、この日は特に酷かった。しばらくすると口論は収まった。高倉は怯える弟をベッドの中に置いたまま子供部屋の扉を開けてみた。今日は外側から鍵を掛けられていなかったので、両親の機嫌を確認する為に一人で一階のリビングへ向かった。


 リビングの扉を開けると、母親が床に倒れているのが目に入った。


「お母さん?」高倉は母親を心配して母親の元へ駆け寄ったが、母親は目を見開いたまま動かなかった。


 高倉はふと、リビングの隣の客室に何かが揺れている気がした。高倉はその揺れている何かを見た。天井から何かがぶら下がって揺れていて、下に椅子が倒れていた。それは父親で、父親は首を吊り天井からぶら下がっていた。


 高倉は茫然として両親が死んだ光景を見ていたが、高倉の立っていたリビングの後ろのキッチンにふと気配を感じた。


 高倉が後ろを振り向くと、一人の男がキッチンの前にあるダイニングテーブルの上で何かをしていた。高倉はその男と視線が合った。高倉はつい声が出そうになったが、男がやって来て高倉を床に押し倒すと高倉の首を絞め始めた。高倉は暴れたが大人の男の力には敵わず、苦しさで意識が飛びかけた。


 高倉が自分は死ぬのかと思ったその時、男は一瞬首を絞める手の力を緩めた。


「お前は何も見ていない。そうだな」男は高倉に小声で問いかけてきた。


 高倉は恐怖から頷く事しか出来なかった。


 高倉は腰が抜けて床に倒れたままでいると、男が自分から離れて急いで支度をして自宅から出て行くのを黙って見ていた。声を出したら殺されると思った。


 今、高倉は病室で下腹部からの出血を必死に抑えながら、男の顔を思い出していた。ずっと思い出せなかったその男は、父親が居ない間高倉の家にやって来て母親に嫌な声を出させていた、母親と不倫をしていた男だった。子供部屋の窓から見下ろした、自宅の前に停めた車から降りて来る男の顔を思い出した。


 十一歳の高倉は男に無理矢理床に倒された事により、昨晩怪我をした手から再度出血し、右手に巻いていた包帯が血で滲んでいるのを見ていた。


 高倉が床に倒れたまま母親の遺体を見ていると、ふと居間の扉が開いた。高倉は男が戻って来たのかと思い反射的に飛び起きたが、居間の扉を開けたのは弟だった。弟はまず先に手前に倒れている母親を見て、居間のカーペットの上に座っている高倉を見て、高倉の後ろで首を吊っている父親の方を見た。弟は唖然として立って口を開けたまま、何も言えなくなっていた。


 高倉は病室の床に横たわりながら、床が自分の血で赤く染まっているのを見ていた。


 麻酔は完全に切れている。激痛で下腹部を右手で抑えていたが、徐々に体から力が抜けていき、右手で抑える事が辛くなってきた。貧血から目の前が暗くなり、意識が遠ざかりかけていた。寒い。自分の体は冷えて来たのに、流れている血は温かかった。


「これでお前は一人だ」自分の事をナイフで刺した辻井の言葉が脳内で再生された。他に思い出せる良い思い出はなかった。これが走馬灯というものなのだろうか。


 この言葉がまさか自分の人生の最後に思い出した言葉になるのだろうかと高倉が思った時、病室の扉が開いた。女性の叫び声が聞こえた。高倉は意識を失った。

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