夏の雪女

彩葉

夏の雪女

『ひばあちゃんが亡くなった』

 受験生が規則正しく並べられる地獄の模試からの帰り道。ああ、余弦定理の公式間違っただとか、ああ、吉宗は五代ではなく八代だっただとか、そんなくだらない間違いを犯したことをぽつぽつと思い出して歩いていると、電源を入れた携帯にポップアップ表示された母からの連絡に、私は思わず足を止める。

 ただ、見出しのインパクトに驚いただけで、別にそれは唐突なことではなかった。

 もう三桁の大台に乗った曾祖母は、いくら寿命の伸びた健康大国だとしてもいつ死んでもおかしくない年齢で、それがたまたま今日だった。

 それだけの話だ。


 それがつい先日の話で、その連絡を受けた私は半ば強制的にその日の夜、母の予約した夜行バスに乗りこみ、約五年ぶりに曾祖母の家に向かうことになった。

 多くの親戚が曾祖母の通夜に駆け込み、涙しながら曾祖母との思い出を振り返る。

 私はあまり曾祖母との思い出があったわけではないが、お棺の窓から覗く曾祖母の表情は、私の記憶にあったものよりも穏やかで、またすぐにでも起き上がりそうな、そんな生気さえ感じた。

 亡くなった翌日の葬儀は、ほとんどが参列者の弔いの言葉だらけで、退屈と言えば退屈だった。知らない人と曾祖母のお涙話など全く興味が持てず、どうして私まで連れてきたんだと母親に悪態をつきながら時間を潰した。

 人数が多いからか、想像していたような肌を刺す沈黙とは正反対の、結婚披露宴のようなにぎやかな雰囲気に、この葬儀が親族の集まりと化していることに気がつく。

 確かに唐突な死ではなかったから、きっとみんなも覚悟していたのだろう。横から刺されるのと、正面で刃物を構えられるのではダメージがまるで違う。

 そんな彼らの昔話を聞いていると、もう忘れていたと思っていた幼少期の記憶がポツポツと蘇る。その中には曾祖母の姿もあった。



  盂蘭盆の祭りにお面が売られないのは理由があるんだよ。あかりは知ってる?

 曾祖母の声が脳内に蘇る。あれは確か私が小学生に上がってすぐの頃だ。苦手な算数を後回しにしていたら、夏休みの終わりまでもう何日も無くて、泣きながら足し算や引き算をひたすら解いていたような気がする。

 お面というのは、人の心を、本心を、隠し偽るものだから、それを利用して悪い妖怪が人間に扮してこちらにやってきてしまうの。特に盆は、こっちとあっちが一番近い日だからね。

 そうだ、曾祖母はこういった、オカルトチックな話題が好きで、よく妖怪だの伝承だのを聞かせてくれた。

 でも私はひたすらに子供だった。

 つまり地球が一番太陽と近づく夏みたいなものだと、その当時の私は納得した。

 小学生に上がったばかりの私は地軸の傾きなんて知らなくて、夏は太陽に近いから暑いと思っていたし、冬は太陽から遠ざかるから寒いのだと思っていた。

 とにかく無知だった。

 無知でありながら、それでいて傲慢だった。自分はなんでも知っていて、それだけが世界の全てだと信じて疑わなかった。

 だから、私は自分の優位性を示し浸るために、無知である曾祖母に笑ってこう言った。

 妖怪なんていないんだよ。

 だが曾祖母は子供の戯言など聞きなれた風に無視して話を続ける。あるいは、もうボケが回って人の話など聞いていなかったのかもしれない。

 あかりはきっと一番に目をつけられてしまうだろうね。だって……


 その続きを思いだそうとしたところで、いつの間にか葬儀が出棺まで進んでいたことに気がつく。

 式場内の中央に移動されたお棺のふたが開き、先ほど見た表情と寸分たがわない曾祖母が、最後の対面のために姿を現す。

 だが、最初に見たときには感じなかった違和感に、先ほど思いだした曾祖母の記憶を追憶する。するとその正体はすぐに分かった。

 曾祖母は、いつからかは分からないが、少なくとも私が生まれてからは表情筋麻痺でほとんど表情を変えることはできなかったはずだ。

 だから、曾祖母がこんなにも安らかな表情をすることはあり得ない。

 納棺師によって整えられた曾祖母の遺体は、技術によって凍りついた永遠の安らぎを獲得したのだ。

 生前の曾祖母では成し得なかったその表情は、偽物の曾祖母だと言って差し支えなかった。

 だが同時に、それは死者の特権だと思った。死者だけが、永遠の安らぎという不可能を許されている。かつて人々が夢見た極楽浄土がそこにあるような気がした。





 翌日、私は、親族たち、とくに叔父叔母のいる部屋から漏れ聞こえる、本当に文明を手にした人間なのか怪しくなるほどの怒号と罵声と悲鳴にうんざりしていた。

 先日、葬儀で涙しながら曾祖母への恩や思い出を語っていた彼らはいま、広間で曾祖母の遺産をどう分配するか三日三晩叫びあっている。

 あれを話し合いと形容するのはコミュニケーションをまともに図れるすべての人間に失礼だと思うほど、彼らは自分の利益のためだけに言葉を紡ぎ、相手が根負けするのを待っていた。

 さらに悲しいのは、その喚き合いの中心が私の母親であるということだ。

 話し合いとは、要求を通すことではなく妥協点を探り合うものだと教えてくれたのは母だったはずなのだが……。

 やはり、莫大な金は人を狂わすのだろうか。

 ただでさえ冷房のないこの屋敷は居心地が悪いというのに、大人たちの醜い争いまで加わってしまったら我慢できるわけもなく、私は屋敷を一人勝手に出て散歩に繰り出した。

 曾祖母の屋敷は山の中腹に建てられている。そこからはいくつもの散歩コースが整備されていて、でも私が実際にそのコースを踏みしめたことはほとんどなかった。

 両親とも夏休みが繁忙期という仕事の都合上、夏休みの間の私の家は曾祖母の屋敷だった。だけど高齢者が体力の有り余る子供の散策についていけるわけもなく、また一人で山に行かせるのは危険だったから、私の遊び場は専ら何部屋あるのかも分からない屋敷の散策にあてられた。

 でもそれは十年前の話だ。

 私はもう、来月には成人することになっている。

 広葉樹林から漏れる光を浴びながら、酸素いっぱいの空気を吸って、吐く。聴覚はセミの求愛音に支配され、触覚は生温い湿気が纏いつき、嗅覚は森独特の土の匂いと青臭い植物の匂いしか感じない。そのすべてが私を不快にしたけれど、視覚だけは絵にかいたような夏の森に、風鈴の音を聞いて感じる爽快感と同じような涼しさをもたらした。

 マイナスイオンに触れながら、曾祖母の死にそこまでの衝撃を受けなかった私は薄情なのかと、一人でぐるぐる考え始める。

 確かに、横から刺されるよりは目の前でナイフを構えてもらったほうが、刺されたときのダメージは少ない。痛みを予め想像しているからだ。

 でも、多分私は刺されてすらいないんだと思う。

 喪失する思い出が、圧倒的に少なかった。

 だがそれもおかしな話だ。小学校を卒業するまで、私は毎年この屋敷に来ては夏休みの宿題を消費したり、祖父母と少し遠くの水族館まで行ったりと、それなりの時間を過ごしている。

 その中に曾祖母の記憶だけがなくて、曾祖母の存在だけが朧気だった。


 やがて目の前に、古く寂れた分岐路の看板が現れた。つたが覆いまわりの緑と同化している。

 この辺りの地図は一通り見てきたが完璧に覚えている訳ではなかったし、山で遭難なんて笑えない。

 大人しく元来た道を戻ろうとして、耳に聴こえてきたのは無邪気な子供の声。それは私を透過して、何の迷いもなく左の道を突き進む。

 その後ろ姿は、多分わたしの幼少期の姿だ。

 懐かしい土地に帰ってきたノスタルジーからか、それとも醜い大人に幻滅したからか、自分はまだ子供であると思いたい私が、足を先へと進める。


 少しすると聞こえてきたのは風情のある祭囃子の音色。祭りなんて一度も行ったことのない私ですら懐かしいという感想を抱くのだから、音楽の与える影響は遺伝子レベルだよなと改めて思う。

 その音につられるかのように下山すると、街まで下りきる前の神社で盂蘭盆祭うらぼんさいが開かれていた。

 この山に神社があるとは知らなかった。改めて、子供の足のなんと小さいことかを思い知らされる。

 だがよく見れば参道の石畳はどこも欠けていなかったし、鳥居の赤は色鮮やかに思えた。最近建てられたばかりなのだろうか。

 鳥居をくぐってから本殿まではかなりの距離があるらしく、その参道は色とりどりの屋台と人々で賑わっている。

 醤油の焦げる匂いに、卵の焼ける甘い匂い、まんま砂糖の甘ったるい匂いが、疲弊した体に食欲を蘇らせる。

 念のために財布を持ってきていて良かった。

 焼きそば、ベビーカステラ、綿菓子、チョコバナナ、ソースせんべい。気になった物から買った結果菓子系ばかりになってしまったが、腹は満たされた。

 最後の一つとして買ったりんご飴は、ずっと前から食べてみたかったものだった。

 はじめてその存在を知った時、私は確か小学生で、大抵の女児が通るようにキラキラ光るものが好きだった。母の大事にしている指輪についたルビーを想起させたりんご飴に憧れるのは、必然だったと思う。

 だが理想とはまるで違い、それはとても食べにくかった。リンゴ丸まる一つ齧るのだって大変なのに、飴にコーティングされたなら尚更だ。少し考えれば分かることだが、憧れは理想しか映さない。客観的視点がまるで欠けてしまう。

 さらにはリンゴも飴も、私が思っている以上に甘みが足りていなかった。リンゴの生産者及びきび砂糖の生産者及びりんご飴の製作者には申し訳ないが、私がこれを完食できる見込みは低そうだ。

 手がべたべたになる前にどこかに捨ててしまいたいと、あたりをきょろきょろしながら歩いていると、白い着物を着た少女が視界の隅を掠めた。

 その一瞬で脳に残るほど、その白い少女はこの雑踏から浮いて見えた。勢いのまま逸らしてしまった視界を、もう一度、彼女のいた石垣に戻すが、残念ながらそんな少女は見当たらない。

 幻覚だろうかと、目線を進行方向に向けると、その少女が目の前に立っていた。

 驚いた私は、思わず持っていたりんご飴を落として短い悲鳴をあげる。

「あーあ、そのりんご飴、もう食べられないね」

 少女は、見た目の割には落ち着いた声で言外に私を責めた。まるで自分は関係ないとでも言うような口ぶりに、私は心の中で、このクソガキが、と吐き捨てる。

「君は一人? お母さんは?」

 こんな子供正直言ってどうでもいい。多少、この生意気な態度を懲らしめてやりたいとは思うが、それよりも関わる面倒が勝り、その面倒よりも、子供を無視した大人げないやつと思われる方が面倒臭かった。

 極めて優しく聞きながら、この子の格好に違和感を覚える。

 まず、髪色。あれほど雑踏から浮いて見えたのは白い着物のせいではなく、同じくシルクの髪色のせいだった。彼女が少し首を傾ければ、青いリボンが後ろで長い髪を緩く束ねていることが分かる。

 珍しい、アルビノという病気の一種なのだろうか。肌もまつげも白い彼女は、唯一瞳だけは、熱く燃えさかる炎のような、太陽の傾く夕焼けような、落ちる直前の椿のような、あかだった。

 だけどそれ以上に猛烈な違和感を覚えたのは、顔の上半分を覆う狐のお面だった。多少視界は悪いだろうが目の部分は繰りぬかれた、なんの変哲もないただのお面。

 何がそんなに気になるのだろう。

 感じた違和の正体が分からないもどかしさが気持ち悪く、その原因を探ろうと少女のお面を凝視していると、それを発見するより先に、また違う違和感がこの身を襲う。

 音が、まるで聞こえない。

 先ほどまで聞こえていた祭囃子が、人々の騒めきが、いつの間にかピタリと止んでいた。

 驚いてあたりを見渡すが、景色自体は変わっていない。色とりどりの屋台に、祭りを楽しむ人々。

 音だけがそこには存在しなかった。

 私の耳がイカレたのかとそっと耳たぶに触れると、少女が笑った。

「あはは、やっぱり人間だったんだ」

 言葉の真意を測りかねて、何かを紡ごうとした口は結局開かれただけだった。ただ、私の耳がおかしくなったわけじゃないという事実は、私の背筋を凍らせた。

 じゃあいったい、この静寂は何によって作られたのか。

「なにぼけっとしてんの。ほら、逃げないと食べられちゃうよ」

 そう笑う少女の声を皮切りに、あたりの人々が、屋台が、神社が、輪郭を伴わない黒い靄となって一斉に迫りくる。

 私の手を引く少女の手の平は、その幼さからは想像できないほど乾燥していて皺だらけだった。だが、なにより驚いたのはその冷たさ。生きている人間とは思えない冷ややかなそれに、思わず肌を震わす。

 少女と一緒に黒い靄から逃げながら、私は場違いにもお面の違和感の正体に気がついた。

 あの祭りで、お面は売られていなかった。

 全部の屋台を巡ったわけではないので、その証明はできない。だけど、曾祖母の所有するこの山で、お面を売らない理由を私に説いた彼女がお面の販売を許すかは疑わしかった。

 お面というのは、人の心を、本心を、隠し偽るものだから、それを利用して悪い妖怪が人間に扮してこちらにやってきてしまうの。特に盆は、こっちとあっちが一番近い日だからね。

 曾祖母の声が脳内で再生される。

「あんた、こんな時にも呑気に考え事? もっとスピード出さないと、あっという間に追いつかれちゃうよ!」

 少女も黒い靄から逃げている身のはずなのに、いやに楽しそうに私を急かす。

「追いつかれたら、どうなんの!」

 記憶にあるよりはるかに長い参道をかつてないほど本気で走りながら、悲鳴同然に発した私の問いの結論は、その少女に応えられるまでもなく見えていた。

 待っているのは死だ。

 生存本能が死にたくないと叫ぶなか、心のどこかで、お棺に眠る曾祖母のように永遠の安らぎをたたえられるなら、それも悪くないとも思った。

「あはは、なんにもないってば。もしかして死ぬと思ったの? 死ぬのが怖くなった? それとも死ねると期待した?」

 この女、私を見下して笑っている。愚かで滑稽な喜劇を鑑賞している時の曾祖母と同じ声で、私を嗤っているのだ。

 そう思ったらそうとしか感じられなくなった。この女は私を助けるようなふりをして、本当は後ろから迫りくる靄と一緒に私を嗤っているんだ。

 ナンパしてきた男と、ナンパから助けてくれた男が実はグルだったという話はよく聞く。

「じゃあ、なんなのよ」

 だが、この女が敵だとして、今この状況から一人で逃げられる気がしない。それならこのまま茶番を続けさせて隙を窺う方が得策に思えた。生意気なガキに嗤われるのは屈辱的だったが、今はプライドよりも未知への恐怖が勝っている。

「妖怪になるんだよ。もちろん今すぐって訳じゃない。然るべきタイミングで死んだ後、あんたは妖怪になる」

 今度は笑わずに告げた少女の声には、一種の悲壮感と諦めが滲んでいた。そんな少女の態度に、先ほどまで熱をあげていた屈辱が少しだけ冷めていく。

 そしてその言葉と少女の容姿から導き出された結論は、彼女は妖怪で、多分雪女ということだ。

 白い浴衣に、血の通っていないような冷たい手。

 きっと、彼女は、あの靄に。

「じゃあ、どうしたら戻れるの」

「それはあんたが知っている。さあ、思い出して。あんたがここから出る方法、あんたがここに来た理由。あんたは全部知っている」

 視界の端で、りんご飴が落下する。



 欲しいものを我慢するという習慣が無かった。

 家がそれなりの中流階級だったのも、それを助長した一つの理由だったと思う。

 私が欲しいと口にすれば、大抵のものは手に入った。美味しいお菓子も、かわいい服も、流行りものの玩具も。

 だけど一つだけ手に入らなかったものがある。

 その時の私は女児らしく、キラキラとしたものが好きで、また化粧に一定の興味があった。そんな私が母のドレッサーに勝手に座るのは、当たり前と言えば当たり前であった。

 いろんな引き出しを開けては中のものを漁り顔に塗りたくる。手も顔もドレッサーもどろどろのぐちゃぐちゃになる頃には、最後の引き出しも迫っていた。

 引き出しを開けると、いろいろな書類が散乱する中、一つの指輪ケースが異彩を放っていた。紺色のそれを開けると、入っていたのはルビーの指輪。

 キラキラ光る緋色のそれに私が魅入られたのは当然で、また欲しいと思ったのも必然だった。

「ちょっと何してるの!」

 その時ちょうど母が買い物から帰ってきた。まさかこの短時間で自分のドレッサーがこうも荒らされるとは思わなかったのだろう。

 驚きと焦りに甲高い声で悲鳴をあげた母は、ドレッサーの惨状よりも私の指につくルビーの方が許せなかったらしい。

 乱暴に腕から指輪を取り上げた母は、「もう勝手に部屋に入らないこと」とだけ注意してドレッサーの片づけを始めた。

 怒られなかっただけでも随分と甘やかされているのだが、私にとってこれは「思い通りにいかない初めての出来事」だった。だから余計に、あのすべてを焼き尽くすようなルビーの指輪が欲しくなった。

 私に欲しいものを我慢するという習慣はない。

 さっそくその日の夜、私は母の部屋に忍び込み目的のものを持ち去った。犯行はいたって簡単だった。母は父と二人の寝室で寝ていて部屋にはいないし、私は一人部屋で寝ていたからだ。

 次の日、幼稚園で他の子に見せびらかすために制服のポケットに指輪を入れる。母はまったく気づいていない素振りで「お母さんのへや、入っちゃダメだからね」ともう一度忠告してくれたが、もはや意味はなしていなかった。

 子供の興味は恐ろしく移ろうのが速い。私は幼稚園についてすぐに友達に自慢し、羨望の声に満足すると直ぐにその指輪に興味をなくした。

 手を洗い、ポケットからタオルを出すと、それに引っかかったルビーがぽーんと宙を舞う。それにりんご飴が落下する様子が重なって、判断が少し遅れる。

 あかいルビーは、排水溝へと吸い込まれていってしまった。


 心臓が、どっどっどっどっ、と嫌な音をたてる。これほどまで自分が血の通った人間だと意識させられたことは無い。ポンプから勢いよく放出された血液が熱を伴って体中を駆け巡る一方、頭からはどんどん血の気が引いていった。

「どう? 思い出した?」

 声を掛けられるという外部の介入により、私は意識を内から外へ引き上げる。するとまず目に飛び込んできたのは、先ほど記憶の中で盗み無くしたルビー色。

「わっ」

 驚いて一歩後ずさる。また嫌な音をたてた心臓を抑えながら、先ほどのルビーが彼女の瞳だったことを理解する。

 それは驚くほど同じ、あかい、あかい、ルビー色だった。

 先の記憶を思い出し目を逸らすと、視界に入ったのはよく遊んでいた近所の公園だった。もしこれが現実なら、私は曾祖母の家から約八百キロ離れた実家に一瞬のうちに飛んだことになる。

 いい加減、これが現実だとは思えなくなってきた。

「あんたは何がしたいの? 私に何をしてほしいの?」

 例えばこれが小説のように、この異空間で提示した謎を解いてみよ! や、あんたは妖怪の長に捧げる生贄だ! などと言われたら、納得はできないものの理解はできる。

 向こうの目的や、やるべきことが分かるからだ。

 でも、この雪女はただ私を連れまわしケラケラと笑うだけ。いい加減付き合えなくなってきた。

 更に我慢できないのは、もう忘れ去っていた幼少期の嫌な記憶を思いださせられる嫌悪感と苦痛だ。謝るべき相手はここにはいないのに、少し油断してしまえばか細く許しを請う言葉が喉から漏れ出そうになる。

「まあまあ、思い出すうちにそれも分かるって。ほら、早くしないとあいつらに飲み込まれちゃうよ」

 いつの間にか、この公園は黒い靄で囲まれていた。

「さあ思い出して。あんたの罪を」

 雪女が、髪を結っていた青いリボンをほどき、風に合わせて手を放す。


 責任感というものがまるでなかった。

 好奇心はあちこちに向くのに、それを最後までやり遂げたことは、多分一度もない。

 ある日、友達の家に遊びに行った。その家ではマルチーズを飼っていて、とてもかわいいと思った。欲しいと思った。

 家に帰ってすぐに犬を飼いたいと母に言えば、「ちゃんとお世話できるの?」と渋い顔をされ、父には真顔で命の大切さについてみっちり説かれた。

 私はその話がよく理解できてなかったから、できると生返事を返した。

 予想は出来たことだが、犬の世話はほとんどが母親の仕事になった。私といったら、気が向いた時だけ散歩に行き、気が向いた時だけ餌をあげて、気が向いた時だけ構い倒すだけ。

 母も父も呆れていたけど、私を叱ることは無かった。

 友達の家にいたのと同じ白いマルチーズのシロが来てから二年ほどたったある日。私は夏休みの宿題から逃げるべく、シロの散歩に繰り出していた。いつもの家の周りを大きく一周する散歩コース。

 シロのしたウンチをビニールで回収しながら、やっぱり宿題をしていればよかったと少し後悔すると、いつもの公園にクレープの移動販売車を見つけた。

 少しぐらいいいよね、とその販売車に近づき、クリームたっぷりのいちごクレープを注文する。

 シロはあまり動き回ることは無く、リードを引っ張られることもほとんどない。だから、他に興味が移ったせいで意識が薄れたのだろう。

 財布から小銭を出す拍子に、私はシロのリードを手から放してしまった。私が選んだ、かわいい水色のリードは、走り出したシロの後ろで靡きながらどんどん遠ざかっていく。

 追いかけたが、小学生の私の足で小型犬とはいえシロに追い付けるわけもなく、シロはそのまま車道に飛び出した。


「シロ!」

 自分の声で目が覚める。

「あはは! 泣くほど大事にしてたのに忘れてたんだ!」

 雪女に指摘されて自身の目元を撫でると、確かに濡れていた。当たり前だ、目の前で愛犬が死んだのだから。

「でも、本当に大事だったのかな? あんたは、自分が怒られる心配を先にしたんじゃない?」

「そんなことっ」

 無いとは言い切れなかった。だって、ルビーを排水溝に落としたときと同じ音が心臓から聞こえる。

 そんな私の態度に、雪女はまたケラケラと笑って私の手を引いた。その手は相変わらず見た目に似合わない、皺だらけで乾燥したものだった。

「まだまだいくよ」

 雪女が言うと同時に、あたりのが山の中へと変わる。後ろには何度見ても慣れない黒い靄。

 手を引かれる私は否応なしにその山道とも呼べない山の斜面を駆け上がり、そして案外早く頂上へとついた。私の部屋よりも小さい頂上からは、海と山とに囲まれる町が一望できる。

「ここ……」

「お、思い出せそう?」

 私はこの景色を知っている気がした。山になんて一度も登ったことは無い。つまり、私はここでの記憶を忘れたのだろう。

 だがあと一歩、あと一つきっかけが必要だった。

「しょうがないなあ。こうしたら、思い出すでしょ。あんたの罪」

 雪女はそう言って、狐のお面に手をかける。これから嫌な記憶が蘇るというのに、私は雪女から目が離せなかった。

 夏だというのに凍りついたような沈黙が二人の間に流れる。

 そして、雪女は仮面を剥がし、地面に落とす。


 パチン。

 軽い破裂音が、祭囃子を貫通して耳に届く。反射的に音のした方へ目を移すと、自分の手を抑えた女性の前に、頬を抑える少女が静かに立っていた。

 咄嗟に浮かんだのは児童虐待の四文字。こんなに人の目がある夏祭りで娘を殴ってしまうぐらいには、母親にも余裕がなかったのだろう。

 真っ青な顔をして母親らしき人物は少女を置いて逃げてしまった。

「ほっぺ冷やす?」

 すぐそこの屋台で瓶のラムネを買って少女に差し出す。少し大きい白い浴衣に身を包む少女に声を掛けたのは、もちろん少女が心配だったというのもあるが、どうすればいいか分からないという風に遠巻きで見ていた人達のためでもある。

 たとえ純度百パーセントの心配で話しかけても、成人男性の場合は逆に通報されてしまうこともある。中学生で、しかも同性の私が話しかけるのが一番丸いような気がした。

「……うん」

 突然話しかけた私にも警戒するような素振りはなく、大人しくラムネを受け取った少女は、目に光を宿していなかった。

 少し屋台から離れた石垣に二人して腰掛け、ぼうっと道行く人々を眺める。

「お名前は?」

「雪……」

「雪ちゃんか。いい名前だね」

 別にその沈黙が気まずいわけではなかったけれど、この少女に興味の湧いた私は質問を重ねる。

「いつもお母さんに叩かれてるの?」

「うん。でもお母さんの方が苦しそう」

「雪ちゃんより?」

「うん。私が生まれてこなかったらお母さんはあんなに苦しまなかった」

 それはどうだろう。ああいう人間は、たとえどんなことがあっても自分を可哀想と思い込める人間だ。雪ちゃんが生まれてこなかったとしても彼女は不幸の真っ最中だろう。

「お母さんに苦しんでほしくない?」

「うん」

 即答する雪ちゃんにとって、母親というのは絶対的な存在なのだろう。

「だから、お母さんを苦しめる私なんて死んじゃえばいいのにって、いつもおもってる」

 この子にはいつか、母親が間違っていて、自分が理不尽な暴力を受ける謂われわないと気がつくときが来るだろう。だが、そのいつかはきっと何年もあとのことだろうし、それに気がついてから解放されるまで、もっと苦しい日々を過ごすかもしれない。

「死んじゃいたい?」

 はじめて、雪ちゃんがこちらに顔を向けた。

 先ほどの虚ろな、何を映しているのか定かではない瞳から一変して、雪ちゃんはキラキラした、期待に満ちるそれで私を捉える。

「お姉ちゃんが殺してくれるの?」

 なんの屈託もない、好きなお菓子を買ってあげると言われた少女のような純粋さで雪ちゃんが聞く。

「いいよ。でもその前に、お祭りを楽しんでからね」

 私が優しくそう言うと、雪ちゃんはにんまりと笑ってから、約束だよ、と小指を差し出す。

「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます。ゆびきった!」

 キャッキャと年相応の笑顔で笑う雪ちゃんに連れられて、たくさんの屋台を回った。焼きそば、ベビーカステラ、綿菓子、チョコバナナ、ソースせんべい。射的やスーパーボール掬いや輪投げ。私のお小遣いで遊べたのはそこまでだったけれど、雪ちゃんはたいそう喜んでくれた。

「楽しかった?」

「うん! こんなにおいしいものをいっぱい食べられて、いっぱい遊べたのはじめてだった」

 じゃあ、死ぬのは止めにしない?

 口にするのは簡単だった。でも、雪ちゃんが呟いた言葉に、私ごときの言葉でこの子の意思は変わらないのだと知る。

「もう死んじゃいたいくらい」

「じゃあ、いこっか」

 私にこの子を殺せるわけがなかった。それは多分良心の呵責なんて大層なものじゃなくて、今日出会っただけの子供に自分の手を汚すことなんてできないという、醜い自己保身のためだ。

 でも、じゃあどうしたらいいのか分からなくて、私は雪ちゃんの手を握って暗い山道を登った。きっと、そこが一番花火が綺麗に見れると思ったから。

 でも、雪ちゃんは花火を見る前に死んだ。

 暗い、整備もされていない山の斜面を子供二人であがってたのだ。足を滑らせるのも時間の問題だった。

 暗い闇に吸い込まれるように落ちていく雪ちゃん。

 奇しくもそれは、雪ちゃんの願いと私の願いを同時に叶える結果となった。


「ふふ、思い出した?」

 目の前の雪女の肌から鮮血が滲んで見える。

「雪ちゃんなの……?」

 仮面を外した雪女は、髪色こそ異なっていたが、顔や着物は雪ちゃんそっくりで、なぜかひどく安堵した。死者を見て安心するなど、おかしいこととは分かっている。でも、あれ以来忘れていた雪ちゃんを、こうして形として思い出せるだけでも嬉しかった。

 だが、私の歪な安堵は目の前の雪ちゃん、いや、雪女にとっては不快なものだったらしい。それまでの、人を馬鹿にするような笑い方とは違い、今度は心底呆れたように鼻で笑う。

「あんた、自分の罪を許された気になってるじゃないでしょうね?」

「あれはっ、事故だった。私のせいじゃ……」

「なんにも分かってない。あんたが殺したかどうかなんて関係ないの。あんたの罪はそこじゃない」

「じゃあ何よ!」

 確かに、雪ちゃんを思い出したことによってどこか釈放されたような気になった。図星をつかれた人間は醜く喚くことしかできない。

「あんたの罪は、ルビーも、シロも、雪ちゃんも、全部全部忘却の彼方へ捨てた事。苦しくてもあんただけは覚えてなきゃいけなかったのに、あんたは全部捨てた。それが、あんたの罪」

 目の前の雪女はもう泣きそうだった。苦しくて仕方ないという風に胸を押さえ、きっとこちらを睨む。

「あんたはまだ全部を思い出しちゃいない。この時まで待ってたんだ。これから思い出してもらうのはあんたの罪であり、ここから出る方法」

 小さな山頂を取り囲む靄が、雪女の叫びに共鳴して一層濃くなる。

「さあ思い出すんだあかり! 曾おばあちゃんが死んだいま!」


 あかりは綺麗な歌声を持っているからね。

 そういって曾おばあちゃんがしわしわの手で頭を撫でてくれるのが、私は一等大好きだった。

 曾おばあちゃんの家に行くたびに、私は曾おばあちゃんの前で歌を披露した。流行りの曲から最近習ったオペラまで。私は曾おばあちゃんに歌を聞かせるのが好きだった。

 中学に上がって、進路をどうするか考えたとき、私は自然に、歌手に成り立いと思った。曾おばあちゃん以外のみんなにも聞いてもらいたかった。

 でも、アイドルと書いた子は、クラスみんなに笑われた。

 野球選手と書いた子も、クラスみんなに笑われた。

 嗤われなかったのは公務員や会社員、パイロット、医者、看護師、そんな職業だけで、そのときにはもう、歌手になりたい何て思わなくなっていた。

 でも、こころの隅で諦めきれなかった。だからみんなに内緒で声に関する専門学校をかいて提出した。

 そうしたら、先生にも笑われた。もっと現実を見なさいって。

 だから、忘れることにした。歌って楽しかった記憶全て。

 あかりはきっと一番に目をつけられてしまうだろうね。だって……綺麗な歌声を持っているから。もし妖怪にさらわれたら、歌うといい。あかりのその歌で妖怪を泣かせたらきっと戻ってこれるから。

 曾祖母は動かない表情で、でも優しく私にそう説いた。

 全部、思いだした。


 目を開けると、そこは綺麗な夜の浜辺だった。靄なのか、それとも吸い込まれそうなほど深い青なのか、私には区別がつかない。

 ただ暗くて寂しい砂浜の上で、雪女がこちらをじっと見つめる。

 そのルビーの瞳が、その白い髪が、その白い着物が、そのしわしわの手が、私が忘却した全てが、私を責めるようにこちらを見る。

「思いだしたよ。全部。私が忘れちゃいけなかったこと」

 忘れてはダメだったのだ。他の誰が忘れても、私だけは覚えていなくちゃいけなかった記憶の数々。

「だから、ありがとう、ここに連れてきてくれて。ありがとう、私が忘れても、あなただけは覚えていてくれて。私はもう、前に進める」

 雪女が少しだけ微笑んだような気がした。


「雪ちゃんのお墓に行きたい。あと、シロのも。それと、ルビーの指輪、無くしてごめんね」

 高校三年の夏、私は東京に戻ってからすぐに塾をやめ、音大を受けるための対策を始めた。母に紹介してもらったピアノの先生は、ピアノだけでなく声楽の実技、筆記、聴音も教えてくれて、私は一浪してなんとか第一志望の音大に合格することができた。

 夢をかなえる第一歩を踏み出した私は、合格した翌日、母に、雪ちゃんとシロのお墓詣りに行きたいことと、ルビーの指輪をなくしたことを告げた。

 まだ寒い、乾いた風が体を芯から冷やしていく。

 雪ちゃんのお墓は、曾祖母の埋められた墓地と同じ墓地に埋められていた。

 そのふたつにお花を添え、あの夏の不思議な体験を追憶する。

 あれはきっと、雪ちゃんでも曾祖母でもシロでもルビーでも無かったのだろう。私が忘却の彼方へと追いやった記憶達の集合体があの妖怪を生み出したのだ。

 そしてそのおかげで私は彼女たちを思い出すことができた。

 きっと、これからつらいことや忘れてしまいたいことがあったとしても、私はきっと忘れることは無いだろう。

 忘れることの罪深さをしっているのだから。

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夏の雪女 彩葉 @irohamikan

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