05.天上の鸞君
「退屈じゃのぅ……」
そんな声が聞こえてきた。
小さな少女の声だ。
「はぁ~……退屈じゃ……」
少女はわざとらしくため息を吐き、言葉を繰り返す。
「あ~~~~」
「……やかましいですよ、
少女が三度声を上げたところで、それを止める者がいた。
だらしなく脇息にもたれている彼女を窘めたのは、大きな獣だ。獅子に似た姿に真っ白な体毛と二つの角を頂き、額にもう一つの目が存在する。
「ハクタクよ。妾に失礼だと思わぬのか」
「何度も同じことを繰り返されると、他の者の気も滅入ります」
「だったら曲でも奏でてみせよ。退屈で死にそうじゃ」
少女にハクタクと呼ばれた獣は、やれやれと言った具合で首を振った。
声からすると、男性なのだろう。
俗世から遠く離れた天上に、楼閣があった。
その一番上の一間全てが、
彼女はこの楼閣の主であり、霊獣の長でもある。
幼い少女の姿をしているのは完全なる趣味で、本来の姿は
「カイチはどこじゃ? お主は真面目すぎて面白うない」
「大師兄に呼ばれて、下界におります」
「あぁ~~そうであったか……まだ戻らぬのか~~」
月樹は少女の姿でごろごろと転がりつつ、そんなことを言い続けていた。
よほど退屈なのであろう。
「……
「その為にカイチが降りているのではありませんか」
「そうじゃったなぁ……」
何かを考えているらしい月樹は、声の色を暗くしてそう続けた。
天色の髪は、鸞の姿であるときは翼の色だ。切りそろえられた前髪と、足元まである後ろ髪。高い位置で括ってはいるが、重そうだ。
愛らしさのある大きな瞳は金色に輝き、やはりそこは獣の証の色と言えた。
――リンリンリン……、と鈴の音が響いた。
それに月樹もハクタクも反応して、顔を上げる。
「……カイチか」
「そのようです。水鏡のほうへ」
月樹が座している位置から、右手へと数十歩進んだ先に大きな水瓶があった。
下界と通じることができる水面が常に湛えられている。
ゆら、とゆっくり揺れたかと思えば、次の瞬間には人影が浮かんだ。
『定期連絡――っと、おう、母上!』
水面の向こうで姿を見せたのは、快活そうな印象を与える美青年だった。無造作な黒髪を黒の後ろでやはり無造作に三つ編みにし、全身真っ黒な衣服を身に纏っている。
そんな彼は満面の笑みを浮かべつつ、手を振っていた。
「母と呼ぶなと言うておろうに。どうした、早う戻らぬか」
『……いや、それが。もうちょいこっちに留まることにしました』
青年はどうやら『カイチ』であるようであった。本来の姿は黒い一角獣だが、人を模っているのは下界にいる為だ。
そして彼のその言葉を受けて、月樹もハクタクもその空気を変える。
「何かあったのか」
ハクタクが静かに問いかける。
するとカイチは「うーん」と唸った後、少しだけ困ったような表情をして見せる。
『いや、大したことじゃねぇんだけど』
「どっちなのじゃ!」
『……まず、指定の場所で大師兄に会いました』
「うむ」
水瓶に食って掛かる勢いで身を乗り出している月樹の襟元を咥えるのは、ハクタクだった。
彼女を手前に引き戻しつつ、彼もカイチの言葉の続きを待っている。
『例の姫さんに会いに行くそうです』
「…………」
「…………」
月樹もハクタクも、黙り込んでしまった。
予想はしていたが、ついにそこまでたどり着いてしまったのか、と両人とも思っているようだ。
『――んで、霊亀のほうもちょいと不安定なのも確認してきました』
「やはり、現状何も変わらずなのか」
『そうですね。あのままじゃ今代の姫さんは長く持ちませんよ。後一年か二年……花丹が尽きれば死にます』
カイチは落ち着いた口調でそう告げた。
表情を見ても瞳を見ても、あまり動揺しているようには見受けられない。
そこはやはり人間ではないからなのだろう。
逆に、人間のように傷ついたような表情をしているのは月樹のほうであった。
「……妾らは酷な事をしているな」
「月樹」
「巫覡は哀れじゃ。なぜ妾らの不始末を水晶宮の者が背負わねばならぬ」
「…………」
『…………』
悔しそうにそう言う月樹に、ハクタクもカイチも何も告げられなかった。
月樹には夫がいた。
それが、『麒麟』であった。現在は、事情があり消息は不明だ。
そして、彼女には子が二人存在する。
――『霊亀』と『応龍』がそれに当たるのだ。
『母上、湿っぽくなってるとこで悪いんですが』
「ええい、母と呼ぶなと何度も言うておろう! 申してみよ!」
『ハクタクを――
「!」
ハクタクの体が僅かに震えた。
月樹も数秒驚いて見せたが、その後深いため息を吐きこぼして、「うむ」と応えた。
「カイチよ――否、
『いやぁ、俺もこれでも大変なんですって。大師兄は頼れねぇし……いい加減、俺も淋しい』
「……勝手に寂しがっていればいいんです。私は嫌ですよ」
ハクタクは吐き捨てるようにしてそう言い、踵を返した。
それを目の端で見ていた月樹が、彼に向かい右手を差し出し、ぱちんと指を鳴らす。
「っ!」
数歩下がったところで、ハクタクの足は動かなくなった。
真白の獅子はその場で震えて、がくりと前足を折る。
「――すぐにそちらへとやる。しばし待て」
『御意に』
水面の向こう、沈梓昊と呼ばれた青年は、満足そうに笑いながら両腕を前に差し出し会釈をした。
その後、水鏡は大きく揺れて、通じていた道は閉ざされてしまう。
「……月樹」
「なんじゃお主。そんなにカイチと会いとうないのか。こちらで一緒にいる時はいつも褥を共にしておるではないか?」
「は、母上っ!!」
ハクタクの姿は、いつの間にかヒトのそれに変容していた。
長く美しい銀糸と真っ白な衣服。額の目を隠すための鉢巻きは絹で作られている。瞳の色が獣の金ではなく紫紺なのは、月樹の『趣味』だ。
その月樹のとんでもない言葉を受けて、彼は頬を真っ赤に染め上げて叫びにも近い声を上げていた。
「――うむ、そなたはやはりこの姿のほうが美しくて良い」
「私は……不都合極まりないです」
「ふふ、まだまだお子様じゃのぅ。大いに悩め」
「月樹……」
膝を折ったままの美しい青年の傍で、少女は得意そうに微笑む。
そして彼の銀糸のひと房を掌に乗せ、唇を寄せた。
「――
「は」
銀糸の青年が頭を下げる。
月樹はその姿を見ながら、『愛しい我が子たち』を笑顔で送りだした。
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