第2話


 都営三田線に志村三丁目駅から乗り込み、巣鴨駅で山手線に乗り換えて二駅、池袋駅で降りて東口北の繁華街にある大天飯店という中華料理屋の隣のビルの一階のキャバレー店、クラブショコラで僕はピアノを弾いている。エレベーターのない三階建てのビルで二階にはスナックが入っていて、三階は空いている。グランドピアノが箱の隅に置いてあり、L字のソファ席が四つ、カウンターが五席、ビーズのあしらわれたレースのカーテンで仕切られたVIP席が二つある。黒基調の大理石テーブルの上に水やグラスや灰皿が置かれ、古ぼけたシャンデリアが気だるそうに天井からぶら下がっていて、それはいやらしい空間をボヤッとしたオレンジでいやらしく照らしている。赤色のカーペットだった物は、黒ずみ、毛羽立ち、僕の目には池袋西口繁華街よりも汚く見えた。

煌びやかなドレスを身に纏い、巻き髪を揺らすやたら胸だけがデカく見えるガリガリの女達を活ける花瓶の一部の役割を、僕はもう三年も担っていた。このバイトは母方の叔父の紹介で始めたものだ。心のチンポをイキリ勃たせて来るものの自分の方が酔わされてベロベロになり、足元すらおぼつかない様子で女に半ば強引に会計を出され帰っていくオッさん達を黒服が支えるのを横目に僕の指は鍵盤の上を踊っている。ざまあみろ。弾けないくせに演奏にアドバイスという名の講釈を垂れてくる黒服も、僕のピアノを聴かずに何百万という金を使って、それでも尚女を抱けない情けないオッさんも、全員死ねばいいと思う。ゲボでも浴びて死ねば良い。でも、人の興味を惹けない凡庸でつまらない音しか出せない僕はもっと、死ねばいい。一度でいいから、誰でもいいから、僕の演奏に最初から最後まで没頭してほしい。実力なんてクソほども無いのにおこがましい。人間は気色の悪い生き物だ。尾田栄一郎は作中にキショキショの実の能力者を登場させるべきだ。ゴムゴムの実だかヒトヒトの実だか知らないが、彼よりもきっと人気者になると思うのに。そんなわけないか。くだらない人生だ。くだらない事を考えてくだらないものを食べてくだらない惰眠を貪って、くだらない音を出している。クソッタレ。酒が飲みたい。タバコが吸いたい。欲ばかり一丁前で参ってしまう。何も考えずに今この鍵盤に、指に、脚に、耳だけに集中してピアノが弾けたなら、何か変わる気がする。一つに集中する事すら僕にはできない。今だって今朝から直すことができなかった顔に塗ったファンデーションや描いた眉毛が消え落ちていないか気になって仕方ないのに。三才から始めたピアノも、こんなところでしか使えない。通っている音楽大学は、一年留年して今五年生だ。留年してまで通っているのに未だ講義をまともに聞いたことはない。辛うじて実技は出ているし課題もこなしてはいるものの、座学になると睡魔に襲われ呆気なく倒される。ない物ばかりで、ねだってばかりだ。十九時から一時まで通しでピアノを弾き続ける毎日に、最初こそ僕の手腕は悲鳴をあげていたが三年も続けるともうそんな事も無くなっていた。ただ消費されている虚しさや悔しさみたいなものだけが静かに、積み重ねられていく。目に見えないがそれは確かにそこにあった。 

今日も仕事を終えて店を出る。いつもは店の送りを使用して家まで帰るが、今日はそういう気分だったので歩いて帰る事にした。六キロ程度の距離だ、一時間半も歩けば着くだろう。と、思っていたのだが、情けない事にたった三十分程度歩いたところで僕は疲れ果て道脇に座り込んで後悔していた。

「お兄さん、何してるの?」

つむじの辺りから降ってきた声に僕は驚き顔を上げる。肩より少し長い髪を暗闇に紛れさせた、やたら肌の白い若い女がそこにいた。いよいよそういう段階に足を踏み入れたか、と思うのも束の間、僕の肩に女の手が触れて勘違いかと顔が熱くなる。馬鹿だな、僕は。そりゃそうだ、よかった、ホッと一安心の僕は

「触らないでもらって良いすか」

と口を開いた。女は

「いやだった?ごめんごめん」

と白くて骨張った線の細い手を退ける。小さな爪の淡いピンク色が女に流れる血液を可愛らしく主張していた。

「何してるの?」

「なんだって良いでしょう。」

「いやぁ、死にそうな顔してるから、つい。」

「危ないから、気軽に声をかけないほうがいいっすよ。僕は男で、君は女なんだから。」

「お兄さんは酷いことできないよ。絶対。」

と、女は右側の口角をクイと上げる。ムカつく。決めつけやがってと思ったが、実際、僕には女一人どうにかできるような度胸も根性も物理的なパワーもない。図星をつかれて腹を立てている自分に一番腹が立った。それと同時に、初対面の小娘に腹を立てさせられるような事を言われている事にも腹を立てている。陰気な気持ちに拍車がかかって、いよいよ僕は動けない。はぁーと大きなため息を吐くと女は

「これ、飲みます?」

と今度は丁寧語で缶コーヒーを差し出してくる。

「間違えて甘いの買っちゃって。私コーヒーは無糖派なんですよ。」

無理矢理僕の手に缶をねじ込む。奇遇にも僕はコーヒーは加糖派だ。なんだか悔しいので返そうかと思ったが、返されるのを避けたのか女は人一人分くらい離れた場所に立っていたのでもらう事にして

「ありがとうございます…。」

と情けなくお礼を言う。女はコーヒーの缶を弄ぶ僕をしばらく見下ろして

「お礼の言葉は良いから、お兄さん、私の事雇ってもらえない?私、何でもするし何にでもなれるの。」

などと言う。

次に出てきた僕の言葉は「はぁ?」だった。

「とにかくこれ、私の連絡先だから。絶対連絡してね。待ってます。」

半ば強引に渡されたメモ帳は、花畑の周りを三匹の猫が踊っている可愛らしいデザインのものだった。真ん中に電話番号、その下にメールアドレス、更にその下にはTwitterのアカウントが女の見た目よりも随分大人びた筆跡で記されている。そうして女は

「またね」と言い残し居なくなった。別に本当に雇うつもりなどないが、Twitterを覗いてみたい衝動に駆られてスマホを開く。スマホの充電が切れそうだったので僕はようやく立ち上がり、約百メートル程離れた場所に見えるコンビニを目指して歩き出した。チャージスポットで充電器をレンタルしようとして立ち止まる。いや待て、馬鹿じゃないのか。あんな強引で頓知きな女のTwitterを見てどうするんだ。興味を惹かれるんじゃない。そうだこれは帰りがてら聴く音楽のための充電だ。自分で自分に言い聞かせて、QRコードを読み取るとカチッと音を立てて充電器が飛び出す。僕はそれを手に取りスマホを繋いだ。時刻は午前三時二十二分、店を出てから早いものでもう二時間近くが経過していた。早く帰ろう。さっさと眠ろう。あの女のことは忘れよう、忘れたい。さっきまで全く動かなかった脚は早々と地面を蹴って、僕は息を切らせながら帰路についた。Twitterは意地でも開かなかった。途中で脚を緩めて貰ったコーヒーの缶を開けると、秋の始まりのほの冷たい、なんでもない空気が甘ったるく香りを変えた。


結局家に着いたのは午前四時五十分だった。父親名義の楽器可、1DKのマンションに僕は住んでいる。十二階建オートロック付きのアリエッタというマンション。七⚪︎三号室。一時間半もあれば着くはずだったのに、僕は全く、本当に健気な男だなと自賛する。先の僕に誓った通りに、風呂にも入らず化粧も落とさず、スーツのまま即刻ベッドに身体を沈めて眠りについた。

あんなに歩いたのは久しぶりだったからか、なんだかよく眠れた気がする。起床したのは午前九時十八分、普段より短い睡眠時間だったが頭は晴れ渡っている。起き上がりシャワーを浴びるために風呂場に行き、鏡に映った化粧の溶けたドロドロの顔を見て絶望する。化粧を落とさずに眠ると元の肌のコンディションに戻すまでに二百日かかるらしい。そんなわけあるか。ふざけやがって。もう何でもいい。ワイシャツのボタンを下から外して服を脱ぐ。上着とスーツのジャケットとスラックスは寝ながら脱いだらしい。

シャワーを浴び終えて風呂を出る。バスタオルを脱衣所に持ち込むのを忘れたが、もはや何も気にならない僕は身体のあらゆる所からばたばた落ちる水滴で床を濡らしながらリビングまで歩いて、濡れた身体のまま再度ベッドに寝転んでタバコに火を付けた。窓も開けずに吸うから、ヤニで壁が黄ばみ始めている。吐いた煙が揺蕩うのを見るのが好きだ。奴らはクラゲの脚みたいに僕の周りを浮遊し自由に消えていく。

そういえば昨日借りた充電器を返しに行かなければならない。しまったな。適当な服を着て、布団の中にぐちゃぐちゃに丸まっている上着を発掘して家を出る。最寄りのコンビニまでは徒歩で三分程だ。昨日は気付かなかった金木犀の香りが鼻をくすぐった。日差しは強いが空気が澄んでいて冷たい風が頬を撫でた。ぼーっと息をしていただけなのに順当に季節は過ぎていく。この調子だと二秒で冬が来そうだ。

チャージスポットに充電器を返して、何も買わずにコンビニを出てまたタバコに火を付ける。人の目が気になって仕方がないので、コンビニの喫煙所で吸ってから帰る。歩きタバコをするだけの気の強さがあればどれだけ良いかといつも思う。僕が歩きタバコが出来るのは深夜か早朝だけだ。僕は小心者だから、それも携帯灰皿を持ち合わせていなければできない。電車の中で物を食べたりとか、駅の自動販売機で飲み物を買うとか、そんな事すらままならない。誰も見てないのはとうの昔に知っていたが、僕にはそれらが恥ずかしくてたまらない。

タバコを吸い終えて上着のポケットに手を突っ込んで僕は心臓が抉られるような感覚に陥った。昨晩あの女から渡されたメモがカサりと音を立て手に触れ、更に僕の善心を刺激するようにコーヒーの空缶が入ったままになっていたからだ。

「あーあ、見つけちゃったねえ」

と脳内であの女が、右側の口角をクイと上げて声をかけてきてまた腹が立った。ぐっすり眠った後なのにあんな訳の分からない経験を夢だと認識せず、あの顔と声を鮮明に思い出せる僕にも腹が立つ。

帰宅後僕は何をトチ狂ったのか、メモ書きに記されている電話番号にコールしていた。三回目のコール音の途中で女は出た。

「はい、智世です。」

脳内で再生された声と同じ声で女は智世と名乗った。女の声は誰かの腕の中で眠り額に口付けされるような、優しくてくすぐったい音をしている。

「もしもし、あの、昨日の夜に、」

とまで言ったところで遮られて

「あ、昨晩のお兄さん?本当に連絡くれたんだ、ありがとう!律儀だねぇ、ふふ。」

と電話の向こうで笑ってる。言葉を遮られて少し靄がかったが、なんだかうまく言葉が出てこなかったので僕に気付いて遮ってくれた事にありがたくも思った。女は続ける。

「名前は?」

「秋靖、藤沢秋靖です。」

「秋靖くん、私は綿貫智世です。電話ありがとう、連絡来ないだろうなって思ってたから嬉しい。」

「君が絶対連絡してねって言ったんじゃないか。僕はそんなに薄情に見えたか?」

「あはは、そんなんじゃないよ、ふふ、私が怪しすぎたでしょ、だから」

どうやら怪しい自覚はあったらしい。僕は何故だかとてもリラックスした状態で女と駄弁っていた。普段は誰かと言葉を交わすなら、身構えて肩に力が入ってしまうのでこの状態は僕にとって稀だった。そういえば昨晩も僕は女に身構えることはなかった事を思い出す。この女は口からα波を出すタイプの人間なのかもしれない。にしたって、キショすぎるけど。もしやこの女こそキショキショの実の能力者なのかもな、とかまたくだらないことを考えて僕は笑けてくる。

「それで、秋靖くん、私のこと雇ってくれる?」

女は切り出す。

「ああそうだったな、いいよ、雇おうじゃないか。」

しばらくの談笑に気を良くしていた僕は素直に、女を雇う事を約束する。僕もまた、キショキショの実の能力者だ。

「いつ?どこに行けばいいかな?どんな格好が良い?どんな女の子が秋靖くんの理想なの?」

「いや、あんたはもう充分だと思うよ。本当に、話す時こんなに心を砕かないのは初めてだ。でもまあ、そうだな、正装して来てくれないか?場所は後からメールするよ。それじゃ」

「わかった、じゃあまた。」

そうして僕は電話を切った。三十分と少しの通話時間だったが、あんまり満たされた感覚に僕は今すぐピアノが弾きたかった。すっかり物置になっている自宅のアップグランドピアノを綺麗にして、調律も頼もうと思い立った。父親にピアノの調律を頼みたい旨のメールを一本いれる。とりあえず、いつから開いていないのかも忘れてしまった鍵盤蓋に積まれた楽譜や本やCDなんかを所定の場所へ移動させる。楽譜や本は完全に積読になっていて、中にはフィルムすら剥がされていない物もあった。そこに混ざった五線譜のルーズリーフに音符が転がっているのをみて僕は思い立つ。あの女の曲を書いてみよう。腐っても音大生だ、一ヶ月もあれば書けるだろう。作曲課題も出ている事だ、丁度良い。紙とペン、iPadを乱雑に鞄にぶち込んで僕は家を出る。化粧をせず、中学時代のジャージを着て外出するなんて近所のコンビニやスーパーに行く以外では有り得ない事だと思っていたが、案外良いものだ。僕の肩はすっかり重りを落として軽々しい。電車に乗り込んでまずメールを確認すると父親から明日調律師を向かわせると連絡が入っている。その後レッスン室の予約をするのにホームページを開いた。気に入っている五番のレッスン室が空いていたので予約を入れる。東京音楽大学の池袋キャンパスまで東口から出て徒歩十五分。PASMOは定期になっていて、切れる頃母親がわざわざ僕の家まで新しい定期券を持ってやって来て、作り置きの料理や洋服なんかをついでだからと置いていくシステムだ。僕の実家は埼玉県の所沢市にある。近くもないが遠くもないので母親は頻繁になにかと理由を作ってやって来る。母親は自宅でピアノ教室を営んでいて、父親は私立高校の音楽科の教師だ。僕のピアノのルーツはまず間違いなく両親であると言えるだろう。二十三歳にもなって、住む場所や交通やその他諸々の援助を親から受けているのは情け無い事だと自覚してはいるものの、過去ラーメン屋にコンビニ、居酒屋のバイトを立て続けにクビになっている(見兼ねた叔父が今のバイトを紹介してくれたのだ)本当にピアノくらいしか出来ることのない僕からしたらその援助はとてもありがたいものだった。同期生や店の黒服からは箱入り息子だなんて揶揄されているが、それがどうした。自分の将来のことですら親の後をのんべんだらりと歩いているだけの僕には、今更そんなこと言われたところで響かないし、かじれる脛はかじるどころかしゃぶり尽くすのが賢いだろう。

キャンパスに着いて、僕は早歩きで練習室に向かった。途中で同期生で唯一の友人と呼べる坂口という一つ歳下の男に

「お、秋靖、今日は随分ラフだな」

と声を掛けられて僕は後ろ向きに歩きながら

「ああ!ご機嫌だもんで!」

言い捨てる。

「今日の飲み会くるかー?」

と少し離れた場所から大声で尋ねられ

「行かない!ピアノ弾きたいからー!」

と僕もまた少し離れたところから大声で答えた。後ろ歩きで手を振りながら話すなんて初めてだ。僕は今周りの目なんて一寸も気にならなかった。ただ僕がご機嫌でいることが嬉しくて仕方ない。

練習室に入り、鞄から紙とペンを出して譜面台にのせた。次に屋根を持ち上げ突上棒で固定する。鍵盤蓋を開け、鍵盤に手を乗せる。指先がひやりとして、背筋はしゃんと伸びた。ダンパーペダルに右足を乗せて、足裏に伝わるペダルの感触に落ち着く。重たい鍵盤を指でグ、と押し込むと音が出る。同じピアノのはずなのに、今日の音はいつもの何十倍も柔らかく、まるで深海の雪のように輝いていた。暗がりにぼおっと光るような、救いの音だった。良い音が出ると筆も進む。五線譜のルーズリーフはみるみるうちに黒鉛でできた音符を今の僕と同じくらいご機嫌に跳ね上げさせた。いつまでもこの時間が続けば良い。僕の脳みそは、手は、足は、今生まれて初めて生きている。生まれて初めてどうしようもなく忙しない。

しかし五十分も経つ頃には、脳みそはすっかりオーバーヒートで、手首の腱鞘は限界を迎えていた。自分の体力のなさをうっかり忘れていたし、どんなに集中していても体力が尽きれば集中も尽きてしまうもので、人間の出来の悪さというか僕の出来の悪さにあんなに楽しくご機嫌だった僕の心はあっという間に折れかけていた。まだ折れた訳じゃないぞと自分で自分を慰めて、でも今日もバイトに行かなきゃならないから一度帰って用意しないとだし、とか、明日には調律師が来るから自宅でも練習できるようになるし、とかああだこうだ言い訳をしまくって僕は結局二時間ほどで練習室を後にする。ピアノを弾きたいと飲み会を断ったのになんてダサい男なんだ、僕は。

キャンパスを出て駅まで向かう。途中坂口と鉢合わせなくて良かった、なんてまたダサいことを、それからやっぱり着替えて化粧も済ませてくればよかったと考えている。興奮も頭もすっかり冷え切ってしまっていた。テキトーな格好や何も塗られていない顔が恥ずかしくて堪らなかった。上着のフードを深く被って、眼鏡が入っていないかな、と鞄を漁るが入っていなかったので諦める。しゃんと伸びたはずの背中がすでに丸まっているのをいつのまにか再び重りを乗せた肩に自覚して、まあ、早々人は変われないものだよなとまた諦めた。

家に着く頃にはいつも家を出る時間だった。慌てて店長の飯島さんに電話をかけて謝罪と遅れる旨を伝えると飯島さんは

「ああいいよー、いつもありがとねー。開け作業は大丈夫だからー。じゃ、来れる時間になる早で来てくれればいいからー。気をつけてー。」

と気のいい返事をくれた。語尾のだらけた感じが僕を安心させて、感謝を伝えて急ぎ準備を進める。何故黒服でもない僕が開け作業や閉め作業をしなければならないのかといつもやるかたない思いでいたが、いざそれが自分都合で出来ないとなると罪悪感に苛まれている。つくづく損な性分だと思う。

何か食べながら準備をしようと思い冷蔵庫を開けるが何もない。実家の冷蔵庫に常時入っていたプリンやシュークリームみたいなちょっとした励ましのような物を自分で用意する難しさはいつも僕を苦しめた。親から譲渡され続けている愛情をなんでか上手にキャッチできないから、こういう日常のちょっとした所にそれを見つけてしまって落ち込むのだと思う。一気に鬱々としたが、どんなに暗澹としようと仕事には行かなければならない。溜息を一つ吐いて、タバコを吸い始めてしまう。こういうところなんだよなあ。本当に僕はどうしようもないゴミ人間だと思うしそれを今更、再度自覚して一丁前に傷付いていることに、大きくて深くて暗くてどうにも手が出せない落とし穴に落ちたような気持ちになる。僕がゴミであることで周囲に幾許の迷惑をかけ続けてきたのに、この期に及んで自分ばっかり辛ぶって、意味のない鬱に飲まれている。

どうにもならないこの被害者ヅラした僕の内側をぼてくりまわしたい気分だ。早く準備して職場に行こう。あそこに行けば嫌でもピアノが弾ける。更には金まで手に入る。誰も僕の演奏に興味がないなら、それは今なら都合がいい。今日は家を出るギリギリに化粧を終えたから、顔のコンディションも演奏中に気になる事はないだろう。粗方練り終えたあの女の曲の続きがジャズの力で出来上がる気がする。スウィングでいこう。


いつもより二時間ほど遅れて到着した職場は既に開店時間を迎える寸前だった。いつも通りの手慣らしの時間は無いが、そんなにすぐに客が入るわけではないので問題はない。

「おはようございます、すみません。」

「お、おはようー、今日もがんばってー。」

「はい、ありがとうございます。」

と飯島さんと簡単に挨拶を交わしてネクタイを結ぶ。

会えば苦言を呈されるのではないかと気詰まりしていたがサラリとした挨拶に解けた。

店の隅に移動してピアノ椅子に座ると、そのすぐそばの待機席で待機している女達が口を揃えて

「おはようございま〜す」

とだるそうに挨拶をしてくれるので同じように挨拶をして、手首を回した。

エチュードを何曲か弾いたところで最初の来客のベルが、朝馬鹿みたいに鳴いている名前のわからない鳥のようにうるさく鳴いた。接客前のギラついた女達が立ち上がって、目に貼り付けていたスマホを下ろし軽く会釈をする。この瞬間、どんな客でも少し越に浸った顔をするのが面白い。

麗華という、いかにも源氏名の黄金色をした長い髪にピンクの長い爪を付けた真っ赤なドレスの裾を重たく引きずる女を指名して客は席についた。客が席に着くと女達はまた座り、だらりと背中の力を抜き丸まって手元のスマホを再び目に貼り付ける。まるで軍隊かと思うような同じ動きだ。営業のメッセージを送っている様には見えない。どの女も利き手の小指でスマホを支えて親指でスクリーンをスクロールし続けている。この軍には誰一人僕の演奏に耳を傾ける奴はいないが、綿貫智世という女の存在は間違いなく僕のモチベーションになっていて今日初めて虚しさや悔しさは積まれず僕によって生まれた音は地面に落ち吸い込まれるように消えていった。

またいつも通り男達が酔いつぶされ店を出ていく。黒服は忙しなく動き回り、女達もいつも通り煌びやかだ。僕の演奏もまた、いつも通り。期待したジャズの力は効力を発揮せず、それどころかチキってあの女の曲はここでは弾けなかった。スウィングも無しだ。死にたい。僕はやっぱり何も持っていない、何もできないどうしようもないゴミクズだ。そうしてあっという間に閉店時間になり、開け作業ができなかった分いつもより丁寧に閉め作業をして店を出る。今日も送りを断って歩いて帰る事にした。ジャズに期待した様に、またあの女に今夜会える事を期待しているからだ。そんな都合のいい話あるわけがないし、僕の期待は大体外れるので会えない事は分かりきっていたが僕にはそうするしかなかった。メンヘラでストーカーさながらのこの思考回路はドブ川に投げ捨てたいが、外れることが決まっている期待に縋ることしか今出来ることがない。

今日は座り込むことなく順調に帰路についている。途中目があった自動販売機で加糖の缶コーヒーを買い、飲みながら歩く。まだ「あったか〜い」はない。気温は十六度。甘ったるい汁は歩いて火照った体に染みた。冷たいくらいで丁度よかった。飲み終え空になった缶を灰皿替わりにする事にして歩きながらタバコに火をつけようとするが、手元にはターボがない。bigライターでは風に火が揺られなかなか難しい所業だった。ヤスリの回転する音が夜闇に吸い込まれていく。

少しの間格闘しやっと火がつき、僕の口から煙が吐かれる。風が強かったのでそれらがすぐに消えてしまうのが残念だ。

大通りを抜け住宅街に入ると、街灯が一気に減る。地元はどこに行ってもこんな感じなので僕はこの住宅街に入る瞬間安心する。都内はどこを歩いても明るくて気が滅入る。犯罪の数が多いのは人口が多いからで、街灯がないからでは無いと思う。日光を浴びるとセロトニンが分泌されるという本当なのだろうけれど信憑性に欠けている説は、光がないと人間が精神の安定を維持できないと言われているようで腹が立つ。そんなものは人それぞれだ。坂口の家はいつ行っても間接照明が一つ光っているだけなのに、奴はアホみたいに元気が良くご機嫌だし、対照、僕の部屋はカーテンすら付いていないうえ、あちこちの電気を付け放しているので明るいが、僕は陰気だ。僕の脳みそは明るかろうが暗かろうがセロトニンの分泌をそこまで成していない、のだと思う。

とうとう女と出会すことなく家に着いてしまった。鍵を挿し回す重ったるい感触と音に気持ちまで重くなる。脚は乳酸が溜まり張り詰めていたし頭はズキズキと痛んだ。靴を脱ぎ上着を脱ぎネクタイを解き全てを床に落とし放して、身体もベッドに落とした。目を閉じると少しずつ睡魔が顔を覗かせる。そいつはいつも僕に優しい。良いも悪いも一括り、法などない、本当の自由を得ることができる。手招きに応じて一日を閉じた。


インターホンが鳴り次の瞬間僕の体が跳ね上がった。父親が手配した調律師がもう来ている。オートロックを解除して慌てて服を着て、昨夜床に脱ぎ捨てた服を洗濯機に投げ込んだ。再びインターホンが鳴り、今度は玄関まで行きドアを開けた。

「おはようございます、お願いします。」

「お邪魔しますね、よろしくお願いします。」

調律師の長岡さんは僕の物心ついた頃からずっと藤沢家のピアノの調律を請け負ってくれている。最後に会った時より随分、老けたように思う。白髪が映える彫りの深い鼻立ちに大きな目、分厚い唇、ゴツゴツとした手指がセクシーな人だ。腕捲りをし軍手をはめて早速仕事に取り掛かる。鍵盤を押しながら

「秋靖くん、最近弾いてあげてなかったでしょ?」

と呆れるように笑っている長岡さんの所作は僕を羞恥に陥れる。

「学校とバイト先で弾けるもんで家だとなかなか、はは。」

「弾いてあげないと可哀想だ、こいつはいいピアノだよ。」

僕の言い訳にピシャリとドアを閉め切った。僕が後から取り付けた愛想笑いが、今度は僕を笑っているように感じて居た堪れない。この人のこういうところが嫌いだった。ジリジリと静かに間合いを詰めて、僕の一番触れられたくない、嫌なところに牙を剥く。こういう時は黙るに限る。詰められた間合いを抜け出して僕はベッドに腰掛けた。イヤフォンを耳にはめて長岡さんを視線の端に捉えながら、「だからあんたを呼んでくれるように父親に頼んだんだ。」と言えなかった事をひどく後悔して唇を噛んだ。ひと言でも言い返せないからいつもこうなる。わかってる。逃げ癖のある割、逃げた後、頭の中ではいくらでも言い返せるから気持ちが悪い。内にある凶暴性がフィーチャーされたみたいで恐ろしい。おどろおどろしい、ぐちゃぐちゃの形を成さないそれは、僕を脅かす。なんだって僕はこんな被害妄想の酷い大人になってしまったんだろう。僕は僕にすら、いつだって疑心暗鬼だった。

そのままお互い何も話すことなく二時間が経ち、調律は終わった。

「しばらく放っておかれたみたいだから、狂いがデカいからまたすぐ下がると思うけどすぐに呼んで。まあ、大丈夫だとも思うんだけど。」

これを嫌味に受け取る僕は間違いなく捻くれ者だと思う。

お礼を言うのは簡単なので

「ありがとうございました、支払いは父親に付けてください。」

と言い先に玄関まで歩き一刻も早い退室を促した。別れ際

「沢山弾いてあげなさい。君は卑屈だけど才があるよ。」

と長岡さんは呟くように言って部屋を出ていった。うるさいな、どういうつもりなんだ、腹が立つ。調律の終わったピアノの前に立って鍵盤を押した。長岡さんはいつも鍵盤蓋を閉めずに帰る。すぐに弾いて欲しいのだと思う。自分の仕事に高いプライドを持っていて、自信があるのだ。両親は彼の仕事を彼のプライドと同じくらい高く評価している。彼が引退するまで藤沢家のピアノは彼無しでは生きられない運命なのだと思うと反吐が出そうになる。

すぐにピアノを弾こうと思っていたが萎え散らかした脳みそでは指が動かないのでベッドに横たわる。

ほんっっっとに、こういうところだよ、僕。甘えなのか逃げなのか、どちらもだろうな、やるべき事、やらなければならない事はいつでも後回しだ。ダメダメの実を食べたダメ人間。クソの役にも立たないネガティヴを煮詰めたような悪魔の実ばかりを貪り食っている。マーシャル・D・ティーチも顔負けの、主食がそれなのではないかというくらい僕は能力者だ。こんな風になるくらいならさっさとピアノを触ればいいのに、全く動けないことに更に落ちた。ごめんな、僕のピアノ。お前がいい奴だってこと、僕はちゃんと知っているからね。


ぐだぐだと惰性に身を任せている間に、十一月になっていた。空気は湿気を失い澄みきっているし、十五時も半を周ると空は段々オレンジ色に染まりかけて、その後時間をかけずに明かりを失くす。夜中店を出ると頬の熱は一気に吸収されて手の温かさが誇張される。夜に外でタバコを吸うといつまでも息が白い。寒さは良くない。僕の陰気は益々力を増して心臓や脳みそを鷲掴みにしてくる。陰気の自家中毒だ。

女の曲はあの後一度完成というところまで持って行ったが本当にこれで終わってしまっていいのか判断がつかず放られている。家では女の曲ばかり弾いているが、もちろん、連絡をすることも来ることもない。店でも大学でも、その曲は一節も弾いていない。この曲を知っているのは僕と僕のピアノだけだ。女の曲を弾きながら女を想うと精神が安定するのがわかった。

朝七時、カーテンのない僕の部屋は煌々とした白っぽい黄色っぽい光を纏い、黒塗りのそれは色を変える。ベッドから様子を眺めて瞬さに目を細めながら身体を起こした。インスタントコーヒーに砂糖とクリープを入れて甘くしたものが近頃の僕の朝食だ。カップに口をつけて傾けるとケトルが沸かしてくれた熱湯から出る湯気で鼻先が濡れるのが鬱陶しい。いつの間にか肩まで伸びた髪をひとつに括り化粧をして着替えて、時間があれば少しピアノを弾く。大体の朝、そんな時間はない。弾く、というか弾きたい、が正解だ。粗方の支度を終えて一本タバコを吸ったら家を出る。もう、マフラーがないと寒くて外は歩けない。

外との温度差に背中にじんわり汗を垂らしながら、まだ人の多い車内にうんざりしている。空気は重ったるく僕らの肩にのしかかり、離れ方を知らない様子に見える。駅に着いて電車を降りた人達は早足に行き急いでいる。キャンパスにわざとらしく植えられた木はすっかり葉を落として、地面でガサガサとやかましく音を立てていた。もう少ししたら大学生という他称自称の逃げ道が失くなることに心に霧をかけながら、僕は今日もキャンパスにいる。時間が止まればいいとさえ思う。就活はしていない。坂口からは某大手音楽教室に内定が決まったと先日報告を受けた。今日はそのお祝いという名目の飲み会が予定されているのでバイトは休んだ。

自分で決めたはずの全ての覚悟が僕の中でビクビクと揺れ怯えている。本当にこれで良いのかなんて僕にもわからないのだから、誰にもわかるはずなどないのに僕の覚悟は僕の行く宛を塞ぎ全てを停滞させていた。どうにか何かに頼りたい一心で自己啓発や心理学の本ばかりを近頃手に取るようになっていた。最近アドラー心理学の本を読んだ。おいアドラー、僕のこの不安定な情緒にも、お前は何か目的があると言うのか?ンなもんねえよバーカ。暴力的で、かつ寸分違わず心の痛いところを突きやがって、なのに何故、評価されているんだ?クソでも喰らってろ。


あっという間に夜が来る。キャンパスの正門のところで坂口と待ち合わせている。彼は今日の飲み会をただの飲み会だと思っている。同じ講義を取っている名前も知らない女が主催の祝賀会だ。きっと彼女は坂口の事を好きなのだと思う。僕は今日その会場に坂口を連れて行くことを頼まれていた。

「よっ、秋靖くん。待ったかね?」

ヘラヘラと坂口は現れた。

「いや全然?この度はどうもおめでとう。」

「なんだ突然、ありがとうよ、はっはっは」

僕らは軽快に笑い合い、足取り軽く歩き出す。

キャンパスの近くの大衆居酒屋には同期生が次々と集い出し、数十名に渡る人々が賑やかに坂口を褒め称えた。坂口は当たりが良く人たらしで皆に愛されている。僕と仲良くしてくれているのが不思議なくらいで、集まった人数も、彼を祝うにしては少ないと感じる程だ。皆んな自分の芳しくない就活の進捗のことなど忘れ楽しげで適度なアルコールに顔を火照らせている。坂口を連れてきてほしいと僕に頼んできたあの女は、本当に酔っ払っているのか、はたまた演技なのか真偽のほどは分からないが、甘ったるい今にも溶けそうな声を出しながら坂口の肩にもたれかかっていて、それが僕にはくだくだしかった。坂口は女を適当にあしらい、僕を喫煙所に誘い出す。

もちろん付いていく。赤ラークを一本咥えてポケットを漁りライターを探す坂口が妙に面白く見えて、酔っ払っているのを自覚した。ようやっと見つけたライターで火をつけ、最初の一吸いは肺に入れずに吐き出すのが坂口流だ。僕は貧乏性なので最初から最後まで肺に煙を入れている。

「いやしかし、賑やかで疲れる。ありがたいことだが。」

「坂口も賑やかだと疲れるのか、意外だなぁ。」

「なんだ秋靖、心外だなぁ。」

韻を踏む耳心地のいい会話と血中を泳ぎ出したニコチンに酔いが回る。

「いや、あんたいつでも楽しそうにしているもんだから。」

「俺はあんたみたいな静かな奴が好きなんだよ、本当のところはさ。言えないだけなんだよ、みんなに悪いと思ってね。俺は秋靖が羨ましいと思うことがある。いつも静かにしているけど、決していいとこばかり見せようとしない。かっこいい奴だよ、お前は。」

「はは、何言ってんだ、俺はお前の方こそ羨ましいよ、みんなに好かれてる。陽気で、陰気な僕はいつもその明るさに救われるから。内定だって、坂口だから心の底からめでたいと思えるもんだ。」

「結局ないものねだりするよなぁ、人間は。そういうもんだよな…。」

なんだかうら悲しいような、決まりが悪いような、それでもどこか満ち足りた空気が僕らを包んだ。もうここから一歩たりとも動きたくなかった。フィルターのギリギリ手前まで吸い切って火を消した後も尚、僕らは動こうとせず、喋るわけでもなくただ煙たい空気を共有する。正しく真っ当に、間違いなく青春だった。そうしているうちにあの女を含めた同期生の何人かが僕らを、というか坂口を引き戻しに喫煙所まで来て、間違いなく僕らの青春が今、幕を下ろす。寂しいなぁ、終わりたくないよ、坂口。お前もおんなじ気持ちならどんなに良いか。ぞろぞろと座敷に戻ってからほんの数分で、僕は黙って店を出た。まだ電車は動いている時間だったが歩いて帰路につく。酔いはもう覚めている。そう信じている。三十分ほど歩いたところで、僕はスマホを上着のポケットから取り出して綿貫智世に電話をかけた。最初で最後になりかけていたあの電話と同じように三回目のコール音の途中で繋がって

「もしもーし、待ってたよ。やっと電話くれた、嬉しい。」

その声に、一面にブワっと音を立てて花が咲いたかと錯覚する。

「明日、空いているか?」

「明日?ちょと待ってね〜…うん、午後でいいかな?午後なら空いてるよ。」

微妙な感じだ。でもこれを逃すといよいよ僕は彼女にあの曲を聴かせることが出来ないような気がしたので気は遣わない事にする。

「うん、いいよ。明日午後、池袋の方の東京音楽大学の正門前集合で。詳しくはメッセするから。」

「わかった!楽しみにしてるね。連絡くれてありがとう、やっぱり律儀だね、秋靖くん。」

電話越しにくすくす笑っている踊るような調子の彼女に愛嬌を感じる。素直に可愛いと思う。

「そんなんじゃない、会いたいと思ってたんだよ。」

柄にもなくクサい事をさらりと言えてしまった事に自分でも驚いてとにかく電話を切りたくなった。

「それじゃ、また明日。」

早口に切り出してそれに彼女は

「うん、またね、おやすみなさい」

と、締め括る。電話を切って胸を撫で下ろした。そのままショートメッセージを開いて概要を打ち込む。寒さか高揚か、震えた手でそれを祈るように送信した。タバコを吸いながらゆっくりと歩く。道中坂口からLINEで

『今日はありがとう!いつのまにか居なくなるからびっくりしたが秋靖も就活頑張れよ、一緒に卒業しような〜』

とメッセージが入り、僕の心臓が地面にひゅんと落っこちる。既読だけつけて無視して、いよいよ本当に終わったのだと、妙に清々しい気持ちでスマホの電源を落とした。暗転したその小さな箱に、少しの羨望を覚えて僕は泣いた。


家に着いて掃除機をかけて、溜まった洗濯を回して、いつもより丁寧に風呂を済ませ、先週母親が持って来た冬用の部屋着を着てピアノを弾いている。坂口を、両親を、そして彼女を想う。明日僕は一度死ぬはずだ。身なりや部屋を片したのは明日死ぬことが確定しているからだ。そこからが始まりだ。何があっても逃げられないんだから、黙って全てを受け入れようと、今は思う。

朝がすぐそこまで来ているのが窓から見て伺えた。何故だかいくら弾いても僕は疲れなかった。その頃にはもう何を想うことも、何を考えることもなくなっていて、暖房の入っていない薄ら寒い室内で汗ばんでいる。汗でさめた冷たい背中が心地よく感じるくらいに高揚しているのがわかる。当初の予定では正装で会うつもりでいたが、もう外見などはどうでも良かった。概要には正装で来てくれと記さなかった。いい加減に寝た方がいいと頭では分かっていたが身体が言うことを聞かない。とうとう日が昇り、その明かりは僕諸共白く光らせる。眩しさにぎゅっと眉間に力が入り瞼が閉じた。手は止まらない。力一杯に鍵盤を叩き付けるように音を出している。和音と日光に包まれたこの部屋は、死に際には少し綺麗すぎた。太陽とそれに照らされているピアノが僕をギラリと鋭く睨みつけて、昨晩とうとう固まったはずの僕の覚悟がまた、怯え始めていた。

いよいよ午後になり、眠れないまま約束の時間が来ようとしていた。大学の正門前で彼女を待っている。不思議と緊張はしていなかった。一歩踏み出すことがこんなにも簡単なことなんだと、人は気付くのに時間がかかる。いよいよとなると、途端に腹は括れるものだ。

「うわ、また死にそうな顔してる。待った?」

「待ってないし、死にそうでもないよ。」

彼女は微笑を浮かべ現れた。瞬間、鼓動はスピードを上げてドンドンと激しく和太鼓のような音を立てる。彼女に釣られてかはわからない、僕の口角は自然と上がった。ピンクベージュのコートの前が開いていて、、そこから見える白いブラウスに可愛らしい淡いピンク色のフレアスカートが溶け込むようだ。彼女の髪色をより黒く、肌色をより白く際立たせるその服装にぞわぞわと内臓が撫でられるような感じがする。ストラップのついた小さな靴の踵がコツコツと心地よい音を立てて僕の後ろを付いてくるのがわかった。ざぁ、と音を立てて向かい風が吹くと彼女が小さな声で唸る。その上擦った声に下腹が熱くざわめく。生々しい僕の欲求は収まらない。この細く薄ペラな身体に、凹凸の無い滑るような肌に、艶めいた柔らかでしなやかな髪に、一瞬でも触れようものなら気をやってしまいそうで恐ろしかった。僕の胸の内の、今までのどんなものより激しく渦巻く欲望を隠すように

「寒いなぁ。」

と声をかけると彼女がそれに

「ねぇ〜。」

と当たり障りの無さすぎる相槌を打つ。僕らは五番のレッスン室に入る。聴き位置に困ったように彼女は部屋の入り口でそわそわと落ち着かない様子だ。

「一番側で聴いてくれる?」

「いいよ、ここにいるね。」

ピアノ椅子のすぐ隣に彼女は立った。僕はパイプ椅子を広げ彼女の後ろに置いて、そこに座るように促す。

「じゃあ、今日は来てくれてありがとう。」

鍵盤に指を置く。緩やかで暖かい終わりが始まる。

思っていたよりもそれはシンプルで、造作のないものだった。人生の縮図のような大層なものを想像していたばかりに、呆気に取られ気が抜けそうになる。僕の四肢をピアノは吸い込み心ばかりが前のめりに彼女へ立ち向かう。和音がバラバラに解けて、粒立った音符が飛び散った。彼女は太陽のようだと思う。居るだけだけで温まり時に暑く僕を昂らせ、そのうちに存在するのだとおもうだけでセロトニンの分泌を手伝うようになった。いつ姿を消すのかわからず、僕はただ、その時を待ちそして、ずっと曖昧にしてきたこの気持ちを伝えて、その後で来るだろうその時のためにさよならを言う練習をしてきたのだ。彼女は僕の隣で目を瞑り、可愛らしく唇を尖らせハミングしながら黒い髪を揺らしている。

僕の手は途中で鍵盤から離れ、揺れる彼女の髪に吸い込まれ頬に触れた。

「…秋靖くん、どうしたの?」

「好きだ、と思う、君のこと。」

彼女は席を立つと

「ありがとね、もう充分だよ。」

とだけ言って部屋を出て行った。僕は居なくなった彼女を追いかけなかった。これで終わり。

「さよなら。」


あーあー、なんちゅうくだらねー人生だよ、笑えるぜ、まじによ。

人には一生における大切なものが全部詰められるリュックサックが生まれた瞬間平等に配られてる。みんなそのリュックサックに自分なりの大切な何かを拾い集めながら歩みを進めて拾ったものをこぼさないように詰め込んで、でも道中背中が重たくなったら自分で中身を捨てたりして調整して生きている。僕のリュックサックの底には小さな穴が空いていて、拾ったところでちょっとずつちょっとずつ、知らないうちに大切なものを取りこぼして来たんだと思う。でも大丈夫だよ、心配ないよ。他の人にとって大切なものでも、それが僕にとって大切なものだとしても、落としたところで僕は気付けないんだから。だから大丈夫。気付けなくたって、落としてしまったって、僕だって必死に息してるんだから。それだけで充分じゃないの。一個だけ絶対に落としちゃいけないものを落とさないでね。それだけは何にも変えられない、やり直しも効かないんだよ。それだけが守れれば大丈夫。

僕を優しく慰めたり、可愛がってくれるのはもはや僕だけだ。納得いかないなぁ。大人になれないなぁ。

…もうすでに、僕の僕だけの大切なものは僕のリュックサックからは落ちてしまっていた。

僕の頬と、秋の終わりの冷たい風がすれ違う。手のひらでゴシゴシと化粧を落として、僕の舌には苦すぎる泥水と大差ないように感じる無糖のコーヒーを一気に飲み干す。空になった缶を道路にぶん投げてタバコに火をつける。雲を割り顔を出した太陽が無責任に背中をじんわりあたためたから、もう少しだけ生きてみることにする。


            

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四月一日 槙 真 @mk_m1212

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