第六章

60.暫時の別れ

「――というワケで大師兄、俺はいったん天上うえに戻ります」

英雪インシュエは?」

「いえ、俺だけです。あいつはこっちに置いておきます」


 あれから一週間ほどが過ぎた頃、粗方の情報収集を終えた沈梓昊シェン・ズーハオが、尹馨イン・シンへとそう告げた。

 水晶宮も賑やかになっちまったんで――と前置きはしていたが、彼なりの役目があるのだろう。


「必要になったら、いつでも水鏡から呼びかけてください」

「ああ、わかった」

「今は嘘みたいに平和ですけど、そのうち何らかの事が起こるってのは、師兄も気に留めておいてくださいよ」

「承知している」


 尹馨は黎華リー・ファの部屋で木簡を見ている最中であった。

 ちなみに、部屋の主である黎華は、奥の泉へと足を運んでいる。


「――あぁ、それから、あっちの師兄も連れていきます。師姉と一緒にな」

「そうか」

「あれ、驚かないんですね」

「いや……そろそろ、そういう話になってくるかと思っていた。沙鈴シァリンも母上には会いたかっただろうしな」


 沈梓昊は尹馨の手元の木簡を盗み見しつつ、ごほんとわざとらしく咳払いをする。

 すると尹馨が苦笑をして、再び口を開いた。


「――梓昊。いや、獬豸カイチよ」

「はい」

「自身の直感を信じるがいい。お前のそれ・・は、お前でしか判断を下せない」


 尹馨の視線が鋭くなった。それが迷わずに沈梓昊の額に向けられたのには、きちんとした理由がある。

 沈梓昊自身もそれを理解しているので、「はい」と告げてから深く頷いた。

 瑞獣としての役目があるからこそ、彼は動いている。白澤ハクタクである沈英雪シェン・インシュエがそれを理解していてこちらに残るというのも、頷けることだ。


「……お前のその常に先回りの行動には、恐れ入るよ。だが、くれぐれも無茶などはするなよ」

「解ってますって。俺がいい感じに手を抜くってことは、大師兄だって承知済みでしょ。いざとなれば母上や師姉だっているんですし」

「そうだな。……では、行ってこい梓昊」

「はい」


 拱手礼で頭を下げた沈梓昊は、そのままくるりと踵を返して室を出ようとした。

 その際、チラリとわずかに振り返り――


「……師兄、その木簡には大した情報は載ってないですよ」


 そんな事を言い残して、姿を消すのだった。



 


英雪インシュエ、見送らなくていいの?」

「……今生の別れというわけでもありませんし、どうせあっという間にこちらに戻ってくると思いますので」

「それだけ信頼しあってるってことなんだね」


 黎華は泉での祈りを済ませて、長い渡り廊下を歩いている最中であった。

 沈梓昊がこちらを離れることは先に聞いていたので、傍にいてくれる沈英雪が残ることは意外でもあったのだ。


「姫は、このままでよろしいのですか?」

「『俺』が『姫』のままでいるってこと?」

「はい」

「……昔は、いつか辞められたらいいなって思ったよ。でも、今は……霊亀のためにも、巫覡の姫であり続けるよ」

「お強いのですね」


 それは普段は一切隙を見せないはずの沈英雪の、僅かな本音だったのだろう。

 隣を歩く彼の表情を僅かにのぞき込むと、その瞳が微かに迷っているかのような色をしていたのだ。


「英雪は、知恵を齎してくれるハクタクだよね?」

「……高貴で有徳な者にしか動きませんよ。あなたのようなね」


(……ごまかした。でも今は……これでいいのかもしれない)


 最愛の人が離れてしまう。

 その寂しさを紛らわせるには、余計な思考をねじ込むしかないのだ。


「英雪はすごく真面目なのに、人を口説くのも上手だよね。これはシェン家の教えの賜物なの?」

「尹老師は岩のような堅物な方でしたよ。……でも、そうですね……私も長く仕えていたのが月樹ユエシゥのほうでしたので、彼女の影響は少なからず受けたのかもしれません」

「……月樹さまは、とても豪胆で不思議なひとだよね。俺もしばらくあの方の傍で色々教わったけど、翻弄されるばかりだったよ」

「だからこそあの方は、らんなのでしょう。平和や親愛の象徴……そして時代の天子への顕現。そのどれもが月樹の役目であり、あの方にしか出来ないことです」

「うん、わかるよ。……俺は文字通りあの方に命を吹き込まれて、こうしてここに戻ってきた。今でも月樹さまの加護を強く感じるし、体の芯で繋がっているような気がするんだ」

「……それは、師兄尹馨のお耳には入れないほうがいい話ですね。妬かれてしまいますよ」


 いつものように、長い渡廊を歩きつつの会話であった。冗談のような言葉に、二人そろって笑い合う。

 最初の頃は多少の距離も感じてはいたが、沈英雪もだいぶこの水晶宮に馴染んでくれたのだろう。沈梓昊が居ない間は特に気にかけてあげなくてはなどと思いながら、黎華は軽い足取りで本殿へと戻って行くのだった。

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