しがらみを解かれること

 わしらは人魚釣りに甘えすぎてるんだよ、近所の爺さんがそんなことを言うものだから驚いた。

 蟹カゴに蟹がかかりすぎたからとお裾分けに来た近所の爺さんと玄関先で世間話をしていた。学のある友人が今度結婚するのだという話からおれに飛び火したのだ。嫁は迎えんのか、聞かれたので否定する。おれのうちは親父の代で人魚釣りを廃業にしたがまだ人魚の相手をしている。死ぬかもしれんのに嫁なぞ取れんと答えた矢先のことだった。

 祭りにも初詣にも呼ばんと働かしよるじゃろ、学校でたばかりからの子供を親から引き剥がして、ひとりで人魚の相手をさせて。しんみりと呟く近所の爺さんが小さく見えて嫌だった。

「しょうがない、そういうもんだろ」

 死んだおれの爺さんと内陸で暮らす親父の口癖を真似る。おれは望まれて海辺に留まったしひとり暮らしを楽しんでいる。実業家から大きな船の人魚釣りとして雇いたいと誘われて遠方の海へ憧れが募るものの、そのうち諦めもつくだろう。そう思っていた。

 大きな仕事があるんじゃってな、近所の爺さんの言葉にこちらの事情など筒抜けだと思い知る。実業家はどこまで根を回しているのだろう。誘われただけだと言い訳してしまった。

「行きたいなら行きなよ」

 近所の爺さんはそう言って帰っていった。

 くらりと目眩がするようだった。蟹をしまいに家に入って、自然と目がガラスの器を探す。いまは空の器には先日まで猛毒であるキョウチクトウの人魚の花弁が入っていた。花弁はもう一枚しか残っておらず、おれはそれを首から下げたお守りに入れている。

 蟹を置いて衝動的に釣り竿と手桶を持つ。灯台の下まで早足で行き釣りを始めた。頭がぐるぐると渦を巻いていてとにかく落ち着きたかった。

 ずっとここから海を見て生きていくのだと思っていた。人魚釣りがいなくなっては困ると親父が引き止められるのを見て、代わりにひとりで残ると決めたのはおれだ。近頃は人魚の動きか活発だし人間は人魚の扱いを忘れてきている。憧れは募れど生きていくには憧れだけではやっていけない。だからおれ自身が諦めるのを待っていた。

 近所の爺さんは話は長いが適当なことを言わない。おそらくおれのしらないところで集落のやつらと話し合っているのだろう。

 しがらみをあっけなく解かれてしまった。

 望まれて留まって好んで住んでいる。それなのに行ってもいいという周りの許しとおれ自身の衝動で日常が崩れそうだった。

 魚を釣る。

 ニシンの王の人魚を思い出す。ニシンとはどんな魚だろう。ヤマメを釣ったときのことを思い出す。川釣りも楽しかった。おれはどうやらおれが思っている以上に釣りが好きなのだ。海の向こうではなにが釣れるのか夢想している。

 ばしゃんと大きな音を立てて鉱石人魚が上陸する。釣ったばかりの魚を投げ与えれば捕まえて食べ始めた。この頃は自分で狩りができるようになったのか釣りをしていても来ないときがある。順調に育っているようだった。

 出会った人魚のことも思い出している。殺した人魚、逃がした人魚、おれのやったことが正解がどうかは分からない。後悔のないようにはした。この頃気づいたのだがおれはどうやら人魚のことも好いているらしい。人魚はひとを喰うのにおかしな話である。

 人魚はひとを食って、人魚釣りは人魚を食う。

 おれにとっての当たり前は内陸のやつらに通じない。内陸のやつらの当たり前では人魚は美しいものであって食べるなど言語道断らしい。ひょっとしたら海の向こうではまた別の当たり前があるのかもしれない。

 人魚との向き合い方を知りたい。

 そこまで考えが流れ着いて自嘲した。つまりはキョウチクトウの人魚を殺さずキョウチクトウの人魚に殺されない道を求めているのだ。キョウチクトウの人魚は出会い頭におれを殺さなかった。おれは多分キョウチクトウの人魚を殺したくない。

 釣りはやめて学のある友人のところに顔を出す。

「顔つきがすっきりしたね」

 出会い頭に言われて笑う。船に乗ろうと思う、伝えれば友人は特に驚きもしない。自身の結婚式の日取りを早めようと頷いただけであった。

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