第107話

 犬。犬だ。

 その子は全身茶色の体毛に、額の部分だけ前髪のごとく少し暗い赤色をしていた。ここから見ると、目は赤いように思えた。

 ――確か、マクス様とアッシュの言い争っている声がしていたはずだけど……

 茶色い犬はマクス様の前にお行儀よく座っていて、耳と尻尾はペタンとしてちょっと落ち込んでいるようにも見える。しょんぼりしている様子の犬は、マクス様を上目遣いに見ているようだった。

 ドアの開く音とクララの声にこちらを見たひとりと一匹だったが、私たちを認識すると一拍置いて成人男性ふたりになる。ソファーに座っている見慣れたゆったりした服装のマクス様と、ローブで全身を隠した格好の姿のアッシュ。彼はマクス様の前に胡坐をかくような格好で直に床に座っていた。

 アッシュが座っているのは、さっき犬がお座りしていた場所だった。


「今更戻っても、みんなわんちゃんの姿見ちゃってるから無駄ですよぅ」


 ビシッと手の甲でアッシュの後ろ頭を叩いたクララに「痛いだろう。」と抗議する彼は、どういう形になっているのか、犬の時は裸……というか服を着ていなかったのに、人間の姿となったらちゃんといつも通りの服を着ていた。

 ――着てるわね。 

 良かった。裸の男性が目の前に現れたら、この場から逃げ出してしまったかもしれない。


「あー、もういい。とりあえず、私たちの寝室にはお前入ってくるな。一歩も入るな。寝入りばなが危険なのはわかっているが、寝台にはちゃんと守護魔法も掛かっている。クララからも、寝る前に守護を掛けてもらっているから大丈夫だ」

「だが、念には念を入れて――」

「だから、若い男が私の妻と同じ寝室にいるっていうのが問題なんだ。クララからも言われてないか? 駄目なんだよ。そういうのは。しかも私も彼女専属のメイドもいない状況で、だなんていうのはあり得ないぞ」

「メイドたちも一緒に寝ているから大丈夫だ。」

「まったく意味を理解していないな?」


 マクス様から叱責されても説明されても、アッシュは納得していないようでじとっとした目をしている。自分の仕事を確実にやっているだけだ、というのが彼の主張ではあるのだが……


「お前が自分の仕事を真面目にやろうとしているのは理解したが、それでも駄目だ。近くにいなければいけないというのなら、部屋の外、廊下にいろ。これは命令だ。ビーがひとりきりの時寝室に入ることは許さん。メイドの許可がない時も駄目だ。彼女が悲鳴でも上げて、助けを求めているようだった場合のみ、入室を許可する」

「……わかった。命令ならば、守る。」

「わかったら、今すぐに部屋から出て行け。あー、申し訳ないが、クララとアミカもちょっと外してくれるか」

「はいっ」


 全部わかっていますとも、という顔をしてアッシュの腕を左右から掴んだクララとアミカは、彼を引き摺るようにして部屋を出て行った。ぱたんと音がして扉が閉まる。多分、彼女たちは気を遣うはずで、扉の真ん前で待っているということはないだろう。そこで待機しようとするアッシュも、少し離れた場所に連れて行ってくれているに違いない。

 ほぅ、と一息ついたマクス様は、小さく笑みを浮かべる。


「ビー、アッシュについて聞きたいことは山のようにあるとは思うが、全部クララが説明できるはずだ。申し訳ないが、あとで聞いてくれ。今は……ところで――まだ私のことは嫌いではないかな?」

「そんな言い方をなさらなくても……」

「すまない、少しからかった」


 おいで、と両手を広げたマクス様の微笑みに引き寄せられるように、彼の隣に座る。すぐに膝の上に抱き上げられ、ぎゅっと抱きしめられる。私の肩に額を押し付けた彼は「会いたかった」と弱々しく呟く。


「……私、ビーから本気で嫌われたら、生きていかれない気がする……」

「そんなこと」

「あなたが私に笑いかけてくれるのを幸せだとは思っていたが、それがいつまでもあるものではなく、今この瞬間にしかない貴重なものだったのだと強く実感した」


 憔悴した様子のマクス様の背中に腕を回すと、彼は顔を上げる。そのまま顔を寄せてくるので、目を伏せる。柔らかく唇が合わさる。何度か軽くついばむように触れた後で、ぐいっと頭を引き寄せられた。唇の隙間から舌が挿し込まれ、私の舌を味わうようにゆっくりと中を動く。


「マクス、さ・ま……っ」

「ん?」

「ちょっと、苦し……」

「すまない。足りない。もう少し」


 彼はそういうと、また深く唇を重ねてきて――私が空気が足りずにクラクラしてしまうまで、放してくれなかった。


「まだ、私のことが好き?」

「好き、です」

「ああ、ビー、ビー。私は」


 そっとソファーに寝かされる。え……今? と動揺する私の顔中にキスを落としてきたマクス様に、耳元で何度も名前を呼ばれる。それだけでもう、顔が熱い。心臓が別の生物のように激しく鳴っている。息が上がって、なにも考えられなくなりそうだ。


「愛してる。一刻も早く、私の元に戻せるようにするから」

「はい……、んっ」


 また唇が重なる。


「誰にも触れさせたくないというのが本音だ。だが、この術のせいで勝手に身体が動いてしまうものに、無理に抵抗しなくてもいい」


 抵抗しないわけがない、と言えば「強く抵抗しようとすると、あなたの精神や身体に影響が出る。その場では、頭が認識しているように動いてしまっても構わない」そう答えた彼は、そんなことは心にも思っていないとでもいうような苦しそうな表情を浮かべる。


「私は、あなたにほんの少しの辛い思いでもしてほしくはないんだ」

「でも、なにかがあってしまってからでは取り返しがつきません。私は、マクス様以外に触れられるのも嫌ですし、身体を許すつもりもありません。全力で抵抗させていただきますわ」

「その言葉だけでもとても嬉しいよ。でも、そんなことをしてはまた苦しくなってしまうだろう?」


 エミリオ様を愛していると錯覚している頭と、マクス様を愛しているのだという本当の私の思考がぶつかり合えば、また頭痛と吐き気に襲われるのは目に見えている。しかし、そうであったとしても、その程度なんだと言うのか。その思考をそのまま受け入れることが屈辱でならない。少々の苦しみから避けるために、自分に嘘などつきたくない。

 どうにも、マクス様にはそこが伝わっていないようだ。


「今は、いつまた効果が出始めて私を拒絶するようになってしまうかわからない上に、ユニコーンの力を借りるのならこの身体を清らかな乙女でなくすわけにもいかないから、なにも出来ないが」


 今すぐにでも抱いてしまいたいのだけど、と冗談を言ったかのように笑ったマクス様の、その目の奥は笑ってはいなかった。


「だからな、クララに頼んで『乙女の誓い』をかけてもらうように依頼した。そうすれば、万一の間違いも起こらない。安心して学院にも通える」


 乙女の誓いという魔法を私は聞いたことがなかった。どのような魔法なのか尋ねると、うん、と言いながらマクス様は私のネグリジェの胸元を少しだけ下げて、彼の印が刻まれている部分に強く吸い付く。ほのかにその印が光って、熱を帯びる。ちゅっ、と音を立てて唇が離れて行けば、紋の中央に赤い跡が残っていた。

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