07.二胡の音
比較的穏やかな日々が続いていた。
自分の中の花丹も安定し、体の負担も軽くなった。
ただ、数日前にはやはり麓に影響が出てしまい、
黎華には常に権力者たちが目を光らせている。彼らにある程度の連絡を入れたうえで、了承を得られないと現場には物品は送ることが出来ない。
その為にはやはり彼自身の体を使うしか無く、演技と涙で情に訴えかけるという方法で何とか事なきを得た。
「……あぁ、無常だなぁ」
庭を見渡せる廊で欄干にもたれ掛かりながら、ぼそりとそんなことを言った。
傍には侍女が二人ほど控えてはいるが、必要以上に近づくなと言いつけており、小さな呟きなどは拾えない距離がある。
『つらそうだね、黎華』
不思議な声が聞こえた。
それは、黎華にしか聴こえない声だ。
「そう見える? 水蛇」
『……無理して笑うことないよ』
水蛇は、文字通りの存在だった。
黎華が巫覡と言う立場に立った時から、それは目の前に現れた。
水から生まれた小さな蛇――それは子龍でもあった。
「無理はしてないけどね……やっぱり、そう見えるんだ」
『きみは物事を享受しすぎだよ……』
水蛇は悲しそうにそう言った。
声から察するに、雄のそれであるらしい。子供と言っても、黎華よりはずっと年上だ。
ヒトの時間枠とは違ったところで、ゆっくりと時間を経て、成長するのだという。
『今日は誰も来ないんでしょう? だったらもっと、気楽に過ごせばいいのに』
「こう見えても
水蛇のいう言葉に、黎華は廊に足を投げ出しながらそんな返事をした。
傍から見ると、その姿は姫らしくは無い。
少し高い位置から浮いた状態でその姿を見ている水蛇は、やれやれと言った具合でため息を零した。
『……ぼくがもっと、きみの役に立ててたなら』
「水蛇。それは言わない約束だよ。それに、お互い様じゃないか」
『でも……』
「あのねぇ。俺がもっと頑張らないと、お前が育たないだろ。霊峰を守っていくのだって、お前の成長に関わるんだから」
『うん……』
黎華の言葉に、水蛇はゆらゆらと空間を舞いながらも落ち込んでいるように見えた。
水蛇はいつも、自分の立場を低く見ていた。
黎華に気遣っているのだ。
水晶宮の巫覡と水蛇は、対の存在であった。互いを守り、恩恵を与える。
だが、水蛇の霊力は今はあまり高くはなく、黎華の傍にいるくらいの事しか出来ずにいる。
それでも結界などは構築できるので、黎華にはそれが何よりの助けとなっているのだが、水蛇にとっては引け目を感じるものがあるようだ。
「……あ、そうだ。水蛇の好きな二胡を弾いてやるよ」
しばらく黙り込んだ後、黎華がそんなことを言い出した。
そして彼は、ふらりと立ち上がり数歩を進んで、奥の間の寝台の傍に置いてある二胡を手にした。その際、侍女が腰を上げたが、彼はそれを静かに拒絶してまたふらしとした足取りで戻ってくる。
この場に居続け、浄化と守る事だけしか出来ない彼にも、得意な事が一つだけある。
それがこの二胡だ。
先ほどまで寄りかかっていた欄干の上に腰かけ、黎華は静かに二胡を弾き始めた。
『…………』
水蛇はゆっくりと目を閉じて、その音色を聞く。
黎華の言う通りで、彼はこの音が大好きだった。奏でられる曲は、切なくて優しくて、涙が出るほどだ。
その場にいる侍女たち、少し離れた位置にいる他の家人たちにもその音色が届き、誰もがそれに聞き入っている。
哀切が混じる音には、黎華の生き様が描かれているようにも思える。
古くから伝わる曲を奏でもするが、彼が今弾いている曲は、自作したものであった。
水蛇が好きだと言ってくれる手前、美しい曲調で纏められてはいるが、耳にするものによっては心に訴えかけてくる音色だと気づくだろう。
半生、運命――いずれ散るゆく華でしかないのだと。
「――二胡……」
一つの客間に収まっていた
「姫様の二胡ですよ」
お茶を用意してくれていた一人の侍女が、静かにそう言ってきた。
僅かに頬が染まっているのは、尹馨の美貌にやはり見惚れてしまっているからなのだろう。
「姫はいつも奏でておられるのですか」
「……いいえ、あの方の気まぐれです。最近はめっきり耳にすることも無かったのですが……体調が落ち着かれているので、ご気分も良いのかもしれません」
「そんなにお悪いのか」
「そうですね……私どもには気遣ってお元気に振舞ってくださいますが……」
侍女はとても悲しそうにそう言った。
この宮に入って、奥へ行けば行くほど姫を心配する声が上がってくる。
ちなみに、この先もしばらくここで待機しなくてはならないらしい。
それが『
(普通は、先触れなどを出すのが礼儀というものでは無いのか……)
侍女が入れてくれた茶を飲みつつ、尹馨はそんな事を思っていた。
彼が張家の護衛の任についてから、二週間ほどが過ぎていた。その間に
尹馨の剣技に惚れた張家の主は、大層彼を気に入りいつも連れて歩くようになった。
そして今日、宮に連絡を入れることは無く、『お忍び』の付き合いでこの場に居る。黎華はそのほうが喜ぶ、と目の端を下げながら言っていた雇い主は、王家のそれと負けず劣らずの不出来な男だった。
(どうにも、権力者たる者たちの素性が褒められたものではないのが、気になるな)
心でそんな事を思いつつ、茶を飲み干す。
侍女がすかさず継ぎ足そうとしてきたが、尹馨はそれを手で制して、腰を上げた。
「……少々、庭を散策してきても良いですか」
「ええ、どうぞ。良ければ案内もさせますが」
「いいえ、大丈夫です」
侍女の申し出をやんわりとに断りつつ、尹馨は客間を出た。
二胡はまだ鳴り響いている。
なんとなくだが、この音を辿りたくなってしまったのだ。
「…………」
静かな宮であった。
おそらくは主である姫を気遣い、誰もがそうしているのだろう。
庭にある小道を歩き、尹馨は導かれるようにして暫くを歩いた。
雇い主の
『――黎華、誰か来る』
そう告げたのは、黎華の傍で二胡の音色を楽しんでいた水蛇だった。
黎華はそこで二胡を弾くのをやめて、ゆっくりと立ち上がる。
「……水へ戻って」
『平気?』
「大丈夫。どうせどこかの好き者のじじいだから」
黎華は気配がする方向を見つつ、水蛇の存在を隠すようにして手で追い払った。
水蛇も、躊躇いつつ庭先にある池へと飛び込み、姿を消した。
「どなたですの?」
声色を変えて、黎華がそう呼びかける。
時期を考えても、姿を見せるとすれば張家の誰かだろうと思い、彼は辺りを見渡した。
「…………」
声には答える者はいなかった。
不審に思った黎華は、足元に二胡を置いて階から一歩、二歩とゆっくり庭へと足を運んだ。
「っ!」
いくつかの低木を抜けるとその先に、人影を見つける。
黎華は思わず、声を殺して袖で口元を隠し、瞠目する。
(だ、誰だ……!?)
心で思わずそう呟いた。
黎華の視線の先にいたのは、一人の青年だった。
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