第3話 横澤家の姉弟

 一方その頃、雑貨店の裏手ではアロハシャツの店主がかつらに体当たりした二人の子どもに詰め寄っていた。子どもたちは顔立ちが似ているのできょうだいなのだろう。

「ズックは取り返せなかっただと? カイもリュウも何やってるんだ」

「アニキが拾おうとしたら先に男の人に拾われちゃったんだ」

 戦闘帽を目深に被りボロボロの学生服を着たリュウが説明する。

「今度はちゃんとやるから、ヤマさんもリュウにあたらないでくれよ」

 大きすぎる米軍のシャツを巻き付けるように着ているカイが懇願するが、ヤマさんこと八馬やまつかさはいらついていた。

「お前ら最近ドジ踏むことが多すぎるぞ。サツが嗅ぎ回ってるの分かってんのか」

「ヤマ、そのくらいにしてやれよ」

 そう言いながら店先から入ってきたのはカーキ色のTシャツに作業スボン姿の男性、廣本ひろもとひさしだ。年は二十八歳の八馬と同じだが、無精ひげを生やしているため老けて見える。

「ああ、お前にいい話を持ってきた。それとこいつも」

 廣本は手に持っていた新聞紙包みを椅子代わりの木箱の上に広げた。

「ヤミ市でうまそうなスモモが売ってたんでな」

 ズボンのポケットから小刀を取り出した廣本は、新聞紙の上でスモモを二つに割ると、種を取り除いてから子どもたちに差し出した。

「夕飯代わりだ。ちょっと外に行ってろ」

「ヒロさん、ありがとう」

 スモモを持って軽く頭を下げるリュウを、カイが引っ張って店の外へ出ていく。二人きりになったのを見計らい廣本は話し出した。

「頼まれてた土地の候補を見つけた。うまや橋の近くだ。被災地域でまだバラックだらけだから、立ち退かせれば広い土地が手に入るぞ」

「分かった。明日にでも案内してくれ」

 八馬はにやりと笑うと、スモモを掴んでかぶりついた。


 「まつり」の閉店時間は夜八時だが、かつらは客のラストオーダーをとってから七時四十五分頃店を上がる。家で待っている弟の康史郞こうしろうのために早く帰りたいという理由だ。店を出る前には夕飯として味噌汁に薬味のネギを入れて飲む。時には戸祭とまつりが余ったおかずを出してくれるのが嬉しかった。

「お疲れさん。今週の給料だよ」

 かつらから会計用のざるを受け取った戸祭は十円札を六枚取り出す。かつらは一礼して受け取るとがま口に入れた。

「ありがとうございます」

「それじゃ、また月曜にな」

 厨房から声をかける戸祭に見送られ、かつらは外に出た。手にはズック靴の包みをしっかり抱えている。


 まだ賑やかなヤミ市を抜けると景色は一変し、バラックが建ち並ぶ焼け跡が広がっている。東京大空襲でこの一帯は焼け野原になり、数え切れない死傷者と焼け出された被災者が出たのだ。

 明かりも少ないのでかつらは足早に進み、隅田川すみだがわにかかる三連のアーチ橋、厩橋を渡る。横澤家はこの橋から続く大通りから一本入った路地にあった。かつらはバラックのドアを叩くと声をかける。

「ただいま」

 中から走り寄る足音がしてドアが開くと、康史郎が出迎えた。既にズボンは脱いでランニングシャツと猿股姿になっている。

「おかえり姉さん、お米突いといたよ。……それお土産?」

 興味しんしんの康史郞にかつらは包みを渡した。早速新聞紙を開くと、新品のズック靴が現れる。

「なんだ、食べ物じゃないんだ」

 てっきり喜ぶと思っていたかつらは拍子抜けした。

「康ちゃんのズックは底がすり減ってたし、かかとも潰して履いてたから、ヤミ市でひとつ上の十文半ともんはんを買ってきたのよ」

「まだ大丈夫だって」

 そう言いながらも康史郞は早速ズック靴を履き、板張りの床を歩き回っている。

「ちょうどいいや。明後日から学校にはこれで行くよ」

 かつらはちゃぶ台の上に置かれた目覚まし時計に目をやった。八時十五分を回っている。

「康ちゃん、夕飯は食べたの」

「ああ。昼の残りのサツマイモだけど」

「良かった。先にお手洗いに行ってくるから布団敷いといてね」

 かつらは肩掛けカバンを玄関に置くと柱にかけた懐中電灯を取った。バラックの横に焼け落ちた元の家の流し台や便所を囲った場所があるのだ。電気は引いてないので夜は懐中電灯を使っている。

「姉さん、いつもありがとう」

 康史郎のお礼を言う声を背中に聞きながら、かつらはドアを閉めた。


 バラックに戻ったかつらは、奥の洗濯ひもにかけた目隠し代わりの布の影で、寝間着代わりに着ている継ぎはぎだらけの着物ともんぺに着替えた。

「明日は晴れそうだし、早めに洗濯して布団も干して、銭湯に行きましょ」

 いそいそと自分の布団を敷くかつらを見ながら康史郞が尋ねる。

「姉さん、なんだか嬉しそう」

「ちょっとね」

 かつらは布団を敷くと三つ編みを解いた。肩にパサパサの髪がかかる。

「それよりお金は大丈夫? ズック高かったんだろ」

 心配げな康史郞にかつらは振り返って答えた。

「大丈夫。だけど今月は少し節約しなきゃね」

「じゃ俺、寝る前に便所行ってくる」

 康史郞は新しいズックを玄関に置くと自分の古いズックを履き、懐中電灯を持って外に出て行った。

 ドアが閉まったのを見て、かつらは自分のカバンからがま口を取りだして中をのぞき込んだ。小銭と一緒に小さな布袋が入っている。かつらはその布袋をまさぐり、中から緑色の翡翠ひすい玉を取りだした。手に載せて裸電球に照らすと、中央に通る穴と表面の透かし彫りが浮かび上がる。玉を見ながらかつらはつぶやいた。

(お母さん、康ちゃんもどんどん大きくなってるわ。わたしもがんばらなくちゃ)

 外から足音が近づいてきたので、かつらは康史郞が戻ってくる前に玉を袋にしまう。この玉は康史郞も知らないかつらの秘密だ。がま口をカバンに戻すのと、ドアが開くのは同時だった。

「姉さん、やっぱりお金のこと気にしてる」

 いたずらっぽく指摘する康史郞に、かつらは微笑んだ。

「明日の銭湯代を確認してただけよ。さ、寝ましょ」

 康史郞が布団に入ったのを確認すると、かつらは壁のベニヤ板の突き出し窓を閉め、電球のソケットに付いたスイッチをひねって明かりを消した。

「おやすみなさい」


 布団に入ったものの、かつらは不思議な高揚感に包まれていた。ズックを差し出す京極きょうごくたかしの顔が脳裏から離れない。

(お母さん、こないだ介抱した人が今日わたしを助けてくれたの。あれから元気になったみたいで本当に良かった。またお店に来てくれるかな)

 亡くなった母親に語りかけながら、かつらは眠りに落ちていった。

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