白雪姫と旅人の熊
牧瀬実那
フィロウセン王国、北西の小さな村にて
カァン、カァン。
山間の小さな村の外れの外れ、鬱蒼とした森のすぐ入り口にある小さな家から乾いた音が響き渡る。
音の出所には、美しい少女がひとり。赤い豊かな髪をひとつに結い上げた彼女は、細い両手に斧を携えて、せっせと薪を割っていた。
華奢な見た目に反して慣れているのか、少女が振り下ろす斧は迷いなく薪をふたつに分かっていく。動くたびに赤い軌跡を描く髪は、まるで走る馬の尾のように美しく軽やかだ。
「こんなところかしら」
しばらくして空を見上げると、太陽は随分と低くなっている。割った薪は多くないけれど、乾燥させるために積み上げているうちに日暮れを迎えそうだった。
ささくれ除けに、少女はバラの木の近くに置いていた革の手袋を身に着け、手早く薪を積み上げていく。全部積み終わったときには、予想通り辺りはすっかり夕陽色に染まっていた。
うーん、と腰に両手を当てて伸びをすると、冷たい空気が胸を満たす。周囲の木々はすっかり葉を落とし、地を埋める葉ももう黒ずんで踏めば容易にバラバラになった。
冬が近付いている。
冬支度を急がなければ、と考えていると、「アルテ」と不意に声をかけられた。
少女――アルテが振り返ると、彼女に瓜二つの顔付きの、けれど髪が雪のように白く、薄青色の瞳をした少女がそろそろと様子を伺っている。
「シュシュ! もう起き上がって平気なの?」
途端にパッと斧から手を離すと、アルテは早足で妹に駆け寄って彼女の頬を両手で包み込んだ。
「うん。熱も引いたし、ごはんも食べたよ」
安心させるように柔らかく微笑み、シュシュは姉の両手を手に取る。
「それに、もうお姉ちゃんばっかりに仕事をさせるのも嫌だもの」
わたしも手伝う、と意気込むシュシュにアルテは小さくため息をついた。体が弱いのに、この妹は少しでも元気があればいつもこうして外に出てくる。心配して家に戻るように言っても引き下がらないことは幼い頃から十分にわかっているので、彼女に負担がかかりにくい仕事を任せるのがお決まりの流れだった。
「それじゃあ、薪を積み上げるのを手伝ってくれる? ふたりでやったらあっという間に終わるから」
「はぁい!」
指示すれば、シュシュは嬉しそうに返事をしてとたとたと歩き出す。途中、植わっているバラの木の前を通り過ぎるとき、彼女はむん、と自信に満ちた顔を木に向けた。それから手袋を取って、せっせと薪を積み始める。
その様子を眺めながら、アルテは同じようにバラの木に近付くと小さく呟いた。
「素直で思いやりがあることはきっと良いことよね、お父さん」
アルテとシュシュ、双子の少女の父親は、物心がつく前に他界した。
当然、ふたりに父親の記憶はないし、父親が居るという実感も殆どない。けれど、バラの木はふたりが生まれたお祝いに父親が植えたのだ、と母親がふたりを抱っこしながらたびたび穏やかな顔で話していたので、自然とバラの木が父親のようだとふたりも思うようになっていった。
今では何かにつけてバラの木に話しかけるのがすっかりクセになった。
バラの木はいつも何も答えなかったけれど、風に吹かれて花や葉を揺らす様子が頷いているように思え、見守られているような、不思議な安心感に包まれる。
男手が無く、貧しい生活でも楽しく幸せに暮らしていけるのは、母親と共にこのバラの木があるからだ、と双子はいつも笑いあった。
今日もまた、バラの木はゆらゆらと揺れている。
その様子に、アルテはにっこりと笑うと、シュシュに続くのだった。
***
程なく雪が舞い散り始めたと思えばあっという間に強い風と共に周囲を白く染め上げるようになっていく。
ガタガタと風が家を揺らす音を聞きながら、春を待つある日の夜。
コツコツ、と家の戸を叩く音が風に紛れて聞こえてきた。
「アルテ、もしかしたら牧師様かもしれないわ。ちょっと出てくれる?」
気のせいかと双子が顔を見合わせていると、台所に居る母親が声をかける。
確かに牧師様なら様子を見に来てくださったのかもしれない、はぁいと返事をしながら考えたアルテは、そっとかんぬきを外して戸を開けた。
果たして、そこに居たのは村の牧師ではなく、とても大きな熊だった。
「きゃあ!」
「お母さん! 熊だった! シュシュを連れて裏口から出て!」
シュシュの悲鳴を背後に聞きながら、アルテは素早く傍にあった箒を手に取ると大声で叫ぶ。
「お、お姉ちゃんも逃げよう!」
「あたしは大丈夫だから!」
ばたばたと慌てふためく双子を、熊は少しの間見つめた後、ぺたりと頭を地面につけ、
「お騒がせして申し訳ない。私はあなたたちを襲うつもりはありません。ただ、雪にまみれ寒さに凍えて困っていたところに明かりが見えましたので、ほんの少し暖を取らせてほしいと思い、つい訪ねてしまいました」
と、流暢に喋り出した。
あまりにも自然に喋るので、アルテもシュシュも呆気に取られていると、いつのまにかやってきた母親がのんびりと返事をした。
「それは大変だったでしょう。どうぞ暖炉の傍で横になって。ああ、毛皮は焦がさないように気をつけて」
「お母さん!?」
あっさりと熊を受け入れる母親に、思わず双子が驚きの声を上げる。驚いたのは熊も同じだったようで、ぱちくりと瞬きを何度かしたあと、おずおずと尋ねる。
「あの……自分で言っておいてなんなのですが、本当に良いのですか? 私が嘘をついてあなたたちを襲おうとしているとは思わないのでしょうか……?」
熊の疑問に、母親はにっこりと笑った。
「私たちを襲うつもりなら、その太く強い腕で戸を壊してしまった方が早いでしょう。けれどあなたはそうせずにきちんとノックをして礼儀正しく頭を下げた。きっと本当に困り果てていたのでしょう。そんなあなたを無下にするのは失礼だわ」
あまりにも軽やかに言うので双子と熊が揃ってぽかんとしている間に、「鍋を火にかけっぱなしだったわ」と母親はさっさと引っ込んでいった。
「……すごいご婦人ですね」
ややあって熊がそう言うと、双子も同じように揃ってため息をつく。
「まあ……元々勢いで駆け落ちするような人だし」
「いろいろ経験してるみたいで柔軟というか肝が据わってるというか」
「そもそも村の人に殆ど頼らないで子供ふたり育ててるくらいだしね」
「はあ、まあ、それは凄まじい……」
思わず話をするうちに、すっかり警戒心がなくなったことに気が付いた双子は、少し顔を見合わせたあと、改めて熊に向き合った。
「さあ、入って入って。いつまでも戸を開けてたんじゃせっかく暖まった家も寒くなっちゃう。それで妹が風邪を引いたら許さないんだから」
「あ、でもまずは雪を落とさないと。わたしの前に熊さんが風邪を引いちゃう」
「どうも、痛み入ります」
熊が完全に家に入ると、アルテはすぐに戸を閉めてかんぬきをかけ、シュシュは箒で優しく熊の雪を払い落とした。それからふたり揃って毛皮を拭く。
熊はとても大人しく、ふたりのされるがままになっていた。
「本当に重ね重ねありがとうございます」
「も、もういいから……」
熊が頭を下げるのを見て、アルテは首を振った。
「しかし、暖炉の傍に居るのを許していただいた上に貴重な食事までいただいてしまってはもう頭が上がりません」
「それにしたってもう10回くらいは言われてるし……」
これ以上は居た堪れなくなってしまう、と流石に困り始めた双子は、ちらりと互いを見て、これで気が済むなら何かしてもらおうよ、とお互いをつつきあう。
「えっと、じゃあ、普段なかなか出来ないことを手伝ってもらおうかな」
「ふむ」
「例えば重いものを動かしてもらうとか」
「いいですよ」
「もし鹿が居たら、狩れる? わたしたち女手じゃやっぱり難しくって」
「もちろん、お安い御用です」
「用心棒もお願いしていい? 冬だから泥棒もあんまり出ないけど、やっぱり不安だし……」
「お任せください。これでも力には自信があります」
「見た目通りだよぉ」
「ふふっ他にはありませんか?」
「どうしよう、お姉ちゃん。このヒトなんでもするって言うよぉ」
「頼んだら喜んで芸でもしてくれそうな勢いね……」
キラキラとした目で問いかける熊に、姉妹はこそこそと耳打ちする。もう何も思い浮かばないし、もらいすぎな気もしてきた。
あとは、あとは……
ややあって、そうだ、とシュシュが手を打った。
「じゃあ、わたしたちの遊び相手になって」
「遊び相手、ですか?」
「ああ良いアイデアね、シュシュ! 冬はまだまだ長いんだから、お互いそうそうには外に出られないし、きっと暇をもて余すわ。なら遊びましょ!」
「ふふ、熊さんと遊ぶ機会なんて、この先絶対に無いよね」
お願い、とせがむふたりに、今度は熊が困ったように首を傾げる。
「遊ぶ、といってもおふたりと私では体つきも力も違いますし、怪我をさせてしまうかもしれません」
熊の気遣いに、しかしアルテは頬を膨らませ、シュシュは首を振った。
「別に取っ組み合いをしようってワケじゃないわよ。あたしたちももう16歳だもん」
「ねぇ面白いお話があったら聞かせて! 熊さんならきっと人とは違うお話もたくさん知っているでしょう?」
「『暖炉を囲んで旅の吟遊詩人の話を聞く』! 牧師様の説話で聞いてからずっと憧れてたの」
「吟遊詩人じゃなくて熊さんだけどねぇ」
「似たようなものよ。どちらも
冗談めいてくすくす笑いあう双子に微笑ましくなったのか、熊は柔らかな声音で頷いた。
「それならばできそうだ。代わりに、というのもなんですが、是非おふたりも話を聞かせてください。このような機会は私も初めてで興味深いですし」
歌うのは得意ではありませんが、とおどけたように頬をかく熊の様子が妙に愛らしく、シュシュもアルテも思わず吹き出す。
「じゃあ決まり!」
「よろしくね、熊さん」
双子が互いに手を取ってきゃっきゃと嬉しそうにはしゃぐ様子を見ながら、熊は前足を組んでうつぶせになった。その表情は、幼子を見守るような優しい雰囲気に満ちている。
はた、とシュシュが振り返った。
「ずっと熊さんって呼ぶのもよそよそしいよ。お名前を聞いてもいい?」
彼女の言葉に、確かにとアルテも頷く。
「相手に名前を聞くときはまず自分が名乗る、のよね? あたしはアルテ」
「そういえばわたしたちもまだ名乗ってなかったね。わたしはシュシュです。それから、お母さんはエマっていうの」
「ありがとう、アルテ、シュシュ。私は……」
そこで熊は言い淀み、何かを考え込むように視線を彷徨わせた。しかしそれも僅かな間で、ややあってから何事もなかったように彼は続けた。
「……私はルイ。これからよろしくお願いします」
こうして、母娘三人と熊ひとりの暮らしが始まった。
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