キョウチクトウの人魚に会いに行くこと
キョウチクトウの人魚の花弁がなくなった。
五枚の花弁は猛毒で、おれはいつも一枚をお守りに入れて持ち歩いていた。一枚は子持ちの人魚に食われた。一枚は内陸の学者にやった。一枚は釣り餌に混ぜて人魚に食わせた。一枚は死にかけの人魚の口へ押し込んだ。最後の一枚は鳥人を殺すために食事に混ぜた。
ガラスの器は空っぽで、お守りの中にも何もない。
かつて学のある友は花弁を捨てられないうちはキョウチクトウの人魚と出会った釣り場へ行かないほうがいいと釘を差した。おれは反論できなくてそれを守っている。
旅立つ前にキョウチクトウの人魚に会いに行こうと腹をくくった。
釣り竿と桶を手に取る。朝餉を食べて懐かしい道を歩く。キョウチクトウの人魚に会う前は子供の頃からしょっちゅう通った道である。ここしばらく通らなかったとはいえ迷うこともない。
開けた場所で海を見る。
もうすぐ船に乗る。船は各地に作った港に寄りながら北へ行く。外の国へ渡るには沖合を行く必要があった。
陸も見えないほどの沖合はおれにとっては未知の場所だ。一緒に船に乗るというやつらも詳しくはないという。人魚の専門家として乗ることになっているものの自信はあまりない。それでも行ってみたかった。
餌を付けた釣り針を遠くへ放る。
キョウチクトウの人魚に出会ったのが随分昔に思えた。あれに会ってからはやたらと人魚絡みの面倒事に巻き込まれている。
釣りをしていれば顔を出す鉱石人魚の幼獣のこともそうだ。この頃はすっかり姿を見ない。自力で餌を捕れるようになったのだろう、喜ばしいことであった。
波に揺られる浮きを見る。
人魚は獰猛で狡猾でひとを食う。
どうしておれはそいつらを嫌いになれないのか。いつか会った女は四方の海から人魚なぞいなくなればいいと叫んだ。おれも人魚のせいで爺さん婆さんを亡くしているのに同意する気にはなれない。
魚を釣る。桶にしまう。海鳥がやかましい。
内陸のやつらは人魚の美しさに価値を見出している。昔は人魚からとれる鱗やヒレや髪の毛に、今は生きた人魚の姿見た目だけに。おれはそちらには同調できなかった。
人魚は強く賢く生きるのに全力で自由気ままである。
たぶんおれは、そう有りたかったのだ。
ひとの強さなぞ知れている。おれは賢くもないし、自分で選んだと言いながらも流されて過ごす現状に安心していた。
都合の良いときばかり人魚釣りを頼って、近所の爺さんの声が耳に新しい。都合好く使われたと思ってはいないが、祭りや年始の挨拶に参加できない身では言い返すこともできなかった。
波が砕ける音がする。控えめな海風が少し寒い。
しがらみがなくなって身の軽さを知った。
ずっとキョウチクトウの人魚に惹かれていた。言い訳もできない。キョウチクトウの人魚はおれに釣られたくせにおれの戯れ言を聞いておれを見逃した。餌が目の前にあるのに食わなかったのである。どうしてかは今もわからない。
すぐ横の海面から白い腕が伸びる。
勢いをつけて上陸してきたのは鉱石人魚よも随分大きな人魚だった。耳ビレと腰ビレから伸びる濃い桃色の花を揺らし、緑の細い葉の形をしたヒレについた水滴を身震いして落としている。キョウチクトウの人魚である。
おれは顔にかかった水滴を拭った。釣り餌を引き上げて手元に置く。懐に小刀を忍ばせているとはいえ、猛毒であるキョウチクトウの人魚の花弁も持っていない状態ですぐ近くに人魚がいるのは恐ろしい。恐れたことに安心する。
「キョウチクトウの人魚、礼を言う」
お前のくれた花で仕事ができた。ずっと引っかかっていたことを口に出す。キョウチクトウの人魚は耳ビレを揺らす。聞いてはいるらしいし、どうもすぐにおれを食う訳でもなさそうだ。
「おれは北の海を見に行く」
ぴくりと耳ビレが動いた。
「船に乗って遠くへ行く。見てみたいものがある」
キョウチクトウの人魚の爪がゆっくりとこちらに伸びて、喉元に添えられた。肉に食い込まないところをみると、まだ殺す気はないらしい。
言おうとしていることを頭の中で反芻する。告げてはならないと思っている。口に出して楽になりたいとも思う。言うなという意見と楽になりたいという意思を踏み潰して、絞るように声を出す。
「帰ってきたらお前に食われてもよい、そう思ってる」
掛け値なしの本音だった。
どうしてそこに行き着くのかは分からないが、この人魚になら食われてもよいと思っていた。食われてもよいと思える己が恐ろしかった。そんな気にさせるキョウチクトウの人魚はもっと恐ろしい。恐ろしいのに惹かれてしまう。人魚の目は人を惑わせる。おれはもうずっと正気ではないのだろう。
キョウチクトウの人魚はじいっとおれを見る。おれはキョウチクトウの人魚に目を合わせる。強い瞳を歪ませて、キョウチクトウの人魚はおれの喉仏をなぞる。ぞわりとした。
空が高い。波の音と鳥の鳴き声がよく聞こえる。喉仏に触れる指は冷たい。人魚の目は強い。
永遠のようで短い時間だった。
ぺしりとキョウチクトウの人魚の尾ビレが岩場を叩く。喉に添えられた手と反対の手がおれの頬に触れる。一度瞼を閉じたキョウチクトウの人魚はおれから手を離した。やってられないとばかりに肩をすくめる。そうしてどぽんと海に飛び込んでしまった。
肩の力が抜ける。長いため息が出た。
水面からぱしゃりと音がした。目をやれば濃い桃色の花が一輪飛んでくる。慌てて受け止めている間に人魚は波間に消えた。あとに残るのは猛毒の花を抱えたおれだけである。
いやに懐かしくまた嬉しい気持ちになる。
ここにまた帰ってこられる、そんな予感がした。
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