落ち葉

宝飯霞

落ち葉

 夏になると、この村は一面青い田圃や山ばかりで、突き出た物は殆ど見られない平たい大地が見渡せる。ここでは、時々野生の鷲が見られた。そして、夜になると、フクロウが山の中からくぐもった声で鳴くのが聞こえてくる。

 青さで有名なこの村の秋は、黄色や橙色に葉の色が変わって、それがまた美しいのだった。


 のきね、は、村で一番美しい少女だった。彼女は僅か七歳という幼さだったが、その顔立ちは既に完成され、最高級の芸術品のごとしだった。

 七歳にしては、少々低い背丈、彼女の痩せた骨ばった肉体は、日に焼けて、こんがり小麦色だった。鼻は鋭く尖り、唇は赤くふっくらとしていて、顎の形が素晴らしかった。長い漆黒の睫に縁取られた大きな目、髪は男の子のように短い。それは、最近、彼女自身の手によって切られてしまったからである。というのも、のきねは、長い黒髪が首にまとわりつくのが嫌で、ハサミを使い、自分で短く切り落としてしまったのだ。


 のきねは活発な少女だった。庭を裸足で駆け回るし、木の陰で野しょんもする。木によじ登って、二股に別れた木の枝を跨いで、太股にざらつい太い木を挟み、見晴らしの良い眺めを、その大きな瞳に映す。

 少女と一緒に、いつも走り回る少年がいた。彼は、ともる、という名の八歳の背の低い紅顔の美少年だった。彼はのきねよりも年上だったにも関わらず、背が低かった為に、のきねに弟のように可愛がられ、「ともるちゃん」と呼ばれていた。ともるは、のきねに名前を呼ばれると、ふっくらとした赤い頬にえくぼを浮かべて、ニコニコと笑うのだった。

 そして、この愛らしい少年少女が明るい丘の上で遊んでいる間、羨ましそうに林の暗い影から青い白い顔をぼんやり浮かべて、じいっと眺めている少年がいた。彼は笹乃という名前の六歳になる痩せたノッポの少年で、のきねに淡い恋心を抱いていた。しかし、笹乃は恥ずかしがり屋で大人しい少年だった。好きな子に話しかけることも出来ない。臆病で可哀想な少年だった。笹乃は、のきねとともるが二人で出かけるのを見つけると、いつも後ろから、こっそりと着いていき、二人が楽しそうに遊び始めるのを影から見守りながら、自分は一人、木陰で爪をかじったり、膝に出来た瘡蓋をはがしたりして、惨めたらしく過ごしていた。


 銀杏の木が黄色く色づき、楓の木は赤く燃え、落ち葉が黄色い絨毯のように柔らかく敷き詰められた秋の終わり頃。

 村に住む八重という、下膨れ顔の目尻の垂れた心優しい女が、村の赤井という十九歳の若い色黒の男と結婚式を挙げた。二人を村の者全員が祝福した。八重はレースのたっぷり施された肩の見える純白のウェディングドレスを着ていた。白い手袋をはめた手に、白いハンカチを握って、目元から溢れる嬉し涙を拭い、歯並びの悪い歯を見せながら笑っていた。赤井は黒いタキシードを着て、嬉しそうに顔を赤らめていた。二人は、黄色や茶色、赤色の落ち葉の絨毯を踏みしめ、村人たちがばらまく紙吹雪を受けていた。

 この結婚式を見に来たのきねは、新郎新婦の華やかな姿に目を奪われ、お祈りするように両手を組み合わせて恍惚としていた。

「きれい……見て、ともるちゃん。あんなに綺麗な白い色があったんだね。私も大人になったら八重さんみたいに綺麗なドレスを着て、素敵な男の人と結婚するの。素敵な男の人はね……そうねぇ、ともるちゃんが良い。ともるちゃん、私たち、大人になったら結婚しようね」

 のきねは隣で紙吹雪を投げていた、ともるの肩に頭を乗せた。そして、温かい愛情が胸の奥底から湧いてきて、のきねは、いきなりともるの柔らかで丸い頬にキスした。

 ともるはキスされた頬をゴシゴシと手で擦りながら、照れたように笑って、のきねから少し離れる仕草をした。彼は顔に唾液をつけられたのを汚いと思い、キスされたことをあまり良く思っていなかったが、可愛いのきねに慕われるのは嬉しかった。

「うん……僕、のきねちゃんと結婚するよ」と、ともるは言った。

 ともるは、まだ恋というものを知らない。恋愛した相手と結婚するのだということも分からない。ただ、結婚というのは、人として好きな子と式を挙げるだけのものだと思っている。

「ねぇ、抱っこして」と、のきねは、ともるの胸に甘えるように縋った。

 ともるは言われた通り、のきねを抱き上げようと、のきねの腰に手を回し縦に持ち上げてみたが、重くて、地面から数センチ浮くぐらいまで持ち上げ、直ぐに下ろした。

「ねえ! ちゃんと、ずっと抱っこしてて! すぐ下ろしちゃ駄目!」

 のきねに胸を叩かれて叱られ、ともるは全身に力を込めて、もう一度抱き上げてみる。

 これを見ていた笹乃は、激しい嫉妬に襲われて、顔を真っ青にして、拳を震わせて、木の陰で歯ぎしりをしていた。彼は、自分は到底のきねの愛を勝ち得ないのだと悲観して、胸を痛め、両目から涙をはらはらと流していた。笹乃はともるになりたいと思った。ともるになれない自分を呪った。


 子供の成長は瞬く間であり、のきねも、ともるも、笹乃も大人の身体へと成長していった。

 のきねが十七歳、ともるが十八歳、笹乃が十六歳の時。子供の頃の平和な日々はどこへ行ったのか、のきねは病を患い床に伏せていた。可愛らしく、美しい宝のように思われていた のきねであったが、病が彼女の容貌を変えた。皮膚は水気が抜けて干からびた様になって、肌が毛羽立ち、粉が吹いていた。病気焼けして、肌の色がどす黒く、痩せこけ、目の色は疲れの為暗く、下瞼に深い隈ができていた。乾いた唇は紫色で、口角の辺りに白い糸のような、めくれた皮が溜まっている。彼女は只の病人となっていた。

 それから、ともるであるが、彼は成長すると、どんどん美しくなって女たちの憧れの的となった。のきねとは親しくしていたが、この歳になると、もはや可愛い子と恋をしたい盛りである。病気で醜い容貌になったのきねと恋をするというのは、ともるにとって、考えられないことだった。

 すずね、という背の低く、華奢で品があって、淑やかな十五歳の少女がいた。ともるは、この子が好きだった。静かな感じが気に入っていた。ともるは顔こそ美形で派手なようにみえるが、性格は地味で折り紙で飛行機を折って家の二階の窓から飛ばすのが好きな子で、後は、釣りをしたり、自分の畑を少し貰って、そこに野菜を植え、育てるのが好きなのだった。野球やサッカーなどのスポーツは苦手で、するのも観るのも嫌で、そんなのより、小説のが面白いと思っていた。そして、好きになる女の子も煩くて派手なのじゃなくて、静かで、ゆっくりしている様なのが良くて、それにピッタリ合うのが、すずねだった。すずねも面食いで、ともるの美しい顔立ちに惚れていたものだから、二人は初めに一つ、二つ言葉を交わしていく内に、あっという間に距離を縮め、仲良く結ばれていった。

 それは、村ですぐ広まって、のきねも知るところであった。

「子供の頃の恋愛と大人の恋愛は違うもん。子供の頃のは遊びでしょ。あの人たちがどうなっていようが、私には関係ない」

 と言って、のきねは気にしていない風をしていたが、子供といえど、一度は愛したのである。好きだと心の底から思い、そのときの自分の愛情を全て捧げた相手である。

 のきねが病気になると、初めは心配してくれたともるであったが、病気が悪くなっていき、のきねの容貌が変わっていくと、ともるは、何だか面白くないという顔をして、のきねに会う度、つまらない気分を態度で示すようになった。

 のきねはともるの不遜な態度に心を傷つけられ、また、思いやりのない彼の人間性に無性に腹が立った。

「人間は、良くなっていく人を愛すことは出来ても、悪くなっていく人を愛することは難しいのよね」

 と、のきねは母親に語って、見舞いに現れなくなったともるの心を弁解してみたりした。

 それが、とうとう他の女に彼の心が奪われたと思えば、もうあの人は本当に過去の人。

 初めから付き合っていた訳ではなかった。とっても仲の良い兄妹のようだった。けれど、未だ、のきねだけは彼を頼るような気持ちでいたのだ。確かに愛していた。ともるからも愛して欲しかった。しかし、彼は、どんどんのきねから離れていった。

 自分だけ置いてけぼりを食ったようで、のきねは悲しかった。

「のきね、ほうら、綺麗なお花でしょう」

 のきねの母の良子が花瓶に百合と霞草を生けて、のきねの枕元の机に置いた。甘い百合の花の香りが、のきねの鼻孔にふんわりと忍び込んだ。

「良い香りね」

 のきねは弱々しい声で言うと、咳を何度かした。

「これね、いつものあの子が持ってきてくれたのよ」と母は言った。「ホントいつも悪いわ。家に上げてあげたいけど」

「でも、毎日来るたびに、家に上げてたら気まずくて嫌よ。何も喋ることなんて無いもの。それに、あの子……変なのよ」

 母は、ほほっと口を押さえ、目尻を下げて笑った。

「そうね、あの子、のきねの事が、好きみたいね」

「でも、私は違う。見込みがない二人が一緒にいたって、悪いだけだわ。変に優しくしてあげて期待を持たれたりしたら、面倒だし、あの子だって気の毒よ」

「そうかしら、でもまあ、いいじゃない。付き合ってみたら? 彼は優しいわよ」

「そりゃあ、優しいわよ。でもね、みんなそうでしょう。好きな人には特別優しく接するものよ。ふんだ、何よ。何が優しいよ。私を嫌いになったとき、どうなるか見物ね。ああ、いい加減迷惑だ。私には全く気持ちがないのに、いつまでもべたべたと寄って来られたんじゃあね。ああ、気分が重たい」

「あらそう? あなたの許可さえ得られたら家に入れてあげるつもりで、あの子を外に待たせていたんだけど……」

 のきねは、ゆっくり体を起こすと、窓に寄って下を見下ろす。ひょろりとした青年が、家の前に、ぼうと突っ立っていた。のきねは、ごほごほと咳をしながら布団に戻り、恨めしそうに母を睨めつけ、

「何を勝手をしてくれたの。この阿婆。カーテンを閉めて。私、嫌なのよ……。帰って貰って。本当に嫌なの。そういう気持ちで来られても」

「でも、人と会っていた方が楽しいわよ」

「望まない人と会ったところで、楽しいどころか苦痛よ」


 笹乃は子供の頃からのきねを一途に愛し続けていた。成長しても其の気持ちは変わらなかった。あの美しいのきねが病気のためにやつれて、不健康な醜い姿になっても、彼女の病気の顔に昔の面影を見いだし、愛くるしい感情が起こるのであった。

 笹乃はのきねを崇拝していた。女の中でのきねよりも美しい人はいないと思っていた。ともるの裏切りは笹乃にとって、よくものきねを苦しめたと腹立たしいやら、ライバルが減って嬉しいやらで実に奇妙な心地だった。あのともるが持ち続けられなかった愛情を、自分だけ失わず持っていられたと思うと、笹乃は誇らしい気がした。

 この事実を考えるたび、笹乃は、いつも嫌な気になるのだが、のきねは一途にともるを想っていた。それが為に、ともるとすずねの恋の噂のせいで、のきねは心を痛めたはずである。意気消沈しているのきねを慰められるのは自分しか居ない。自分だけは、あなたを見捨てていないという意思表示の為に、笹乃は、のきねに花を贈ることにした。そうやって、のきねを慰められると思ったのだ。しかし、のきねは初めの時、会って、挨拶を一二度交わしてくれただけで、それから会ってくれなくなった。迷惑だと思われているのかもしれない。それでも、笹乃は辛抱強く粘れば、のきねが自分を見てくれるかもしれないと期待して、花を送り続け、遠出などした日には、のきねの為に土産を買って、それをのきねの母に渡し、のきねにやってくれと頼んだこともあった。笹乃はのきねに愛されようと一生懸命だった。


 すずねは、村の若い女、それ以外の年取ったおばんや、婆の恨みを買っていた。というのも、ともるという大層な美少年と結ばれてしまったが為に、女たちから嫉妬の目で見られているのだった。

 何も後ろ黒いところが無ければ誰も文句は言えないのだが、のきねの存在は、すずねにとって都合の悪いものであった。村の女たちは、のきねの存在を持ち出して、もっぱら、すずねの悪口を狂ったように喚き散らしていた。

「のきねさんが可哀想じゃないの。何も、ああして苦しんでいる人の前で見せつけなくたって、ねえ。ともるさんも嫌な性格よ。あの人は優しさってものが足らないわ。だって、ねえ。あの人は、のきねさんの気持ちを知っていたんでしょう。あの人だって、その気でねえ、最初は仲良かったじゃないの。それが、のきねさんが病気になって、あんな可哀想な姿になった途端、あの人ったら、もっと健康的な美人の元へ走って行っちゃうんだから。本当に嫌な奴よ。のきねさんが、どんな気持ちになるか考えなかったのかしら。病気で体が弱っている人を精神的に苦しめて追い打ちを掛けたのよ。非道いわ。もし、私が男だったら、最後まで、のきねさんを見守る。たとえ他の人が好きであっても、それは後にだって回せるわよ。目の前で衰弱していっている友達が、この私を求めているのよ。普通の神経してたら、知らんぷりなんか出来ないわよ。非道いわ。ともるさんって。すずねもすずねよ。あの女。同じ女なら、のきねさんの気持ちが分かるでしょ。わかってて、ともるさんと付き合っているんだとしたら、相当な嫌な奴よ」

 人々は聞こえよがしに、すずねの悪口を彼女の前で囁きあった。女の群に時々男が混ざることもあった。男共は女たちに構われる嬉しさに調子づき、なおかつ、のきねの病気の事も気の毒がっていたので、弱者の味方をする泥酔感に浸りながら、すずねは淫乱の阿呆だと悪口を叩いて笑った。

 すずねの父母は、世間の噂を聞いて、恥ずかしくて顔を上げて外を歩けなかった。

「酷い言いようだ。おい、すずね。おめえ、ともるに遊ばれてるんだよ。あいつぁ、浮気性だ。よせやい。病人の男を取るような真似は。人が何て言ってっか知ってるだろ。毎日毎日ヒソヒソやられて、腹も立たねえか。嫌だと思わねえか。要らんこと色々言われて、非難されてよ。……お前だけじゃねえ。父ちゃんも母ちゃんも悪口言われて、連中の野郎、挨拶しても、ちっとも返さねえやい。なあ、お前、おめえはよ、海で溺れている人に差し出された浮き輪を横から奪ったようなもんよ。そいつは、おめえが取っちゃいけねえもんだわな」

 ケッと言って、すずねの父は世間から娘の悪口を言われる痛みの辛さを発散させるため、すずねに怒りをぶつけた。

「でも、ともるさんは、のきねさんのこと好きじゃないのよ。子供の頃からずっと愛していなかったって。そりゃあ、友達としては好きだったでしょうけど、付き合って結婚したいとまでは、今まで一度も思わなかったって」

 すずねは、体育着にゼッケンを縫いつけながら悲しげに唇を震わせて言った。

「アイツは浮気性だ。お前がアイツを選んだのは不幸だ。一家の恥だよ」父は憎々しげに言った。

「でも、あたしたち、悪いこと何もしてないのに。どうして嫌な思いをしないといけないの。ただ、両思いで、好き合っているだけ。ただ、ともるさんへ片思いしている人の中に死にかけの人がいるってだけで、どうして弱い人に遠慮して、強い人は身を引かないとならないの」

「やめて。すずね。のきねさんは病気で苦しいのに、悪く言ったりして……」と母は、厳しくすずねを睨めつけた。

「言ってないわ……。何も悪いことなんて!」

 すずねは、普通のことをしていても、のきねの存在のせいで悪く言われるので、腹が立って仕方なかった。あまりの悔しさに涙がこみ上げてくる。呼吸が荒くなった。どうしようもなく胸が戦慄いて、痛みのため、すずねは自分の胸を手で押さえた。

「のきねさんだって未練がましいわ……。ともるさんは、あの人のこと何とも思っていないのに、のきねさんは、すずねさんと結ばれるって思いこんでいるんだもの。頭のおかしい人。さっさと諦めちゃえば良いのに。あの人がともるさんを思い続けるから、周りの人が変に気を使って、正義感ぶって、あたしやともるさんを悪く言うのよ。あの人、自分の感情が周りの人にどんな影響を及ぼすかわかってないのよ。だって、いつも苦しそうで、悲しそうな顔をして、家の窓から外を見下ろしているのよ。あの人ったら。それを見た人が余計に、のきねさんに同情して、私たちに腹いせをしにくるの。あたしは腹が立ってしょうがないわ。わざとやっているのかしらって邪推してしまうわ……」

 すずねは村の悪者と見なされている自分の境遇を哀れみ、目から涙がポツポツとこぼれた。その涙の滴は、すずねの膝の上に落ちて、スカートの布に染みこんだ。

「そんなに苦しいなら、自分の幸せを考えて、ともるさんとは別れてしまいなさい」と母は厳しい口調で言った。

 すずねは、きっと憎悪を抱いて母を睨みつけ、

「どうしてよ。あたしが幸せになるのは、ともるさんと付き合っているときだけよ!」

 すずねは勢いよく立ち上がると、家の外に飛び出して行った。


 ある種の意地汚い人間は、周りから疎まれている人間に制裁を加えることで、周りから褒められて、ちやほやされ、そして、グループの仲間入りをしたがる。

 彼らは弱いために、群の中に入れて貰わねば生きていけない。そして、自分がいかに必要不可欠な人間であるかというのを周りに知らしめ、頼りにされて、存在欲求を満たそうとする。

 とある男は、まさにそういった人間だった。彼は地味な男だった。しかし、すずねが村人たちから嫌われだすと、彼も、すずねを人一倍嫌い始め、親の敵のように憎み、すずねを汚物のようにみるようになった。彼は、すずねを同じ人間とは思わなかった。自分の足下を歩く下当な生物だと思い、彼女に悪口を吐いても、危害を加えても、まったく罪悪感が起こらない。むしろ、そうすることで一つの達成感を覚えた。それは、社会貢献をしたというような気持ちの良い達成感だった。

 この男は、みんなのために人肌脱ぎたいと思った。そして、なにより褒められたかった。

 男は友人を集めて、すずねをとっちめる計画を立てた。

「あのガキは馬鹿野郎だ。性根が腐ってやがる。だから俺たちが責任を持って去勢してやるんだ」

 男と、その友人たちは外を彷徨き、目を光らせ、すずねを監視していた。

 夕方、一人で竹林を歩くすずねを彼らは見つけた。嫌われ者のすずねは、男たちの嗜虐心をそそった。そして、気味の悪い彼らの正義感と名誉を授かる欲望を擽ったのだ。

「襲ってやろう。レイプしてやろうぜ……。あいつに身の程を思い知らせてやろう」

 人間というのは誰しも内に浅ましい欲望を秘めているものだ。その欲望が罪であると知っているために自制して、欲望を追って行動しないようにしているのである。だが、彼らは、この罪深い欲望を上手い具合に満たせはしないかと怯えた羊のように注意深い目つきで、いつだって機会を伺っている。自分が悪者にならずに罪深い欲求を発散し得ないか……。そうだ、これは悪意では無い、正義だ!


 夕暮れの薄暗い空を頭上に見上げ、心細い足音を立てていた、すずねは、自分の背後を着ける複数の足音を聞いた。振り返ってみると、数人の男たちが一塊になって歩いてきていた。男たちの顔つきは異様な感じだった。凶暴で残忍さが滲み出た、ぞっとするような気味悪さ。どの男も薄笑いを浮かべ、目をギラギラさせていた。すずねは言いしれない恐怖を覚えた。

 男たちは、どんどん早足になって、すずねとの距離を縮めてきた。どきんどきん、と心臓がはねる。すずねは恐ろしくて震え、辺りを見渡し、ここが竹林で人目に付かない所であると確認すると、一層恐怖に陥り、息が乱れた。

 悪口を言われること嫌さに人目を避けて林を歩いたのが裏目に出た……。

 すずねは、スカートから伸びる白い足を動かして、必死で駆け出した。だが、同時に男たちも獲物を逃がすまいと全力で駆け出したのだ。

 何者かに背中へ体当たりされ、すずねは湿った地べたに転がされた。すぐに足を掴まれ、両腕を取られた。自分の意志とは別の方へ四肢を動かされ、すずねはパニックに陥り、胸だけ異常な早さで上下していた。乱暴に服に手をかけられる。ブラウスのボタンが弾け飛ぶ。白い二つの膨らみが冷たい外気に晒される。すずねは悲鳴を上げた。やめて! と怒鳴った。男たちの顔には見覚えがあった。どれも、すずねよりも年上だ。いい大人が幼い少女に向かって何たる暴虐だろうか。怒りと憎しみを込めて、すずねは男たちを睨みつけた。だが、寄ってたかって手足を押さえつけられている、すずねは大した抵抗も出来ず、遂に下着を毟り取られた。羞恥に顔を真っ赤にしながら、すずねは身を捩り、涙を流して抵抗を続けた。


 散々すずねを弄んだ男共は、性欲を満たしたのは良いものの、村人たちの憎い敵である、すずねを見ている内に、病気で可哀想な、のきねのために更に懲らしめて憂さを晴らしたくなった。制裁というものに終わりはない。相手が死ぬまでやらねば満足しないのだ。

 しかし、男共は殺さずにいたぶりたかった。優しさや同情が彼らを自制したわけではない。彼等の純粋な正義の心が彼等に叫んだのだ。

 お前達のやっていることは悪だ、と。

 彼等は自分の浅ましさを見たのだ。彼等は殺人を犯す正当な理由がないことに気づいたのだ。だが、一度しでかした罪は取り消せない。彼等は、すずねを悪にしなければ自分達が悪になるので、それが嫌さに、すずねが悪だと思いこみ、それ以外の答えは意地でも認めようとしなかった。

 処女を破られ、傷ついたすずねを、彼等は紳士らしくない態度で扱った。まるで、癇癪を起こし、物に当たる子供のように、すずねに当たった。

 すずねは、自分よりも遙かに人生を経験し、知的であるはずの大人達が、若い自分よりも無知で、劣った人間であると知り、胸を強い落雷で打たれたような衝撃を覚えた。

 やがて、男達は立ち去り、すずねは暫く放心していたが、やっと立ち上がって帰る気になった。汚れた衣服を身につけ、暗い道をとぼとぼと歩く。暗い藍色の空に、ぽっかりと白い満月が出ていた。どんよりとした黒い雲が煌々と眩い光を放つ月に、静かににじり寄っていく。

 襲われる前の、すずねは、ともるの家に行くつもりで歩いていたのだが、もはや、そういった気分では無くなった。こんな惨めな格好で好きな男に会えるわけがなかった。

 この格好で自分の家に戻るのだと思うと、それも嫌であったが、いつまでも林の中に座り込むわけにもいかない。誰かに見られでもしたらと思うと、ぞっとする。また悪い噂が広まる。暗い内に闇に姿を紛らして家に帰ってしまうのよ。そうして、親にばれないうちにお風呂に入って、汚れを全部洗い流すの。この辱めは誰にも知られてはいけない。知られたら、あたしは恥ずかしく生きていけない。無かったことにしなくちゃいけないのよ!

 もし、こんな惨めな姿を親に見つかってしまったら、と考えると、すずねは胸が押しつぶされ、重苦しい心地になって、寒さに凍えたように震えた。まるで、自分勝手に生きた罰が当たったみたいに見えるではないか。悪いことは何もしていないのに、罰が当たった。これでは、あたしが悪いことをしたみたいに見られる。特に家族から、そんな目で見られることは耐え難かった。あたしが歩いている道は正しいの。どんな罰を受けようが、罰を与えている方が悪人よ!


 すずねは、勇気を出して家に帰った。玄関に上がると、すぐに風呂場に向かうつもりであったが、家を飛び出した娘を心配していた母は、娘が帰ってきたなり、音を聞きつけ、廊下にひょいと顔を出した。母は驚いて叫んだ。

「すずね! あんた何て格好してるの!」

 母の叫びを聞いて、父も廊下に顔を出した。すずねの姿を見て、父もまた、ぎょっとして、一瞬、深いショックを受けたように、動揺し、彼の両目に涙が滲んで、頬と耳がぱっと赤らんだ。しかし、すぐに父は鬼のように恐ろしい怒りの形相にすり替わって、すずねの前に突き進んで、ぱん、とすずねの頭を平手で殴った。

「馬鹿野郎! お前は報いを受けたんだ! この阿婆擦れ! 恥曝し!」

 続け様に、父は、すずねの頭を何度も叩いた。すずねは痛みと恐ろしさに悲鳴を上げた。

「だから言ったでしょう! 自分ばっかり幸せになることを考えて、あなたは、のきねさんのことを何も考えなかったから、そんな目に遭うの! 村で暮らしている以上は自分のことだけじゃなくて、みんなの事も考えて行動しないと、こうなるのよ!」

 母は目を見開き、真っ青になって、唇を引き吊らせながら、すずねを叱った。彼女は何かに怯えているようだった。そして、娘の身勝手さに腹を立てているのだった。

「謝りなさいよ! 反省しなさい!」

 すずねは母を睨みつけた。何を言っているの、なぜ怒るの、親は自分の味方では無いと思うと、すずねは悲しくなった。目の前の親が他人に見えてくる。

「だって……おかしいじゃない! それじゃあ、のきねさんだけ幸せになって、あたしは幸せになっちゃいけないって事なの? みんなして、のきねさんの幸せを願って、あたしや、ともるさんの幸せを願う人は誰もいない。あたしが不幸になれば、みんな嬉しいなんて、おかしいじゃない!」「お前は、のきねさんが可哀想だと思わないのか! あの人は病気なんだぞ! 後いくらも生きられないってのに……」

「ああ、そうだ……世の中には、幸せになることを望まれる人と、その逆がいる。あたしはハズレくじを引いたんだ。もういい」

 すずねは、親と言い争うことに疲れ、自分の部屋に逃げようとした。しかし、父が、すずねの襟首を掴み、引き倒し、行かせなかった。

「兎に角、謝れ! 親の顔に泥を塗ったんだ。謝れ! 謝ってからじゃねえと部屋に入れねえ! 反省しねえなら出てけ!」

 父は猛然と怒鳴り立てた。

 すずねは胸が張り裂けそうだった。すずねの親は実の娘を愛するよりも、他人を愛することを選んだのだ。

 あまりの悔しさ憎らしさに、すずねは額に波のような皺を寄せ、泣きそうに顔を歪めた。それでも、恨みのため、涙で潤んだ目は釣り上がっていた。

 いっそ、出て行ってやろうか。でも、今の格好のまま外に出たくはなかった。せめて、体を清め、服を清潔な物に着替えてから出て行き、それから、唯一自分を愛してくれている愛しいともるに会いに行こうと思った。

「すみません」

 この場を一時的に取り持つ為、すずねは泣く泣く頭を下げた。

「ともるとは、もう別れろ」

 父は素っ気なく言った。

「……はい」

 すずねは本音を隠して嘘を吐く。

「明日、村の皆さんに、一軒一軒謝って回るんだぞ。それがケジメだからな」

「……はい。そうします」


 風呂を浴びたすずねは、むしゃくしゃして、何もかも憎たらしかった。手段のためとはいえ、言いたくもないことを言ってしまったし、それをするように仕向けた親の態度も気にくわなかった。お湯に使って冷静になると、ふと不安に襲われた。

 これから、あたしはどうなるのだろう。

 あたしは、これからも、ずっと生きていくのかしら。

 でも、今日、あたしの身に起こった事で、赤ちゃんが出来たかもしれないわ。あんな奴らの赤ちゃんを宿すなんて嫌だ。お腹が膨れ始めたらと想像するだけで気分が悪くなる。それに、お父さんが言ったこと。あたしを悪く思っている人は沢山居るのに、謝ったくらいで許してくれるわけが無いじゃない。謝ったところで受け取るのは祝福ではなく、屈辱よ。

 ああ、あたしは、もう生きていく気がしない。

 今すぐ死んでしまいたい。


 すずねの母は、さすがに娘を心配した。娘を汚されたのだ。見事に他人の手によって、大事な、たった一つの宝を壊されたのだ。母は娘を傷つけた村の男を激しく憎んだが、娘にも落ち度があったのだと思えば、憎む資格など、己に無いと思い、腹の奥のぐらぐら煮えたぎる怒りを、ぐっと押し殺し、罪人のように首を垂れ、下唇を強く噛むしかなかった。

 風呂から上がる、すずねを廊下で待っていた母は、すずねが出てくると、そっと、華奢なすずねの腕を掴み

「明日病院行こうね。お医者さんに診せて、お薬もらうのよ。子供が出来ないようにね」と言った。

 すずねは、うん、と頷いた。

 起こってしまったことは、しょうがないと母は切ない心地になりながら思った。拒んだところで事態は良くならないのだから、黙って受け入れるしかないのだ。不幸を黙って受け入れ、不幸と共存していこう。それが、普通の人間の生き様というものだ。


 すずねは、優しく声をかけてくれた母に有り難みを感じていながらも、父と一緒になって自分を責め立てた時の、あの母の顔と言葉が頭を過ぎって、どうしても、素直に母を愛せないし、許せないでいた。

 親が子供の人生を否定している時点で、親子の縁は絶ちきられているのである。

 あたしの名誉、あたしの心、あたしの幸福を守れるのは、あたしだけよ。

 すずねは自分の部屋に入り、暗い外の闇を映す窓に真っ直ぐ近寄って、冷たいガラス窓に手を当て、顔を近づけ、外に人気がないかと覗き込んだ。誰かが自分を見張っているのではないか、そんな気がしたのだ。あの男達が家まで来て、あたしを笑いに来はしないか……。すずねは、どきどきして落ち着かなかった。

 しかし、外には誰も居ないようで、ただ、虫が静かに鳴いているだけだった。すずねは窓から離れ、電気をつけ、カーテンを閉めると、机の引き出しから紙とペンを取って、遺書をしたため始めた。


『お父さん、お母さん。

 今まで育ててくださって有り難うございました。それが、今日の私は育てた甲斐のない疫病神と成り果ててしまいましたね。本当にごめんなさい。ですが、私は悪い人間になろうとしたのではありません。悪いことをしたいが為に生きてきたのではありません。

 私は幸せになりたかったのです。私は自分を幸せにする為、一生懸命だったのです。それが、どうしてこうなってしまったのでしょうか。

 私は、ともるさんを愛しています。

 のきねさんの事は嫌いではありません。憎んでもおりません。

 ともるさんも私を愛してくれています。ともるさんは、のきねさんの事を愛しておりません。でも、彼は、のきねさんを嫌っているわけではないと思います。

 この簡単な事実を村の人たちは認めたがらないで、私とともるさんを苦しめるのです。

 他人の幸せを壊すことに一生懸命になるよりも、自分自身を幸せにするために一生懸命になった方が、ずっと良いのに、どうして皆さんは、他人を苦しめずにはいられないのでしょうか。他人の人生を自分で好きなように動かせると思っているのです。人の人生を壊すことを正当だと言い張る為に、私たちを悪人に仕立て上げて、自分たちは何にも責められないようにするのです。

 私は何も悪いことはしていません。

 ただ、恋をしただけで、その何ら罪に見えないことで、一気に未来が闇に覆われてしまいました。

 もう、私たちが幸せになれない世の中で生きていたくありません。多くの人たちのせいで疲れました。死ぬことを考えると、いくらか心が紛れます。死んで、今の苦しみから解放されるのなら、それは素晴らしいことであると思えます。

 お父さん、お母さん。それじゃあね。あたし行くね。今まで有り難う。

 村の皆さん。私は、あなたたちの顔を何度だって思い出します。さようなら。

 のきねさん、お先に。のきねさんは、死ぬのが怖いですか?

 皆様、お世話になりました。さよなら。


 すずねより』


 すずねは、遺書を書いた紙を大切に折って、茶封筒に入れ、のりで封をした。そして、その手紙を机の上に、きちんと真っ直ぐに置いた。

 ああ、あたし、今何歳だっけ……。こんな若さで死ぬんだ……。

 途端に、身軽になったような、妙に気が抜けたようになって、すずねは椅子に座ったまま、ぼうとした。

 暫くすると、空が白みだし、すずねは、そっと家を抜け出した。

 ともるの家に、たどり着いたすずねは、足音を忍ばせて家の裏に回り、ともるの部屋の窓を見上げた。カーテンが閉ざされていて、中の様子が見えない。まだ寝ているのだろう。

 すずねは、地面から小さい石ころを一つ拾って、手のひらに握り、ともるの部屋の窓めがけて投げた。いくつか投げている内に、シャッとカーテンが開いて、寝間着姿のともるが現れた。外にいるのが、すずねと見ると、ともるは鍵を開けて、音を出さないように窓をゆっくり開けた。

 すずねは手招きし、外に出てくるよう合図した。ともるは頷き、顔を引っ込め、窓を閉める。すずねは玄関の方へ回った。やがて、手早く寝間着から着替えたともるが玄関から出てきた。

 目の前にともるの姿を見ると、燃えるような恋の感情が、すずねの冷たく凍えた心を温めた。

「ともるさん!」

 すずねは、ともるの手を取って、その温かい手を自分の頬に押し当て、涙を流した。

「どうしたの?」

「あたし、もう生きていけないの……とても恐ろしい事が起こったのよ……」

 すずねは青い顔をして、震えた声で、囁くように言った。

「顔色が悪いよ。大丈夫?」と、ともるは心配して聞いた。

「そうよ、悪くなったのよ……ともるさん。あたし、ここには居られない。人が来るわ……。ずっと奥の方へ行こうよ。人の居ないところに……」

 すずねの黒い目は遠くを見つめていた。彼女はともるの手を引いて、林の方へ歩いていく。色白で華奢なすずねが、ひどく儚げに見える。ともるは、すずねの後ろ姿を見て、少々不気味に思った。というのも、自分の手を握る、すずねの握力が尋常じゃなかいせいもあった。いったい自分は、どこに連れて行かれるのだろう……。

「すずね、どうしたんだよ……すずね?」

「……あたしのこと好き?」

「え」

 突然の質問に不意打ちを食らっていると、ともるの次の言葉を待たず、すずねは矢継ぎ早に言った。

「あたしは、ともるさんの事好きよ」

「俺も好きだよ」好きと声に出して言うのが照れくさくて、ともるは顔を微かに赤らめた。

「ねえ、それってずっと? ずっと好きだって誓える?」

「うん」

「死んでも?」

「勿論、死んでも好きだよ」

「……本当?」

 早朝の空気は冷たくて、清々しかった。木々の枝に留まった小鳥が鳴く声が聞こえる。

「本当だよ」


 すずねに一緒に死んでくれと頼まれたとき、ともるは驚愕した。死にたいだなんて今まで一度も考えたことがない。それだけに、すずねの頼みを受け入れるのは容易でなかった。なんとか思いとどまらせようと、すずねを説得してみた、ともるであったが、その成り行きで、すずねの死にたい理由を聞き出してみると、その内容に閉口し、ずっしりと肩に重荷が乗っかったような気がした。

 気の毒だ、とともるは思った。この女は死ぬより幸福になる道が無いのだ。長く生きれば生きるほど、苦しむことになるだろう……。どうしようも無くやるせなくて、可哀想で、世間に腹が立って、ともるは、すずねに心から同情した。現実とは、なんと過酷なのだろう。人間とは、なんと浅ましい生き物なのだろう。

「わかった。俺も死ぬよ。こんな汚い世界で生き続けるのは人生の汚点だ! あっさり死のう! 怖がるんじゃないよ。大丈夫だよ。俺も一緒に逝くから」


 人は勢いで死ねるのである。しかし、死の間際に思うのは人それぞれである。

 ともるは、ふと、正気に戻って死にたくないとも考えたが、すぐに恋の感情が、ともるの正気を掻き消してしまう。

 ともるは、一時、のきねの事を思い出した。子供の頃の美しい思い出。自分を好いて気に掛けてくれる美しい、のきねの微笑。このまま死ぬのは勿体ないような気がした。

「ともるさん、この木にしよう。この枝に服を引っかけて、輪っかを作って、輪っかに首を入れて、ぶら下がるの」

 林にたどり着いて早々、すずねは一本の大木を指さし、言った。そして、自分の服を脱ぎ、木の枝に服を引っかけて輪っかを作ってみせた。

「本当に死ぬの?」ともるは死を目の前にして、すっかり怖じ気付いていた。

「死なないでどうするの? 死ぬしかないのに」

 そう言って、すずねは、しくしくと泣き出した。ともるも、死なないといけないという境遇に追い立てられ、悲しくて、つんと鼻が染みた。自分の命の儚さを思うと、泣けてしょうがないのだった。


 どうしてか、今日の風は湿った土の匂いを運んでくる。

 空は曇り空で、灰色の淀んだ綿雲が空を覆っていた。


 今朝は湿度が少々高いと笹のは思い、家の窓を全て開けていき、部屋の空気の入れ替えをした。

「大変だ、大変だ!」

 と騒ぐ声が聞こえてきたので、笹のは外に出て、騒いでいる新聞配達の小僧を捕まえて「どうしたんだ」と問いかけた。

「大変だよう! ともるとすずねが心中したんだよう! 林っとこで首くくって二人で死んでるとこ見つけたんだ。首がえらく伸びて、ろくろ首みたいだった」

 顔の良く知った二人が自殺したと聞いて、笹乃は肝の冷える心地がした。

 この事件は瞬く間に村中に伝わり、村人達は永遠と、なんやかんやと論議を繰り広げた。主に交わされていた言葉は、やはり、心中した若者の愚かさについてだった。若いのに、恋愛ごときで命を捨てるなんて馬鹿馬鹿しいとか、人の幸せを奪って自分たちだけ幸せになろうとした報いだ、因果応報だというような事が言われた。

 我が子を失った上に、子を馬鹿だと罵られた両君の両親は悔し涙をこぼして、苦しい胸の痛みに息を詰まらせていた。

 特に、すずねの両親は、昨日の娘の様子を思い出し、娘が死んだのは昨日の事件が原因だったとしか思われなかった。そして、自分たちは、傷ついて帰ってきた娘に何をしただろうか……。さらに叩きのめす真似をしたではないか。それで、娘が、どれほど傷ついたことだろう。すずねの父と母は後悔のために胸が張り裂ける思いがした。いくら後悔しても娘が戻ってくるわけではない。すずねの父と母は、自分たちが娘にしでかした罪の重さと、娘を失った悲しみに耐えきれず、人が変わったようになり、村を徘徊しては他人の家の門戸を叩いて、血走った目で呪詛を吐き、やるせない怒りをぶつけて回った。元はといえば村人達が娘の心を踏みにじって苦しめたのだ。両親の頭には、娘のために村人に復讐してやるんだという気持ちがあった。自分たちが死ぬまで、復讐を続けるつもりである。

 笹乃は、すずねの両親が狂人のように村を徘徊し、叫び回るのを見て、子供の死が親をああまで変えるのかと胸が熱くなった。

 ともるの両親は静かであった。静かに涙を落としているのみであった。


 のきねにも今日の事件は伝わっていた。というのも、のきねの家にも、すずねの両親が全てを伝えに遣ってきたのだ。その凄まじい声の大きさに二階の部屋に篭もってベッドで横向けになっていた、のきねも何もかも包み隠さず知ることとなり、好きな人が死んだ悲しみに打ち沈んだ。

 のきねの、すずねに対しての思いは、最初は憎たらしいような嫉妬の気持ちを抱いていた。だが、こうして、その女も死んでしまい、その上、死の前のすずねに恐ろしい不幸が降りかかっていたと知ってしまえば、哀れむ同情の気持ちが自然と湧いてくる。

 同じ死ぬでも、病死ではなく、不幸の果てに死ぬのは本当に可哀想だ。しかし、死ぬとき、彼女は愛する恋人と一緒だった。己の幸福を抱いて死んでいった彼女は幸せだ。それと比べて、私はどう? 私は己の幸福を抱いて死んでいけるのかしら? きっと出来ない。私は一人っきりで不幸を抱いて寂しく死んでいくのだわ。

 のきねは、今回の事件で、一層自分の身が可哀想に思えて塞ぎ込んでしまった。

 すずねとともるの遺体は、まもなく火葬され、葬儀が行われた。村人達は全員葬儀に顔を出したが、のきねだけは体の状態が思わしくないので、ベッドから起きられず、家族の者が出かけて行くのを只見送った。もし、体の状態が良くても、ともるとすずねの葬儀には出たくないと、彼女は密かに思った。二人の遺骨を見れば、きっと二人が一緒に死んだという現実を認めざるを得なくなり、どうしようもなく悔しい気持ちになるだろうから。

 ここの所、のきねは熱が高く、時々、血の巡りが悪くなって手足が雪のように冷たくなった。そのせいか、こむらがえりを屡々繰り返した。そのたびに息を止め、力を入れ、石のように体を固くしなくてはならなかった。このこむらがえりが心臓にきたら私は死ぬのね、とのきねは幾度か考えた。

 彼女の死の日が近づくと、のきねは、もはや食べ物も喉に通らないくらいに衰弱していた。何かを食べようとすると、吐き気が込み上げてきて、胸から喉に掛けての筋肉が痙攣した。数日、下痢が続き、今は物を食べないので下痢が収まった。


 のきねが黄泉の国に旅立つのも、もう直ぐだという噂が流れた。笹乃はのきねの母の口からも似たようなことを聞いて、居ても立っても入られない心地がした。なんとしても自分をのきねさんに会わせてくれと、笹乃は必死で、のきねの母に頼み込んだ。のきねの母もやつれていく娘を間近で見て、少しでも元気になってくれればと、笹乃の可能性にかける気になった。

「あなた、のきねを元気にしてやってね」

「はい」と笹乃は答えた。

 笹乃は、のきねに会えることが嬉しかった。のきねの最後の明かりを自分が灯してやるのだと意気込んでいた。


 いつも花を持ってくる例の男が来ていると、母親から聞かされたのきねは、あからさまに不機嫌になって、顔をしかめた。

「部屋に入れてあげても良い?」

 何を言うの、とのきねは腹が立った。

「嫌」

 そんな色目を持った変な奴を部屋に入れたら、気持ちの悪い目で見られたり、変な事を言われたりするだろうと思った。それが嫌だった。人が来て、気を使わないといけないことも嫌だった。

「良い人よ。悪い人じゃないわ。お母さんも傍にいるから」

「嫌よ……!」

 しかし、母は、のきねの言葉を無視して身勝手にも神聖な空間に男を招き入れた。


 笹乃は、のきねの病状が深刻なのを見ただけで直ぐに分かった。というのも、のきねは虚ろな目をしていて、瞬きをする度、薄目から白目が覗いた。頬は痩け、肌はどす黒い。その上、妙な臭いが部屋に充満していた。のきねの姿が、あまりに痛々しく、笹乃はショックを受けた。

「僕のこと分かりますか? ……分からないかな?」笹乃は苦笑いした。

 のきねは、ふてくされ、何も言わなかった。笹乃は、のきねの返事がないのは病気で弱っていて声が出ないためだと思った。

「僕は……あなたを好いている一人の男です。あなたが死んだら、僕も後を追います。いいでしょうか」

 のきねは聞こえていないふりをした。

「手を握ってもいいでしょうか」

 笹乃は勝手にのきねの手を取って、両手で包むように握った。

 のきねは、ぞっとした。嫌でたまらず、それでも彼から逃れる力が出なくて、悔しくて、目から涙をぽたぽたと落とした。それを笹乃は、感動したのだと勘違いして嬉しそうに眺めていた。

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落ち葉 宝飯霞 @hoikasumi

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