第三十六話 本日貸し切り

「どうしたんだい」

 店じまいを始めた戸祭とまつりが声をかけると、かつらは我に返ったように振り返った。

「い、いえ。失礼します」

 かつらは慌てて立ち上がると、何かを肩掛けカバンに突っ込み、三角巾と前掛けをつけたまま外に飛び出す。

「ただ事じゃねえな」

 残された空のお椀を持ち上げると、戸祭はつぶやいた。


 「まつり」を出ても、かつらの脳裏にはたかしの手紙の文章が焼き付いて消えなかった。

(あの廣本ひろもとさんが隆さんの上官だった。隆さんたちは軍の命令で見捨てられた。隆さんが生きて帰ってきたことで、全てが明らかになる。廣本さんはそれを恐れていたから隆さんを「亡霊」と呼んだのかもしれないわ。

 隆さんは廣本さんから逃げようとしたけど立ち向かおうとしている。わたしたちのために、そして自分の過去を越えるために。でも、わたしは隆さんに何ができるの? ただ「まつり」で待つことしかできないの?)

 かつらはあの日の隆の申し出を思いだしながら、涙でにじむ街灯を見つめていた。

康史郞こうしろうがいなかったら、わたしは隆さんの申し出を受けていたかもしれない。隆さんは待ってくれると思ったから断ったのにあんなことになるなんて。もし永遠に隆さんに会えなかったら一生後悔するわ。いえ、もう後悔してる)

 かつらは自分の心に生まれた感情を整理できずにいた。


 いつもなら家に帰るためうまや橋に向かうかつらだが、足は自然と反対方向に向かっていた。たどり着いたのは「墨田ホープ」と書かれた二階建ての建物の前だ。改装中の一階には人影はないが、二階の窓からは明かりが漏れている。かつらはその窓に向かって呼びかけた。

憲子のりこさん、いますか」

 窓が開き、カーラーを巻いた女性が顔を出す。かしわ憲子ではなく、先輩の丹後たんご育美いくみだ。

「憲子になんの用だい」

 明らかに迷惑そうな育美にかつらは一瞬たじろいだが、その後ろから憲子が顔を覗かせた。

「ちょっと待ってね。今店を開けるわ」

 階段を下りる音がすると、一階の電球が点り、入口の戸が開いた。寝間着にカーディガンを羽織った憲子が立っている。

「こんな格好でごめんなさい」

「こちらこそ、こんな夜遅くに来てすみません」

 かつらの泣きはらした目を見つめた憲子は、何か察したのか眉を下げた。


 憲子はクロスのかかった食堂のテーブルにかつらを案内した。ペンキの匂いが微かに漂っている。

「壁を塗り替えたので今乾かしてるの。気をつけてね」

 かつらが食堂の椅子に腰掛けると、憲子はコップに水をくんできた。

「とりあえず落ち着いてから話を聞きますね。今日は貸し切りですから」


 かつらは憲子に、隆が自分に迷惑をかけたくないと別れをきり出したことを話したが、さすがに手紙の内容までは語れなかった。憲子は話を最後まで聞くと、かつらの目を見つめてうなずく。

「かつらちゃんは、京極さんにまだ話したいことがあるんですね。もう大人なんですし、自分で責任を取れるのなら納得いくまでやってみればいいんじゃないですか」

「でも、わたしには康史郎を育てるという大事な仕事があるから」

 ためらうかつらを見た憲子は、いきなり立ち上がると台所から酒瓶とコップを持ってきた。いつものおっとりとした雰囲気はなくなっている。

「私のおごりです。カストリじゃなくてちゃんとした焼酎ですよ。それともお酒はダメですか」

 憲子はコップに焼酎を注ぐとかつらの前に置いた。

「かつらちゃんは女学校で一緒だった頃のままに見えるの。三つ編みですっぴんで、自分よりも弟さんのことをいつも気にしてる。そんなかつらちゃんは素晴らしいと思うし、もう私がなくしてしまったものをずっと大事にしている、そんな気がしてうらやましいの」

「そんな。わたしはただ、毎日必死に働いているだけだから」

 かつらは焼酎のコップをつかんだ。

「でも、京極さんのことを信じてるのなら、かつらちゃんも待ってるだけじゃなく京極さんに頼ってもらえるようにならないと、ね」

 憲子は自分の水が入ったコップに焼酎を注ぐと、一気に半分ほど飲み干した。

「はあ、やっぱりお酒はいいですね」

 憲子につられるように、かつらは自分のコップに口を付けた。あわてて憲子が声をかける。

「あ、水割りしないと」

 ひりつく液体がかつらの喉を流れ落ちる。胃の中に火が点ったようだ。

「兄さんや京極さんはこんな気持ちでお酒を飲んでたのかしら。……兄さん、どうして死んでしまったの」

 胸の中にくすぶっていたものが、お酒の勢いで一気にあふれ出てしまったように感じながら、かつらはテーブルに泣き伏した。

「かつらちゃん、泣き上戸だったのね。ごめんなさい」

 憲子が謝りながらかつらの背中をさすっている。かつらは突っ伏したままつぶやいた。

「わたしも知らなかったわ」


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