私の青春時代

彩煙

第1話

今思えば、突如として私の目の前に現れたあの体験こそが私の初恋だったのかもしれない。


それまでにも彼女がいたことが一度だけあったが、自身が男子校生の身分という事もあり、自分を好いてくれる女性がいれば「とりあえず」と謎に上から目線で付き合っていただけに過ぎなかった。彼女から別れ際に言われた「何かが違った」という言葉は、まさにそれを見透かしていての事だったのだと、今では思う。しかし、どうしようもなく幼く、そして彼女の言葉をそのままに受け取ってしまった私は、女性に対して過剰なほどに臆病な人間になってしまっていた。目を見て話す事も、なんなら同じ空間にいる事さえも違和感を覚えてしまう。それなのに、女性に対する興味だけはいつまで経っても衰えることがない。女性たちの綺麗な面からは徹底的に目を逸らし、その陰にある汚泥だけを眺めて理解したような気になってしまう。それくらい徹底的に拗らせてしまっていた。


さて、これは私が高校3年生の時の話である。




いつもの時間にいつもの電車内。そこで目に映るのはいつも通りの下校風景。いつものサラリーマンにいつもの学生郡。そしていつも通りの風景が車窓から流れ続ける。常なる日と書いて日常とは、まさにこの事を示しているのだろう。では、今私の目の前で起こっているこの事象は何と呼べばいいのか。日常の中に現れたこの特異な女性を何と表現すればいいのだろうか。


私はいつも通りの定位置に立って、受験勉強の為に世界史のテキストに視線を流していた。その途中にある駅。彼女はここから乗車してきた。初めて見る人間という事もあったろうが、それ以上に彼女の容姿に対して、私の興味が魅かれていたという事が大きかったろう。


別に奇特な格好をしていたわけではない。その相貌はいたって普通のそれであった。縦の白いストライプが入った黒地のスラックスとスーツを着ており、メイクはしているものの、決してしつこいわけではないナチュラルメイク。少し脱色をし、後頭部に一塊にして丸められた髪。これらが奇跡的なバランスをもってして何とも言えないほど似合っていただけである。ところで私は普段より、誰かを見ては身勝手ながら評価を下しているのだが、いかに美しい人がいようとも、目で追うような不躾な事をした時はなかった。だのに、私は今回に限って初めて、彼女から目を離せなくなってしまっていた。私は未経験の事象ながら、直感的にこの情動に対する言葉を見つけ出していた。つまり、私は偶然この場に入り込んで来た異分子である彼女に、二度と会えないかもしれない彼女に対して惚れてしまっていたのだ。俗に言えば、一目惚れと云うヤツである。


不味いと思った。何しろ、見たところ彼女は20代半ばから後半程度。社会人であると思われる。一方として私は一介の高校生。いわば子供である。どれほど彼女に懸想をしようと、それが叶う事などは万に一つもない。幾度とない奇跡が重なり、仮にその様な事があったとしても、それは長くは続かない泡沫の様な幻想を作って消えるだけでしかない。つまり、この慕情の果てに未来など存在していないのだ。そして、彼女は偶々この電車に乗り合わせただけであり、また出会える保障などどこにもない。これでは得恋と同時に失恋をしたのと同義ではないか。


しかし私の絶望をよそに、彼女は翌日も同じ電車に乗って来ていた。そして、その翌日も同じ電車の同じ車両に乗って来ていた。もしかしたら、いつもの顔ぶれに彼女が追加されるのではないだろうか。そんな淡い期待が心中を占めていく。そうするうちに、私にとってのこの時間は、全て彼女を中心に回るようになっていった。毎日その人の乗る電車の時間まで塾の自習室で時間を潰し、何が何でもそれに乗るようにしていた。そうしなければ、彼女と私の存在していない関係を維持することができなくなってしまうと恐れていたのだ。異常なまでの執着を彼女に見せてしまっていた。そして、当時の私はその異常性に気付けてはいなかった。


私は彼女の様子を、本を読みながら観察し続けた。極めて自然な体裁を装いつつ、彼女のいる辺りにぼんやりと視線を送り、溜息なんかを吐きながら、首を鳴らしたりしつつ、何でもないと云う風に。別に彼女の事なぞ気にも掛けていないのだ、と誰でもない誰かに言い訳をしつつ、彼女を知るために彼女を見止める。そして、少しずつ彼女の事を探ろうと努めた。人の趣味や嗜好というものは、スーツという素っ気ない服装であったとしても案外出ているものだ。逆に言えば、スーツ以外の所に目を配っていけば、おのずとその人がどのような物を好んでいるのかが分かってくる。例えば、携帯のカバーや鞄に付けているストラップ。読んでいる本の作者や作風の傾向。こういったものは、大きな材料となり得る。私は、人の多い電車の中で自分の立ち位置を工夫しながら、彼女を視界の中に収められるように試行錯誤していた。そしてそんな中で、鞄に付けているキーホルダーの単語がバンドの名前だと分かればその日のうちに、そのバンドのCDを買う。また、読んでいる本の内容を知り得たならば、同じものを読んで同じ世界を共有しようとしていた。そうして、彼女を会うことができない朝の登校時に、彼女が普段立っている所を眺めては架空の彼女をそこに生成して、自身の中にある寂寥の甘さに酔いしれていた。彼女は何という名前なのだろうか。彼女はどの様な声で笑い、何を考えているのだろうか。彼女は何を食べ、何を感じているのだろうか。そんな事を空想しつつ、イヤホンが奏でる音楽や文章の羅列は、いつしか彼女その者となっていった。私は断片的な情報から己の精神にのみ存在する彼女の虚像を作り上げていた。


自分の趣味とはかけ離れた、キャッチーで中身のないフレーズを叫び続ける音楽を聴き、ありふれた恋愛小説を読んでは悦に浸る。これは私にとっての日課となっていた。そしてその日課は期せずして、私の精神を徐々に蝕み始めてもいた。決して触れあうことのできない彼女と触れ合う方法を、私は無意識の内に模索し始めていたのである。今更、彼女の姿を観察していた所で、もはやそこから得られる情報は微々たるものだ。そう見切りをつけて、私はこの行為をただ彼女の姿をより鮮明に記憶するための時間として扱い始めていた。私にとって彼女とは、私の中にだけ存在する女性の素体であり、それは私にとっての彼女ではなくなっていた。よりリアリティをもってして、私の自室に呼び出すための媒体に過ぎなかったのである。


私は度々、夜に自室にこもると彼女を呼び出した。幾度となくその施行を行った。そしてそれはいつしか、私の細やかな楽しみとなった。学校と塾、そして自宅のみを往復する飾り気のない生活を彩る、唯一の娯楽であったのだ。その中で完成した彼女は、現実の彼女など度外視した、明らかに自分好みな別の存在であった。しかし、私にとってはそれで十分だった。現実の彼女とは決して結ばれることがない。ならば、この部屋でのみ活動している彼女も、その現実から解き放たれた別の物でなければならない。そこに決して矛盾などは生じておらず、これは当時の私ができる最大限の彼女に対する愛情の形であり、せめてもの求愛だった。


私は目の前に現れた女性に近づくと、束ねられたその髪をほどき、指でそっと解く。細く軽い刺激が、私の手を伝う。彼女は私の愛撫に身を震わせるが、私を拒絶することはなかった。むしろ私の名前を呼び、その大人らしい包容力でもって、こんなにも未熟な私のことを受け入れようとしていた。この部屋で、この時間にだけ繰り広げられる二人の蜜月は甘く美しい物であり、この行為は自分にとって崇高な儀式であった。触れることのできない人と触れ合うことでしか生み出せない恍惚であった。私は、目の前の彼女に対してだけは男性的でありながらも紳士的に接することが可能だった。それ以外の異性との接触など、不要でありノイズでしかなかった。


所が、その高潔な時間は唐突に終焉を迎えることになった。


ある日のことである。その日は金曜日、週末だった。彼女は同僚らしき男とその電車に乗ってきた。二人の距離感は、親しい仲以上のものの様に窺われた。私は、その様子を見ていられなかった。イヤホンから聞こえる音楽のボリュームを少し上げて、目の前のテキストに神経を集中させる。しかし、どんなに拒否したくても思考は自然と二人の事を考えてしまう。


多分、たまたま一緒になっただけなのだ。彼女はいつもと同じ駅で降りるはずだ。そしてその時には一人で降りているはずだ。彼女だって、あの男に親しくされて迷惑なはずなのだ。


色々と言い訳を考えていたが、現実は非情だった。彼女は件の男と一緒に、いつもの駅とは違う場所で降りて行ったのである。曜日と二人の距離。いくら愚鈍な私であっても、これらが何を示唆し、今夜の二人が何をするのかという事ぐらいは察しがついていた。


私は慌てて、聞いている曲を変更する。読んでいた本も鞄の中に押し込んだ。彼女を連想させるもの全てが気持ちの悪いものになっていく。彼女が立っていた所を見るだけで吐き気がしてくる。いつもの逢瀬の記憶の中にいる自分が、徐々に先ほどの男に塗り替えられていく。恐怖以外の何物でもなかった。その後、自宅に戻って日課を行うも、目の前に女性を呼び出したところで、そこに居たのは普段の彼女ではなかった。いつもの愛情ではなく、慈愛に満ちた表情をしている。私を哀れんだ目で見ている。汚い何かを見るような目でこちらをじっと見据えている。もうそこには、私の「彼女」など存在していなかった。そこら中にいる、くだらない女性たちと同じ何かが立っていた。


それからというもの、私は二度と彼女を呼び出そうとはしなかった。そして、彼女と会うことが無いように電車の時間も変えた。聞く音楽も、読む本の内容も自分の趣味に戻っていった。


今の私に残されたものは、女性に対する不信感と人間関係に対する無意識な執着だけである。その点においては、これ以上成長することは出来ないのだろう。それこそ、私の執着心を掻き立てる、そんな新しい人が現れることがない限り。




これは一笑に付すべき、私の青春である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の青春時代 彩煙 @kamadoma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ