カエクルスの煙を解く
麻比奈こごめ
ワインの因縁
他に人のいない小部屋で、ワインを注ぐ娘がいた。ただし、そこにグラスは無い。娘はただ宙にワインを注いでいた。手に持ったのは重い瓶ではなく、ワイングラスである。つまり、彼女はただグラスの中のワインを溢している最中なのだった。受け皿もなく落ちるワインの赤紫は、国王もみえるこの舞踏会のためにいつもよりも贅沢に仕立てた一張羅のドレスのスカートを同じ色に染めていった。「注いでいる」ので、着ている娘は落胆することもない。グラスの中のワインが空になると、娘は部屋を飛び出して大広間にかけて行った。
同じく大広間に向かおうとしていた公爵令嬢は、慌てたように大広間に向かうその娘の後ろ姿を目にしたが、特に何を思うわけでもなくゆっくりと同じ道を歩き、大広間の入口で礼をした。
「セシル!」
途端に、自分の名前を呼ぶ怒声が飛んできたので、公爵令嬢は顔を上げた。声の主は、顔を覆って泣く娘の肩を持ちながら公爵令嬢を睨みつけていた。
「王太子さま、そんなにお怒りにならないで。私がいけないんです、精一杯綺麗なドレスにしましたけど、これでも国王陛下にお目見えできないみたいですから……」
「だからってワインをかけて汚すことはないだろう、セシル」
公爵令嬢にとって全く寝耳に水の話だったので、彼女は怪訝な顔で泣く娘の姿を見た。なるほど、確かにワインでドレスは汚れている。まるで血を吸ったばかりの女吸血鬼が口から血を滴らせてつくったような染みだった。桃色のドレスのスカートに、縦に流れるような染み。その染みを見て、公爵令嬢はさらに首を傾げた。
「フォセットさん。あなたは殿下に、人にワインをかけられたと説明したの?」
「ごめんなさい、セシル様のせいにするつもりは無かったんです」
「じゃあ誰のせいにするつもりだったんでしょうね」
「ですから、私がいけないって」
「そうでしょう。私には、あなたが他人にワインをかけられたとはとても思えないから」
王太子は公爵令嬢のその言葉を遮るようにそれを制そうともう一度彼女の名を強めの声色で呼んだが、公爵令嬢はそれに耳を貸さなかった。
「試してみましょう」
公爵令嬢は一番近くに控えていた女中を呼び寄せ、彼女がトレイに用意していたワイン入りのグラスたちの一つを、自分のドレスに向かってかけるように言った。女給は困ったように一瞬硬直したが、お願い、ともう一度令嬢が言うと、意を決したようにグラスを一つ手に取り、公爵令嬢のドレスにかかるようにグラスを勢い付けて傾けた。ワインの塊がドレスにぶつかって弾ける。
「フォセットさん、見て。通りすがり際にワインをかけるとなれば、必然的に横からワインを当てなければならない。なので勢いをつけるしかないでしょう。そうすると、大きな染みができる。こんなふうに、まず広い染みができて、そこから滴った分が、下に線を描く。あなたのは違うでしょう。染みに勢いが無い。一張羅のドレスを仕立てたのは本当の事でしょう。だから、いくら彼の気を引くためとはいえ、戸惑いながらワインをかけた。違います?」
公爵令嬢は、ワインをかけてくれた女中に礼を言って下がらせた。娘は歯を食いしばるような顔をしてから、大きく首を横に振った。
「違います。だって、それじゃ、私がワインをかけたとは限らないでしょう。勢いなんてついてなかったかもしれないじゃないですか」
「だとしたら、その犯人は随分ゆっくりとあなたのドレスにワインを注いだ事になる。特別なドレスにそんなことをされるのを、あなたは黙って見ていたの?」
娘はしばらくの沈黙の後、溢れてきた涙を手で受け止めながら言う。
「ごめんなさい、ワインのことは、認めます……でも、こうしたのも、セシル様が私にひどいことをするのを認めてくださらないから……」
「ひどいこと?」
また思ってもないことを言うので、公爵令嬢は怪訝な顔をした。次に口を開くのは王太子だった。
「とぼける気なのか。聞いた話では彼女はお前に侮辱するような事を言われたと」
公爵令嬢は少し頭の奥に痛みを感じてきた。こうなると非常に厄介なのだ。あの男爵令嬢に比べて、王太子はそれなりに頭が回る。おそらく、敢えて証拠の出しようの無い点を挙げている。悪口というものは、受け取り手の考えよう次第でどうとでも言えてしまう。その上、過去の会話を形で示せる証拠など存在しない以上、発言など幾らでもでっち上げることが可能なのだ。
「それについては、潔白の証明のしようがありません。私の認識としては、そんなことはしていないはずですが、彼女がそうと一言言ってしまえば、どうしようもない」
「認めるということか」
「それより他にどうにもできませんから」
王太子は真っ直ぐと公爵令嬢の方を向いた。
「カルパンティエ公爵令嬢。婚約を破棄させてもらう」
「構いません」
公爵令嬢は容易く了承した。身分は彼の方が高いのだから、彼がそれを言い渡した時点で殆ど決まったようなものなのだ。
「……ですが、王太子殿下。どうぞ目に見えるものだけを信じることはお辞めください。いずれはこの国の全てがあなたの手の内に入りましょう。目に見える物事には必ず背景が御座います。こんな簡単な工作も見抜けないようでは、この国の一人として不安で仕方がありません」
公爵令嬢は頭を下げ、その日の舞踏会はそれきりにして直ぐに屋敷に帰っていった。
*
数日した頃、カルパンティエ公爵家に来客があった。例の男爵令嬢だった。彼女は応対した女中に、公爵令嬢に無礼をして申し訳ないと思い、詫びの品を持ってきたのだと語った。是非、会わせてほしい、と。公爵令嬢はそれを許したので、女中は彼女を部屋に通した。
「あの晩は、申し訳ありませんでした。お詫びと……今日は、お祝いを。セシル様、今日はお誕生日でいらっしゃるとか。どうぞ、召し上がってくださいませ。ロゼワインと、氷です」
グラスには、既に氷が入っていた。夏の中、少々氷は溶けているようだった。調べて来たのか、ロゼワインで氷を溶かしながらすっきりと飲むということは、公爵令嬢の好物だった。貴重で高価な氷をわざわざ用意するということは、それほど資産のある方ではない男爵家の娘である彼女の詫びの気合いの現れなのだろうか。娘は目の前で自ら新品のワインの栓を抜いて、氷の上から二つのグラスに注いだ。片方を公爵令嬢に手渡して、乾杯をし、二人でその酒を口にした。
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