瞳の中の小さな蛇
かつエッグ
瞳の中の小さな蛇
1)
ずっと、ずっと不思議でしかたがなかった。
わたしのこれまでの人生の中で、どうしようもなく惹かれて、恋い焦がれ、自分のものにしたいと思う人たちがいた。
その人たちに出会ったとき、まるでわたしの頭の中で、何かのスイッチが入ったかのように、それまでの思考や感情が切り替わり、異常な欲望と執着が発生するのだった。
その対象は、女性に限らなかった。男性であっても、そんな気持ちになることがあったのだ。
要するに、性別は関係がない。
男は、自分の母親に似た顔かたちの女性を好きになるという俗説もあるが、わたしを惹きつける人たちの容姿は、千差万別であった。どの人をとっても、他の人とは似ていなかった。
世間の美醜も、関係がなかった。
では、性格や雰囲気なのか。
それも違った。
その人たちの性格には、どうかんがえても、なんの類似点もなかったのだ。
こんなふうに記すと、まるでわたしが、次々と気に入った対象を渡り歩く、不誠実な漁色家のように思われるかも知れない。
だが、そんなものではけしてない。
わけもわからずひきつけられ、そして親密になろうとした相手に、わたしはことごとく拒絶されてきたからだ。
それは、にべもない、という言葉がふさわしい、完全な拒絶であった。どのような手を尽くしても、何度繰り返してアプローチしても、彼女ら、彼らは、けしてわたしを受け入れてくれることはなかったのだ。それは理屈ではなく、生理的なもののような、なにをもっても覆されない固い拒否であった。
わたしを突き動かすこの強烈な衝動と、そして相手の完全な拒絶。
そのような目に遭いつづけたにもかかわらず、わたしの行動が、これまで、法律を犯す領域にかろうじて踏みこまずにいられたことは、自分を褒めてやりたいほどである。
それにしても、彼女ら、彼らのどこが、それほどまでに自分を惹きつけるのか?
それは謎であった。
それは、まるで不意打ちのように、わたしに襲いかかり、わたしを虜にするのだった。
だが、ある日、わたしはとうとう気がついたのだ。
その女性は職場の新入社員だったのだが、歓迎会で、たまたま横に座ったことから、間近にその顔を見つめたとき……。
わたしの心臓が激しく脈を拍った。
ああ、来た!
いつものあの衝動だ。
この女性が、わたしの新たな対象なのだ。
わたしは、当たり障りのない言葉をかけようとしていたのだが、その言葉はもはや口からは出ず、ぽかんとした顔で、彼女の顔をまじまじと見た。
彼女も、わたしの態度に驚いたように、目を見開き、わたしを見ていた。
そのとき、衝撃とともに理解した。
これだ! これだったのだ。
彼女の瞳。
瞳孔と、その周りの虹彩の放射状の線までが見分けられるほどに、彼女の顔に近づいたとき。
その瞳孔の奥に、わたしは見た。
眼球の奥に、とぐろをまく、虹色の蛇。
いやそんな蛇などいるはずはない。
それは蛇ではなく、蛇に似た何か別の存在なのだろう。
だが、それがなんであろうにせよ、そのものを認識した私の精神は痺れ、そして頭の中に霞がかかったようになにも考えられなくなってしまった。
そして——わたしはなにをしようとしたのだろうか、 「いやっ!」 彼女が叫び、わたしは激しく突き飛ばされて、料理のならんだテーブルの上に倒れ込み、和やかな歓迎会はたいへんな騒ぎにになってしまったのだ。
そのあと、いろいろあったのだが、けっきょくわたしは会社を辞めた。
いつかはこういう事態になるとは思っていたのだ。
自ら申し出て辞職したため、退職金 (たいした額ではないが)も支給された。
しばらくはそれで生活できるだろう。
わたしは、会社を辞めたことで自由になった時間を使って、わたしをおかしくするこの不思議なものについて、徹底的に調べようと思った。
2)
そう、思い起こしてみると、たしかに、すべては「眼」だったのだ。
わたしがこれまで、取り憑かれたように惹きつけられた人たちを思い浮かべてみると、こころに浮かんでくるのは、その姿形ではなく、顔つきでもなく、声でもなく、それらはもうおぼろげで、はっきりと記憶に残っているのは、たしかに眼、それも瞳孔の奥なのだ。
あれが、わたしをこんなふうにしてしまっている、すくなくとも関連があるなにかであろうことは間違いないと確信した。
だが——。
眼球の中に蛇が棲んでいるなどと、聞いたこともない。
もし本当にそんなとんでもないことがあるのなら、世の中で話題にならないはずがないのだ。
わたしは、手を尽くして調べた。
専門知識のないわたしに、どこまで理解できるかはわからなかったが、医学書も読みあさった。ネットの検索も使った。怪しげな霊能力者のような相手にさえ、相談した。インド哲学でいうところの、人間の生命エネルギーの流れであるクンダリーニが、あるいは蛇のようなかたちをとって顕れるかもしれない、という意見もあった。ありがたい龍神さまが眼球に住まわれているのだなどという霊能者もいた。
だが、わたしには納得できるものではなかった。
もし、そうだとして、では、何故わたしがここまで惹きつけられてしまうのか?
それを説明できないではないか。
ヒトの眼の中に、生き物が侵入する、それは事実としてあることだった。
つい最近も、ある女性の眼から、テラジア・グローサという透明な細長い虫が見つかったという報道があった。 また、顎口虫のような寄生虫が、人体を移動した結果、眼球に迷入し、炎症を起こしたという例もある。
寄生虫という考えは、それほど突拍子のないものではない気がした。
だが、あの、蛇のような生き物について触れている報告はひとつもなかった。
まてよ。
そこで、ふと、思ったのだ。
わたしを惹きつける彼女、彼らの瞳の中に、あの蛇がいるとして、わたしは? わたしはどうなのか?
まさか、わたしの中にも、あれがいるのではないか。
ひょっとして、それでわたしは、同類として惹きつけられているのではないのか。
寄生虫についての本を読みあさって知った知識の中に、寄生虫が、宿主の行動に影響を与えるというものがあった。ある種の寄生虫は、宿主の脳を支配し、その行動を変えてしまう。本来草の葉の裏側にいて、目立たないところで活動している昆虫が、寄生されることによって、行動が変容し、警戒心がなくなったかのように葉の表側を動き回るようになる。そうすることによって、宿主である昆虫は、鳥に捕食されやすくなる。宿主が鳥に食べられることで、その体内に潜む寄生虫は、次の宿主をみつけ、分布を広げていくのである。
もしかしたら、わたしの中にもいるあの蛇が、わたしの行動に影響をあたえているのではないのか。脳神経に作用し、あの強烈な欲動をうみだしているのではないか。
それは慄然とするような、おそろしい考えであった。
確かめるのが怖い。
わたしは、震えながら、鏡に顔を近づけた。
……よくわからない。
自分で自分の目を見るというのは、とんでもなく難しい。
視線を動かすと、当然のことながら、眼球も動いてしまう。
わたしは、自分の瞳孔の奥を覗こうと、悪戦苦闘した。
だめか?
いや、あれは?
あの、今、もぞりと動いた、黒い——。
3)
「うああっ!」
思わず、情けない声をあげてしまった。
いたのだ!
わたしの瞳の奥に、それがいた。
ああ、やはり。
だが、わたしの予想とちがっていたのは、それは蛇ではなかった。
それがなにかといえば——蜘蛛。
蜘蛛に似た、いくつもの脚をもった、なにか。
頭部には、人のものによく似た顔があって、虚ろな表情を晒していた。
「ああああっ!」
わたしは、近くの眼科に駆け込んだのだった。
4)
眼の中に、蜘蛛のような、へんなものがいる、血相を変えてそう訴えるわたしに、眼科医は軽く笑いながら言った。
「眼球の中に……なかなかあることではありませんよ……たぶん、硝子体の濁りではないかと思いますが」
そう言いながらも、その眼科医は、細隙灯顕微鏡の前にわたしを座らせた。
その他にも、丁寧にあれこれ検査をし、そして、わたしに告げた。
「なにも、異常はみられませんね。まあ、年相応の状態です。角膜の濁りもなし、硝子体も問題がないですよ」
「そんな」
「なにしろ、直接、のぞいて
眼科医は自信に満ちた口調で言う。
「とにかく、わたしの専門の範囲では異常はないようです、もし、なにかあるとしたら——」
「あるとしたら?」
「あなたは納得なさらないかも知れませんが、それは精神の領域です」
「精神……」
「そうです、脳もしくは神経に異常がある、つまり、神経内科や精神科に相談なさるのがよいかもしれません……」
そういわれ、わたしは、肩を落として眼科を後にしたのだった。
5)
眼科医には、眼の中になにもおかしなものはない、といわれてしまった。
だが。
家に帰って、もういちど、自分の瞳孔の奥をのぞきこんでみれば、見にくくはあるものの、やはり、そこには、あの蜘蛛のようななにかがいて、表情のない顔で、ウロウロとしているのだった。
こうなれば、もはや、頼りになるのは自分だけだ。
自分の頭で考えるしかない。
わたしは、興奮し熱くなった頭で、そう思い込んだ。
そして、思考を巡らす。
これが寄生虫だという考えはやはり棄てがたい。
まずはそれを認めるところから始めよう。
わたしの眼の中にいるこいつが、わたしの感情に影響を与えているのだ。
そして、特定の対象にたいして、強い執着をもたらしている。
その特定の対象というのは、眼の中に、あの蛇のような生き物を棲まわせている相手、ということになる。
そこまではいいだろう。
問題は、あの蛇のような生き物と、この蜘蛛のようなものの関係だ。
見た目はかなりちがっている。
ちがってはいるが、じつは雌雄なのではないか?
その場合、わたしの行動に干渉する目的は、おそらく繁殖だ。
そのために、なんとかわたしと対象を結びつけようとしている。
これは、それなりに理屈が通る。
だが、そう考えると、ひとつ、筋が通らない部分がある。
それは、相手側の、あれほどまでに強い拒絶である。
繁殖が目的であれば、なぜ、わたしの接近を拒むのか。
ことごとく、拒否されたことを思うと、その一点が理屈にあわない。
なぜだ。
そこで、わたしは、もう一つの可能性に思い至る。
それは、捕食。
つまり、この蜘蛛は捕食者で、あの蛇を捕らえて食べるのだ。
どうやってそれを為すのか、それはあまり考えたくないが、この仮定に立つと、まずわたしの強烈な衝動と、そして相手の拒絶が理解できる。彼女らは、捕食者から逃げているのだ!
考えれば考えるほど、これが、正解のように思えてきた。
捕食者と、被捕食者の関係。
わたしのなかの蜘蛛は、餌である蛇をすまわせた彼女ら、彼らを手に入れようとする。
彼女らは、というか、彼女らの中の蛇は、食べられては終わりなので、必死で拒絶する。
問題は——。
わたしが正解にたどりついたとして、しかし、何の解決にもならないことだ。
このわたしの衝動は抑えることができず、いつかわたしはその衝動に呑みこまれ、取り返しのつかないことをしでかしてしまうのではないか?
いや、すでに今も、もはや衝動に従うことがそれほど間違ったことに思えなくなってきている。
わたしがこれまで自分を抑えてきたことが、なんだかこっけいな無駄なことのように思えてきていた。
それは、まさに、この蜘蛛がわたしの思考までに干渉をはじめているということなのかもしれなかったが。
6)
そして。
とうとう、その時が来てしまった。
わたしは、公園の暗がりに潜んでいた。
瞳に蛇をすまわせた相手、それはわたしの家の近くのコンビニでアルバイトをしている女子高生であったが、もうじき仕事をおえて帰ってくる。
彼女は、家に帰る途中で、かならず、人気のないこの公園を通るのだ。
わたしを突き動かす衝動は、日に日に強まっていた。
わたしの眼の中の蜘蛛は、だんだん大きくなって、凶暴な雰囲気をただよわせている。
大きくなった蜘蛛は、わたしに対する支配を完全なものとして、わたしはもはや衝動にあらがえない。
理性の規範は、渇望の前に消え去った。
目をつけたあの女子高生を捕食すべく、こうして待機している。
わたしの中では、強い飢えが渦巻いていた。
この飢餓を満たす。それがすべてだ。
もはや、そのあとのことは、あとのことだ。
ああ、近づく足音がする。
あれだ。
家路を急ぐ、細身の影。
なにもしらない獲物が、今、わたしの目の前に——。
ガツン!
後ろから飛びかかろうとしたわたしを、強烈な打撃が襲い、わたしの意識は暗転する。
7)
脇腹を蹴られる激しい痛みに、意識を取りもどしたとき、わたしの身体は仰向けに固定され、身動きができなくなっていた。
何人もの手足が、あるものはわたしを掴み、あるものは踏みつけ、固い地面に押さえつけている。
「!!」
叫ぼうとしたが、口にはなにかが詰め込まれ、くぐもった声しか出ない。
そして、そんなわたしを、いくつもの顔が見下ろしていた。
女もいる。男もいる。
みんな、無言でわたしをみている。
わかっている。彼らはみな、瞳の中に蛇が棲む者たち。
そして、その表情には、長い我慢の末に、ようやく待ち望んだ時が来た、という歓喜と、そしてまぎれもない欲望があらわれていた。
わたしの中では、あの蜘蛛が怯え、逃げ場のない中で震えているのが感じられた。
(なぜだ、蜘蛛は捕食者ではないのか)
そんな疑問が浮かんだが、同時に答えもわたしの中に閃いたのだ。
自然界では、捕食/被捕食の関係は、かならずしも固定されたものではない。
一匹なら捕食されてしまう生き物が、数あつまれば捕食者にかわるのはよくあることだ。
まさに、今、このときのように。
うごけないわたしに、瞳に蛇をすまわせたものたちが、覆いかぶさってくる。
なにか鋭いものが、わたしの眼球に触れ、そして優しく突き破った。
(了)
瞳の中の小さな蛇 かつエッグ @kats-egg
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