第80話
自分たちの主人を乱暴に追い出したクララは「お風呂にしましょう」とまるで私が汚されたかのような反応をするではないか。
「必要ないわ」
「我慢しなくても良いのですよ、奥様」
「我慢なんてしていないから、着替えだけでいいわ」
「では、こちらに」
アミカがネグリジェを持って来てくれる。いつものように着替えを手伝ってもらっていると、んん? とクララが唸った。アミカを手招きすると、彼女は「失礼します」と言いながらシュミーズを引き下げる。
「な、なに?」
普段から裸も見られているとはいえ、いきなりこんなことをされたら当然驚く。しかも、ぐぐっと顔を近付けられては、思わず逃げそうになる。しかし。彼女たちはすぐに顔を離すと、揃って大きな溜息を吐いた。
「……まさかここまでとは思ってませんでした」
「本当、独占欲の強い男ってこっわいですねぇ」
「なんの話をしているの?」
「ここですよぉ」
クララが指差したのは、私の胸の中央部。マクス様が唇で触れていたあたり。よく見なければわからないのだけど、うっすらとなにががあるように見える。指で撫でてもとくに感じないから、ミミズばれの様に盛り上がっているわけではないらしい。
「これ、旦那様の紋章ですよね。見覚えがあります。周囲に古代文字も刻まれていますけど、内容までは私じゃ読めないです」
そうは言われても、自分ではそんな位置は良く見えない。鏡の前で確認すれば、確かに彼女たちの指差した場所に丸く小さななにかがあった。
「これはマクス様の紋章なの?」
「はい」
「マクス様の……」
指先で触れるとそこから甘い痺れが広がるようだ。ほぅ……と口から息が漏れる。ふ、と鏡を見れば、私の頬は上気していて、そこに浮かんでいた思いがけない表情に自分でもドキリとした。
「本当に術がかかってるんですね」
「最初からそうだと言っているじゃない。変なことなんてされていないわ」
寝る支度を整えてくれると、クララとアミカは静かに部屋から出ていった。今では自分でも部屋の明かりの調節くらいはできるようになっている。枕元のテーブルにある小さな杖を手に、暗くしようとした時――
『どうしてそうなるんだ?!』
隣の部屋から、マクス様の大声が聞こえてきた。相手の声は聞こえないが、今の時間帯彼と一緒にいるのはコレウスだろう。
――少し焦っているような、困っているような声だけれど、どうしたのかしら。
好奇心に負けて、ショールを肩に掛けながら部屋に通じるドアの近くまで行き耳を澄ます。
『必要ないものは撤去しただけです』
『必要だ。返せ』
『もう処分してしまいました』
『嘘を言うな』
『ないものはないんです。ご自分でできないのであれば、自分が説明いたします』
『あ、こら、待て!』
――なんの揉め事かしら……?
もう少しドアに近付こうとする。しかし、目の前でそのドアが開いて、黒い服とぶつかりそうになった。見上げれば、無表情なコレウスが私を見下ろしてきている。忍び足になっていたせいでちょっと屈んでいた姿勢を直して、誤魔化すように小さく咳払いをする。
「おや奥様、こちらにいらっしゃいましたか」
「少し声が大きかったものだから、なにか、問題が起きたのかと思って。なにがあったのかしら」
誤魔化すよりも正直に言うのが吉。そう踏んで笑顔で尋ねれば、コレウスの後ろに額を押さえているマクス様が見えた。どうしたのかしら、と思っていると彼は前に出てくる。
「コレウス、お前は下がれ。ビーはもう休む格好だ。お前が見ていいものではないよ。この先は自分で説明する」
「それは、失礼しました。それでは」
にこりと貼り付けた笑みを見せたコレウスは、マクス様の部屋に戻ってあちら側からドアを閉めた。苦々しい顔で腕を組んだマクス様の眉間には深いしわが刻まれている。
「どうなさったのですか?」
「……非常に、言い難いのだが……」
「はい」
「その、今晩だけでいい。あなたの部屋で、休ませてもらっても……」
「はい?」
あ、いや、なんでもない、などと言いながら自室に戻ろうとするマクス様の袖を引く。立ち止まった彼は「よく考えればソファもある。私も冷静ではなかったな。すまない、おやすみ」早口に言って私の手を払おうとした。
「なにがあったのですか?」
そっと私の手に触れたまま、マクス様は振り返らない。だが、なにもないのならあんな声を荒げることはないだろうし、こちらの部屋で休みたいとも言い出さないはずだ。
「お部屋に、問題が?」
「……ああ。大問題が発生していた」
開かれたドアからお部屋を覗かせてもらうと、そこには一人掛けのソファと、本棚、机くらいしかなかった。絨毯の上にいくつか家具があったのであろう凹みがある。元からこんなに殺風景ではなかったということだろう。
「お部屋を変わられるのですか?」
「変わらない」
「では、どうしてこんなに家具が少ないのでしょう」
「コレウスが勝手に処分したようだな」
「老朽化していたのでしょうか」
「いや?」
――なら、どうして。
今日はコレウスも少し様子がおかしかったようにも思える。マクス様はソファで休むと言っていたけれど、あの大きさの座面では横になることもできまい。座ったままの睡眠など、疲れが取れないどころか余計に疲労が溜まりそうだ。
マクス様の体調を気遣うのもコレウスの仕事の一環だろう。時折主人に対するものとも思えない発言をすることはあるが、コレウスが忠実な執事であることは間違いない。そんな彼が、わざわざ主人の調子を崩すようなことをするだろうか。
深く考えるまでもなく、嫌がらせなどではないだろう。なにかしらの意味があるはずだ。しかも、マクス様にとって不利益になるようなものではない、彼なりの考えがあるのだろう。
「コレウスはなんと言っていたのですか?」
「……夫婦なら、同じ部屋で夜を過ごせ、と……」
「あら」
それは真っ当な提案だ。しかし、そんなコレウスからの提案を、マクス様は呑み込み難かったようだ。
「だから、こちらにはベッドは必要ないということで取り払われてしまったのですね」
「迷惑なのはわかっている。だから今日は」
「マクス様、あのソファではちゃんと休むことはできません。そんなことを聞いてしまっては、お部屋に戻っていただくわけにはいきません。先ほど、ご自分でもあちらの部屋で休みたいとおっしゃったではないですか」
一人掛けのソファを指差してあそこでは寝られないと指摘すれば、彼はしばらく悩んだ後で、また重々しい溜息を吐いた。
「あぁ……ならば、申し訳ないが今夜はあなたの部屋のソファを貸してもらえるか? 明日にはどうにかするから――」
「すっかり私の私室のようになっていますけど、本来であれば隣は夫婦の寝室です。マクス様がお休みになるのにどのような問題があるのでしょう。どうぞ、ベッドをお使いください。私も、コレウスの指摘は当然だと思います。今夜から、あちらで一緒に眠ればいいと思います」
そう言い切れば、彼は驚いたような顔になる。
私としても、もう少し、夫婦らしくなりたいと常々思っていた。これは、いい機会なのではないだろうか。一緒に眠るというのは最も『夫婦らしい』行為なのでは?
思い返せば、今日は帰ってきてからマクスの様子がおかしかった。悩みを抱えている夫を支えるのは、当然妻の役目だ。となると、これは私の出番ではないか。
これだわ! と一人盛り上がってしまった私を見て、マクス様はますます困惑した様子になる。
「いや、しかし、若い娘が男と一緒に寝るというのは――」
「年齢は関係ありません。私は、あなたの妻なのですよ」
「それは、そうなんだが」
「それから、今日のマクス様は思い悩んでいらっしゃるようでした。不安な夜、誰かが側にいてくれると安心するというのは私にも経験があることです」
入学初日、翌日からの授業に対する緊張と不安で眠れなくなった私の隣に彼がいてくれたこと。温かな体温に安心して眠りにつけたこと。今度は、私が返す番だと思った。
「今日は、私がマクス様の隣にいます。人のぬくもりというのは、安心するものです」
どうでしょう、と自分のやるべきことを見出した私は、興奮のあまり彼の方へ踏み込む。しかし、当のマクス様は、半歩下がって困惑したような表情になる。
「――マクス様、私を抱いてください」
真剣な私の言葉に、彼は盛大に顔を引き攣らせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます