幸せ幸子さんと一本の線

幼縁会

第一章──コトリバコ

第1話

 白磁の肌に、一筋の熱が伝う。

 浴室に立ってシャワーの心地よい熱を浴びる少女は、当然のことながら一糸纏わぬ姿を晒している。

 水滴がなだらかに流れる女性らしい起伏に乏しい小柄な体躯に宿る美は、強いて言えば造形美とでも表現すべきものがあった。

 無造作に伸ばされ、腰にまで届く白髪。少女らしい丸みを帯びた童顔。瞳に浮かぶ真紅はルビーを見る者に連想させ、それらによる調和は自然に生まれた存在というよりも人工的に生産された人形と表現された方が整合性を見出せる程に。


「ふっふふー」


 上機嫌に紡がれる鼻歌に法則性を発見することは叶わない、少女自身が気紛れに紡いだだけの意味のない音なのだから。

 見る者の息を奪う幼い美から繰り出される音階は、シャワーを観客の拍手に見立てるが如き機嫌の程が伺える。技術的な話というよりも、鏡に反射する少女の表情が天真爛漫を絵に描いたかのような笑みを浮かべていたのだから。


「今日は楯無たてなしとのデート、デート、デート」


 リズムの欠片もない歌は、正規の流れでレコード会社から販売されるとは微塵も思えず。仮に自腹で発表したとしてもジャケット買いした人々は怒声を浴びせるに違いない商品未満の品質。

 だが、それでも少女の上機嫌を現すにはこれ以上の品質など不要。

 想い人との逢瀬は身体を洗うボディソープにも力を加える。

 とはいえ肌を傷つける愚を侵す程ではない。ただ、不要な力を加えてしまうといった程度の話。


「せっかくのデートなんだから、極上の幸子さちこさんを堪能してもらわないと」


 熱っぽい視線の先には、鏡に反射した少女自身。

 泡に塗れた姿も扇情的でこそある。局部や肩、身体の節々を覆う泡が蜜月の園へ誘う手招きめいて機能し、見えそうで見えないそれが探求心とフェチズムを刺激する。

 白磁の肌を穢す無数の切り傷、手術痕と思しき傷痕にさえ意識を向けなければ。


「幸子さん、そろそろ出ますよ」

「はーい!」


 浴室と脱衣室を隔てる曇り硝子に浮かんだ人影へ、語尾にハートマークでもつきかねない調子で返す幸子。一瞬勢いのままに飛び出して、抱き締めてしまいたい衝動に身震いするも、自らの身体を抱き締めることで内へと抑え込む。


「……それと、今から行くのは仕事ですからね。デートじゃなくて」

「はーい……」


 先と比較して数段下がったトーンは、人影からの冷静な突っ込みを受けて。

 前もって前日に言われていたことであるが、今日赴くのは依頼人との顔合わせのため。まかり間違って幸子と二人だけの時間を過ごしたいからではない。

 しかし、改めて口にされてはまるで舞い上がっているのはお前一人だけと指摘されたようで、幸子は一人嘆息を零した。


「…………もしかして、さっきの歌も聞いてましたのでは?」


 人影がいったいいつの時点から脱衣室にいたのかという、一つの疑問が浮かぶまでは。



「もう準備出来ましたか、幸子さん?」

「もう少しだけ待ってー!」


 外からの呼びかけに応じつつ、浴室を後にした幸子は戦装束へと身を包んでいた。

 右は親指を出す穴があり、左は袖自体が存在しない極端な差のある紺のインナーを下地に上から男性ものの半袖シャツを纏い、下にはコルセット一体型の足元まで覆う黒のロングスカートを着用。

 男性的なシャツと女性的なロングスカートの融合は、男女どちらの特徴にも当て嵌まらない独特の印象を周囲へ与える。着る人によっては珍妙な印象になりかねない左右で丈の異なるインナーも人形めいた美を有する幸子が着れば、アンバランスさの中に存在する何かを見出すことが叶うだろう。

 既に簡単なメイクは完了しており、後は姿見の前で服装に不備がないかを確認するばかり。

 身体を回し、スカートをはためかせ、糸の解れや変な皺がないかに目を通す。そして何処に出しても恥ずかしくない容姿を改めて認識すると、幸子は遅れた時間を取り戻すかの如き勢いを以って駆け出した。

 玄関には腕時計に視線を落とす青年の姿。


「おや、ようやく来ましたか。幸子さん」


 床を叩く軽快な音に反応して顔を上げたのは、線が細く整った容姿の男性。

 一四〇センチ近い幸子と顔二つ分以上ある身長差は、互いの風貌も相まって兄妹でも通じるかもしれない。が、如何せん男性の側は特徴に乏しい。

 たとえるならば線や色使いこそ上手だが、それだけの絵。

 設計図などの精密さこそを誉れとする分野には適しているが、人の心さえ打てれば多少の正誤は許容される芸術の世界では歓迎されない。

 そんな男性は右目にモノクルを着用し、上下ともに紺のスーツに身を包んでいる。

 初対面からの印象を上向きにしようと堅苦しささえある服装は、正しく仕事着であった。


「ごめんなさい、楯無。準備が遅くなった」

「別に構いませんよ。元々遅くなるのを前提に時間を決めてましたから」

「流石楯無!」

「褒める前にいい意味で予想を裏切って下さいよ……」


 賞賛の声を上げると、楯無と呼ばれた男性は嘆息で応じる。

 遅れてきた幸子が身に着ける中で唯一のブランド品たるロングブーツを履くスペースを確保すべく、男性が扉を開けると夏の残滓が殴り込みを敢行。

 常態化した異常気象が成せる業か、十月にも関わらず男の頬に水滴が浮かぶ。


「履いたよ。それじゃあ、行こう楯無」

「そうですね」


 四季では最早二季が相応しいのでは、とも思える気候の中を進む二人。

 人の流通が活発とは言い難い央間町の人波は、誰かがすれ違う度に後ろへ遠退く幸子を二度見する。

 男性であれば羨望、女性であらば嫉妬の色を目に浮かべて。

 彼女は自身へ注がれる視線を意識する度、隣を歩く楯無の腕に捕まってみたり、手を繋ぎ直したりしていた。

 現在の自分がどれだけ恵まれているか、それを見せつけるかのように。

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