第二章

11.太陽が沈む谷

 水晶宮を頂く霊峰から遠く離れた土地に、高く聳え立つ一つの山があった。

 大きな岩場で構築されたその山は太陽が一日の最後に姿を隠す場所として知られ、斜陽山と呼ばれていた。

 鬱蒼とした森を麓に抱え、小さな村の奥から山道へと続いているが、旅人などは立ち寄らずあまり詳細は伝えられてはいない。


「あっ、インさま!」


 畑に撒く水桶を抱えていた村人が、そんな声を上げた。

 するとその先で数人の影が動く。

 みな、草臥れた服を着たこの村の住人であった。


「尹さま!」

「尹兄!」


 あぜ道を静かに数歩進んでいただけで、皆が一斉にその者へと集まってきた。

 ――尹馨イン・シンである。


「……久しいな。皆元気だったか」

「この通り、誰も欠けておりません! ちょっと今みんな泥だらけですがね」

「そうか、稲の作付けの時期だったか」


 尹馨はそう言いながら、人だかりの向こうに広がる水田を見た。

 数人が残って作業を続けているところだった。


「魚の干物をいくつか持ってきた。あとはトウモロコシの種と、堆肥……それから女性と子供たちに反物と遊び道具なんかも籠に入ってる。村長の家の前に届けさせているから、あとで確認してくれ」


 尹馨がそう言うと、皆が一斉に沸いた。


「去年育てたトウモロコシ、山向こうの商人に評判良かったんですよ。助かります!」

「ありがとうございます、ありがとうございます! 尹さま」


 老婆が目じりに涙を浮かべながら尹馨に手を合わせて、何度も何度も頭を下げていた。


「時折しか寄れずに申し訳ない。次も良いものを持ってくるから」

「いいえ、いいえ……これだけして頂ければ、私どもは何にも望みません」


 山自体に街が存在しないという理由もあり、この土地では人の暮らしが豊かでは無かった。

 それでも彼らは身を寄せ合い、助け合いながら生きている。

 尹馨は数年前に縁があり、この村の住人達と懇意になってからは時折訪れては大籠いっぱいに入った土産を差し入れていた。

 静かに涙をこぼす老婆の背をさすってやりながら、尹馨は村の奥の山道へと続く道へと視線をやった。


「……どうだ?」


 ぼそり、とそう問いかける。

 すると傍にいた三十代半ばほどかと見受ける糸目の男が、口を開いた。


「例の坊ちゃんでしたら、半年前に見かけた以来、見てません。多分下山はしてないですよ」

「そうか……ありがとう」

「尹兄も行かれるんですか?」

「あぁ、用があってな」


 尹馨の言葉を受けて、その男は少しだけ躊躇うような表情を見せた。

 何かあったのか、と続けると言いづらそうにしつつも、その男は再び口を開く。


「それが、ここから二里(※約8㎞)ほど上がったところで、妖魔が出るようになりまして……」


 その言葉を受けて、尹馨は瞠目した。

 妖魔自体は珍しい事ではないが、この山では聞いたことが無い。だが、心当たりが無いわけでもない。


「姿は分かるか?」

「おれが見たときには、蛇でした。でも、他のやつらは犬だとか、猪だとかと言ってて……」

「――変容するのか。わかった、その妖魔も俺がついでに見てくる。用心だけは怠るなよ」

「……はい!」


 世に蔓延る妖魔は多種多様だ。

 獣の成れの果てや人の抱く負の感情から生まれるもの、死霊なども含まれる。

 あらゆる可能性を思案しつつ、尹馨は村の奥を進んだ。そうして山道に踏み入れた後、静かに振り向き、青い符を懐から取り出した。そして手刀の形で文字を書き込み、素早く村へ向かってそれを投げ、言葉を発した。


「我の声に応え、彼のものを守れ。――結」


 尹馨がそう言うと、符は宙で散して村全体に淡い青色を纏う結界が張られる。

 術者でなければその形すらわからないものだ。

 元々、この村には結界を施してある。

 村人はそのことを知らせずにいるが、幾人かは何かしらを気づいているだろう。

 先ほどの妖魔の件も気になり、二重の意味での結界であった。


 ――ありがとうございます、尹さま。


 老婆の言葉が思い起こされた。

 彼女に感謝するのは、自分のほうだと常に思っている。

 過去、自分がこの山で深手を負い、それを介抱してくれたのは村人たちだった。

 意識も朦朧とし、血も随分と流した状態であったが、村人たちは手厚く傷を癒してくれた。

 何度も「自分に構うな」と言っていた尹馨に対し、あの老婆は手を握りしめて「大丈夫ですよ」と繰り返し言い聞かせてくれた人でもあった。


「……さて、行くか」


 誰もいない場所で、そんな独り言を漏らした。

 そして彼は再び山道へと踵を返して、地を蹴る。一町ほどを普通に走り、その後は『普通』ではなくなった。

 ダン、と強く土を踏みこむと、足元に一瞬だけ塵が舞う。それに気を取られていると、踏み込んだ足はすでにその場には無く、尹馨の体は遥か向こうの岩の上にあった。

 人の前では『人』として過ごしているが、尹馨の実際は『人』ではない。

 今のように一蹴りで高く宙を飛ぶことが出来る上に、身体能力も人並みを遥かに外れているのだ。


「…………」


 岩の上でしばらく立った後、彼は気配を呼んでまたその岩を蹴る。

 三丈(※約9m)を一飛びで移動して、岩肌を蹴り目的地へと進んだ。


 ――その前に、村人が話していた『妖魔』を探してみることにする。

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