第8話

 複数回に渡るチャイムの音がソファに腰かけて目蓋を閉じていた楯無たてなしの意識を、泥底から引き上げて浮上させた。

 上下が一体となった目蓋を何度か瞬かせ、男性はソファから殊更時間をかけて起き上がる。未だ覚醒を済ませていない頭は鼓膜をつんざく甲高い合図に不快気な眼差しを注ぎ、奥歯を鳴らした。

 続けて時計を眺めてみれば、時刻は未だに九時を回ったばかり。

 鷹見たかみの気分転換という名目で幸子さちこがショッピングモールへ赴いたにしても、この時間ではまだ開店している店の方が少ない。無論、白髪を伸ばした少女が好む衣服店など望むべくもない。

 いったい誰だと、不機嫌を剥き出しにした態度を見せるとチャイムに続いて怒鳴り声が木霊する。


「いい加減にしろよッ、テメェいつまで寝てるつもりだぁ!」

「あぁ、真也しんやですか」


 張り上げる声に来訪者の正体を言い当てると、楯無は頭を掻いて玄関へと向かう。


「待ってて下さい。今開けますので」

「テメェ……それが徹夜で車走らせた友人への態度かッ?!」

「近所迷惑ですよ、真也」

「近所に住んでんの野生動物くらいだろうが!」


 気安いやり取りを交え、玄関を開く楯無。

 古風な引き戸の先に立っていたのは、黒子の顔に見慣れない象形文字が描かれた御札を張りつけた男性。平時であらば不審者の誹りは免れない存在感だが、現在鷹見邸に唯一居を構えている楯無は奇声の一つも上げることなく、手招きで歓迎する。

 散々待たされたためか、肩を震わす真也から怒気が伺える。が、寝起きの楯無は彼の感情など知らぬとばかりに大欠伸を漏らした。


「慣れないソファで寝てしまってですね。なんだか寝た気がしないんですよね……」

「それは徹夜で車を飛ばした俺への嫌味か?」

「まさか」


 二人は仕事とは関係ない雑談を交えつつ居間を、正確には居間に置いてあるコトリバコを目指す。


「……」


 仏壇のある部屋を通過する際、一瞬鷹見の父親に改めて報告するべきか逡巡して楯無の足が止まる。が、数秒としない内に首を横に振り、再び歩み始めた。

 鷹見がいない状況で仏壇に振れるのもどこか憚られる、彼女が帰宅してからの事後報告でもいいだろう。そう思案したがために。

 居間の扉を潜り、楯無は机の上を指差す。


「あちらが貴方に解呪なり破壊を頼みたいコトリバコです。幸子さんの言い分から、シホウってヤツだと思われます」


 無人にして無個。目立ったものが何もない机の上を。


「……トンチのつもりか?」


 当然、何も事情を把握していない真也は怪訝な表情で整理整頓のなされた机を見つめ、反応に奇妙な引っかかりを覚えた楯無が続く。


「何を言っているんで、す……か?」

「おい、おいおいおい……お前、その反応はマジでヤバいヤツだろ……?」


 いっそのこと、トンチなり透明化を備えた呪物であればどれ程マシであったか。

 冷や汗を流す楯無の顔は、冗談でもなければ笑って看破できる事態でもないことを百の言葉よりなお雄弁に物語る。

 呪物の紛失。

 不測の状況にモノクルへ魔力を流し、残滓から行方の特定を図らんとする楯無。

 だが、魔力の流れは机の上にペンキをぶちまけたかの如き特濃の魔力を残すばかり。周囲の残滓は尽くが机から撒き散らされたものであり、浮遊なり地走の痕跡は皆無。

 空間転移としか思えぬ状況に動揺する男性へ、遅れて友人が指摘する。


「机の上が焦げてんぞ。これもしかして御札の燃え滓か?!」

「まさか……封印を勝手に解いた……そんな馬鹿なことが……!

 真也ッ、ここに来るまでに濃厚な呪いを感じたりは……!」

「んなものなかったぞッ。僻地らしく空気が美味いくらいだ」


 幸子や楯無が感じ取れた邪気や悪意を凝縮したような魔力の漏れを、地域一帯を汚染するのではないかと危惧する状況を、呪術を専門する真也が微塵も感じ取れないなどということがあり得るのか。

 可能性があるとすれば、たった一つ。

 根源たる呪物が消失したことで霧散した。


「チッ、こんなことなら結界の一つでも張らせとくべきだったか……!」


 今更転移対策を講じた所で後の祭。

 楯無は呪物の特性に精通している真也へ意見を仰ぐ。


「コトリバコが転移したとして、その座標を何処になると思います?」

「呪物が勝手について行くのはある意味でお約束だ……そう考えると、飛んだ先は滞在先か、もしくはバッグなり軽いものならコートの内ポケットとかだ」

「バッグ……真也、コトリバコの呪いが外で開放された場合の推定被害は?!」


 脳裏によぎった最悪を振り払うため、呪いの専門家へ縋るように意見を尋ねた。

 しかし彼の口から零れたのは、最悪を裏づけるもの。


「実物を見てねぇから何ともだが……シホウともなるとかなりの範囲、屋内だと全域を対象にするだろうな」

「鷹見さんは今日ショッピングモールで気分転換をするらしいんですよッ」


 ソファの上に転がっている携帯端末を拾い上げ、楯無は素早く幸子へ連絡を図る。

 しかし機械音声は電波の届かない場所にいるため、電話は不可能と令和の世には信じられない文面を無機質に伝える。山中でもない限り、現在の央間町おうまちょうに電波の整備が成されていない場所がある訳ないにも関わらず。

 それは、既に呪いが取り返しのつかない程に勢力を強めている証。


「あ、おいッ」

「鷹見さん達を連れ戻してきますッ。真也はこの家を探ってコトリバコが確認できたら連絡を下さい!」


 真也から車の鍵をひったくると飛び出すように玄関を抜け、素早く乗車。乱暴に踏み抜いたアクセルがタイヤを空回転させ、数秒のロスを挟んで地面を掴むと急発進させた。

 央間町の僻地である鷹見邸から町一番のショッピングモールまでは、少なく見積もっても一時間以上はかかる。行動速度を超過してまで風を切って悠然と走る最新の駿馬を以ってしても、その事実は変わらない。

 逸る気持ちを抑えるべくハンドルを握る手には、焦燥の汗が滴っていた。

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