【短編】窓に映る少年

佐久間 譲司

窓際に写る少年

 寝入りばな、ガクンと落下する感覚を受け、田谷宏昭たたに ひろあきは、ハッと目が覚めた。


 床へつき、眠りに入ろうとした矢先の出来事だった。おそらくジャーキングを起こしたのだろう。


 ダブルベッドの上で、深呼吸を行い、首だけを隣に向ける。


 豆電球の薄暗い中、妻の杏奈あんなが微かな寝息を立てつつ、眠りについている姿が目に入った。起きた様子はない。


 体を起こし、床を覗き込む。フローリングに敷かれた布団の上で、ぬいぐるみを抱いた娘の穂香ほのかが眠っていた。穂香は捻ったようなおかしな体勢になっていた。この子はいつも、寝相が悪いのだ。


 宏昭は妻を起こさないよう注意しながら、ベッドから下り、穂香の姿勢をそっと正す。穂香は起きることなく、静かに寝入ったままだった。


 宏昭はベッドへ戻り、仰向けになる。


 眠気が綺麗さっぱり消え去っていた。体は程よく疲れているのだが、頭が変に冴えている感じだ。先ほどのジャーキングも、そのせいで起きた現象だろう。


 寝室の染み一つない綺麗な天井を見つめ、不眠の原因を考える。それは、はっきりとわかっていた。


 この家のせいだ。つい今日越してきたばかりの新居である。今、この時が初めて迎える夜だった。一国一城の主になったとは言え、慣れない部屋だ。寝具も新調している。寝付けないのも無理がないのかもしれない。


 宏昭は、再び杏奈の様子を伺った。杏奈は熟睡している。ここが新居だと感じさせないほど、すでに馴染んでいるようだ。


 大したものだと思う。当たり前だが、杏奈も自分と同じように、昨日まで別の場所で寝ていたのだ。子供である穂香はともかく、こうもすぐに適応できるとは、随分と神経が太いような気がする。杏奈はそんな図太い性格だったのだろうかと、疑問が浮かぶ。それとも、自分が神経質であるだけなのか。


 宏昭は寝返りをうち、目を閉じた。眠ろうとするものの、上手くいかない。やがて、取り留めのない思考が、頭を駆け巡り始める。


 新居の購入を邁進したのは、妻の方だ。娘も生まれ、頃合としては悪くない。だが、気乗りしなかった。ローンも組む必要がある。これから、二十五年、毎月返済していかなければならないのだ。今自分は、三十六だから、完済は六十を超える。ちょうど退職金も充てることになるだろう。ローン会社も、上手く考えているものだと感心する。


 だが、本当に気乗りしなかったのには、別の理由があった。それは言葉では言い表せないものだ。無理に表すならば『生理的に嫌』がベストか。


  ここの土地は新興の住宅地だ。利便性が良く、人気も高い。運良く抽選により、購入できた時は、杏奈は非常に喜んだ。しかし、宏昭の心は浮かなかった。ここの土地を始めに見た時、言い知れぬ違和感を覚えたのだ。


 何か憑いているのだろうか? 曰くつきのものが。


 自分はそんな非現実な絵空事は信じていないが、この感覚を表現すると、その類になってしまう。


 宏昭は、目を閉じたまま、その感覚の根源を探っていたが、掴むことができない。頭の中の思考が、渦を巻いたように迷走し、やがていつしか眠りについていた。




 「ねえ、ここに写っているものって、もしかして幽霊?」


 翌朝、宏昭はリビングで妻にそんな質問を受けた。


 今日は引越しのため、会社から有給を貰っている。休みではあるが、家中の至る所に積み上がったダンボールを、これから開封していかなければならないのだ。うんざりする。


 「幽霊?」


 宏昭は、ソファに座っている杏奈に聞き返す。部屋の隅で、玩具で遊んでいる穂香の様子をチラリと伺う。


 杏奈は、手にスマートフォン持っていた。


 「昨日の写真」


 杏奈は、立ち上がり、スマートフォンの画面をこちらに向けた。


 画面に写っていたのは、この家を背景に、家族三人が揃って立っている写真だ。夕日に染まっている。


 昨日、荷物を全て運び入れた後、引越し業者の一人に頼んで、記念にスマートフォンで撮影したものだ。


 「どこに幽霊が?」


 杏奈は、画像の一箇所を指し示す。


 「ここ」


 杏奈の指は、二階の窓を指していた。どうやら、階段を上がりきった所にある窓のようだ。


 それを見た宏昭の眉根が寄る。


 二階の窓に、人の上半身が写っていた。始めは業者の人かと思ったが、すぐに違うとわかる。若すぎるのだ。年齢で言えば、高校生くらいか。気の弱そうな男の子。


 「なんだろうね。間違いなく、人だ」


 窓際に写った少年は、カメラを意識しているかのように、真っ直ぐこちらを向いていた。そのため、判別が容易く、見間違いということもない。


 少年が着ている服は白い半袖で、学校の制服のように見えた。今は十一月なので、服装から言っても、おかしかった。


 「……近所の子かな?」


 宏昭が訊くと、杏奈は首を捻った。


 「ここの周辺に、高校生くらいの男の子がいるなんて訊いてないけど。ほとんどが小さい子供よ。それに、これくらいの年齢の子が家に出入りすれば、さすがに誰か気付くわよ」


 「それじゃあ、これは何だよ」


 「だから幽霊」


 妻の答えに、宏昭は鼻白んだ。馬鹿馬鹿しい。高度なAIが生まれた今の時代に、幽霊だと? ふざけるな。


 「近所じゃないにしても、どこかの家の子供が入り込んだんだよ。今度見かけたら注意しないと」


 「あー、やっぱり信じてない」


 「当たり前だろ。そんなものいるわけがない。それより、早く片付けようぜ。遅くなると、日が暮れる」


 宏昭は、杏奈の側から離れようとした。すると、杏奈は妙なことを口走る。


 「だけど、この子、どこかで見たことがある気がするのよね。思い出せないけど」


 宏昭は、再度、写真の中の少年を覗き見た。


 言われてみれば、宏昭も何だかそんな気がする。以前どこかで見たことがあるような、あるいは、誰かに似ているような。芸能人に似ている人物と出会ったものの、その芸能人の名前と顔が思い浮かばない感覚に似ていた。


 宏昭が首を捻っていると、玩具で遊んでいた穂香が、駆け寄ってきた。


 「パパー遊んで」


 宏昭は穂香を抱き上げ、微笑みかける。


 「これからお片づけだ。それが終わってから遊ぼうな」


 穂香は、不満そうに膨れっ面をした。それが可愛く、笑ってしまう。つられて杏奈も笑った。




 昼を過ぎた頃には、一階のダンボールをほとんど片付け終えた。残りは二階の分だ。このペースなら、日が落ちる前に終わらせることができるだろう。


 宏昭は、荷物を両手に抱えたまま、階段を登る。


 上がりきった所で、ふと今朝の話を思い出した。


 そう言えば、あの写真の少年が立っていたのは、この場所だった。


 宏昭は、窓際の手前の床に目を落とす。そこには、埃一つ落ちておらず、人が立っていたという痕跡は見当たらなかった。もっとも、杏奈が言う通り、幽霊なら、そもそも足跡すら発生しないだろうが。


 宏昭は、窓から外を覗く。陽光に照らされた住宅街が見て取れる。真下が玄関になっており、そこから伸びるアプローチ部分で、昨日家族三人が揃って写真を撮ったのだ。


 あの写真の少年は、ここでこうして自分達を見つめていた。それはなぜだ? 侵入を知られたくないから、こちらの様子を伺っていたのか。そもそも、どうやって入ったのだろう。鍵はほとんど閉まっていたはずなのに。


 宏昭は、もう一度、足元の床を調べてみた。無理に侵入したのなら、土足のはずだ。だが、そんな痕跡はない。つまり、写真の少年は、靴を脱いで上がってきたのだ。わざわざ。


 宏昭は、今回の件で、どこか妙な違和感を覚え始めた。何かおかしい気がする。


 階段の方から足音がした。顔を向けると、杏奈が階段を登ってきていた。怪訝な表情だ。


 「何してるの。早くしないと日が暮れると言ったのは、あなたよ」


 「わかっているよ」


 何か心に引っ掛かっているが、ともかく、今は片づけが優先だ。


 宏昭は、その場を離れた。




 ガクンと、地面へ落ちるような衝撃を受け、宏昭は跳ね起きた。喘ぐように息をして、顔を起こす。


 額に汗が滲んでいた。嫌な夢だった。高校の時の忌まわしい記憶。


 宏昭は壁に掛けられた時計を確認する。時刻は午前二時。丑三つ時だ。


 隣では杏奈が例によって、スヤスヤと寝入っている。飛び起きたので、起こしてしまったのかと不安になったが、その程度では、杏奈の安眠を妨げる切欠にはならなかったらしい。


 額の汗をパジャマの袖で拭い、宏昭は枕に後頭部をうずめた。豆電球の中、先ほど見た夢のことを考える。


 高校二年の時の出来事だ。忘れようと意識し続けたお陰で、記憶の奥底に埋もれ、今はおぼろげだ。だが、こうしてたまに夢を見る。夢を見ると、思い出す。


 理科室の開き戸の窓から、あいつが落ちていく姿が鮮明に脳裏に蘇っていた。そして、何かを押した感触も右手に纏わりついている。


 宏昭は、仰向けに寝たまま、右手を上げた。豆電球の逆光で、ドス黒く変色しているように見える。


 そして、ハッとする。突然、フラッシュバックのように、脳裏に映像が浮かび上がった。思わず声を出しそうになる。


 あの窓際の少年だ。あの顔には見覚えがあった。あの写真の少年は、間違いなく、あいつだ。落ちていった彼である。


 今こうして夢に出たことで、思い起こされたのだ。もしかしたら、逆にあの写真が記憶を刺激し、夢に出たのかもしれない。


 だが、問題はそこではなかった。問題は、なぜ記憶にしか存在しないはずの彼が、写真に写っていたのかである。しかも、この新居でだ。


 ――だから幽霊。


 杏奈の声が、脳内で再生される。背筋にぞくりとしたものが走った。


 馬鹿かと思う。そんな非科学的なものが、存在しているわけがない。自分は信じない。しかし、それならばこの現象は、どうやって説明すればいいのだろうか。


 宏昭は寝返りをうった。床の方から、穂香の寝息が聞こえる。


 始めは何処かの子供が侵入したのだと思った。それしか考えられないからだ。だが、ここにきて、その線は消えた。死んだ人間が写っていたのだ。姿


 そして、そうなると、他の可能性も否定されてしまう。すなわち、心霊的な現象を認めなければならないということだ。


 だがそれはありえない。他に何か現実的な説明がつくはずだ。この世界は、非科学的なものが付け入る隙はないのだから。


 しかし、いくら考えても、その理由は思い浮かばなかった。


 やがて、眠れないまま、朝を迎えた。


 宏昭は、寝不足のぼんやりとした頭で、ベッドから下りた。仕事があるので、寝直しはできない。


 顔を洗い、リビングへ入る。


 杏奈は先に起きており、朝食の準備を行っていた。ベーコンエッグの香ばしい匂いが、部屋中に漂っている。


 杏奈に朝の挨拶をしてから、テーブルに着く。やがて朝食が運ばれてきたが、いかんぜん、寝不足なため、食欲が出ない。半分ほど食べた後、残してしまった。


 杏奈が心配してくれたものの、大丈夫とだけ答える。穂香は宏昭の体調とは裏腹に、食欲旺盛に朝食を食べていた。


 出勤し、いつものように仕事をするが、気分が優れない。一日中、あの少年の顔が頭にちらついていた。


 夕方になり、帰宅すると、妙なことが起きた。


 新居の真新しい玄関扉を開け、中に入ると同時に、待ち構えていた穂香が、駆け寄ってきた。


 「おかえりー」


 愛する娘が迎え入れてくれる。幸せを感じる瞬間。


 宏昭は、ニコニコと笑っている穂香を抱き上げた。


 「ただいま」


 宏昭は穂香に微笑み返す。心の中に、暖かいものが染み渡るのを実感した。


 そこでふと、穂香の手元に目が止まった。


 穂香は手に、長方形の化粧ポーチのような物を持っていた。それは、布製の黒い筆箱だった。


 冷水を浴びせられたかのように、宏昭の全身に鳥肌が立つ。この筆箱には見覚えがあった。これは、高校時代、が使っていた筆箱じゃないか。


 宏昭は、穂香を乱暴に床へ下ろし、その筆箱をひったくった。そして、穂香の目の前に筆箱を突き出し、食いかかるようにして訊く。


 「この筆箱はどうしたんだ!?」


 穂香は始め、戸惑った表情を浮かべたが、やがて火が点いたように泣き出した。


 けたたましく、耳をつんざく泣き声だ。それを聞いた杏奈が、リビングから飛び出してきた。


 「どうしたの!?」


 宏昭は杏奈を無視し、なおも穂香を問い質す。


 「答えなさい!」


 よほどひどい形相をしていたのだろう。杏奈は、恐怖に駆られた表情をこちらに向けた。そして、その後に、穂香の腕を引いて、宏昭から穂香を引き離す。


 「何があったの? あなたおかしいわよ」


 杏奈の胸元に顔をうずめ、泣きじゃくる穂香を見て、宏昭は自分が異常な行動を取ったことに気が付いた。同時に冷静さも取り戻す。


 黒い筆箱を持ったまま、宏昭はその場で顔を覆った。


 その後、重苦しい夕食を終え、入浴した後、就寝する。その間、穂香に今度はやんわりと、筆箱の出所を聞いてみるものの、答えてくれなかった。それと同時に、杏奈が宏昭の精神状態を危惧する質問を行うが、次は宏昭が答えに窮する番だった。


 一応は、仕事でストレスが溜まっていたせいだと説明したが、杏奈は納得した顔を見せなかった。




 それからというものの、身の回りで妙な出来事が起こり始めた。そのどれもがありえないことだった。


 高校時代の物品の出現である。


 それらは、リビングの引き出しの中から出てきたり、トイレの床に落ちていたり、台所の引き出しの中に入っていたりした。出現場所やタイミングは様々だが、タイムワープしてきたかのように、高校時代の教材や運動靴などが唐突に現れていた。


 妻に聞いても、知らないの一点張り。むしろ、杏奈も気味が悪がっていた。


 もはやこれは、疑いようがない非現実的な現象だった。幽霊や悪魔の仕業と思うしかない。それらを信じていない宏昭も、方向性を転換せざるを得なかった。


 そこで、宏昭は行動に移した。スマートフォンを使っての、家中の写真撮影である。以前、杏奈のカメラに写ったのだから、今回も写るはず。そう踏んでのことだった。


 家宅捜査の警察のように、家中をくまなく撮影して回る。そうして写し出された写真を検分した。


 しかし、そこには以前のように少年の姿は写っていなかった。少年どころか、心霊めいたものが何一つ見当たらない。ごく普通の写真である。


 次に、宏昭は、少年が写っている杏奈のスマートフォン内の写真を、霊媒師に調べてもらうことにした。この写真が事の発端であり、全ての元凶のような気がしたからだ。


 だが、霊媒師の答えは、心霊の類ではないとのことだった。一緒に持って行った家の中に現れた高校時代の物品も見せたが、答えは同じで、それらも『何も感じない』のだそうだ。


 ここまで来ては引き下がるわけには行かず、宏昭は、今度は霊媒師を家に招き、調べてもらうことにした。


 だが、この家や土地には、何ら心霊めいたものは存在しておらず、ごくごく普通の場所だとの結論だった。


 念のため、お払いを依頼する。霊媒師は無意味だと言ったが、宏昭は押し切って、決行させた。


 一人では信憑性がないため、宏昭は他にも数人、霊媒師に当たり、同じ相談を行った。もうすでに、かなりの金額を使っていた。


 それにも関わらず、その皆が、示し合わせたように、同じ答えを放った。ここには心霊の類はない、と。


 結果を知り、宏昭は頭を抱えた。散々出費をしたにも関わらず、何ら解決の糸口が掴めなかった。霊媒師達が嘘をついているのか? とも思った。元々詐欺師めいた胡散臭い連中である。しかし、それならば、そこはむしろ、『いる』と断言し、色々と大金を毟り取ろうとするはずである。連中からすれば、こちらはいいカモに映ったはずだ。


 せっかく、信じていない非科学的なものを受け入れたのに。次はこの仕打ちである。


 だが、本当に心霊の類でないなら、答えは一つだ。そして、自分でも対処できる。


 宏昭は一計を案じた。




 宏昭は仕事から帰ると、着替えを済ませ、夕食をとる。普段通りの食卓だった。穂香などはスパゲティのソースで口周りをべとべとに汚している。


 夕食を終え、杏奈が風呂へ入っている時だった。寝室へ向かい、部屋の隅の棚を探る。そこから小さなカメラを取り出した。


 これは、小型のピンホールカメラである。小さく発見されにくいが、被写体は鮮明に捉えることが可能なシロモノだ。


 ピンホールカメラのデータを、USBケーブルを使い、新室内に置かれたパソコンへ移す。


 そして、再生する。


 そばらく流れる昼間の新室内の映像を観ていた宏昭は、やがてニヤリと笑った。


 とうとう尻尾を掴んだぞ。女狐め。


 しばらくして、風呂から上がった杏奈が寝室へ入ってきた。


 目の前に立っていた宏昭に驚いた杏奈が、怪訝な声を出す。


 「どうしたのあなた?」


 宏昭は怒鳴った。


 「この糞女め!」


 言うなり、宏昭は、杏奈の顔を殴りつけた。杏奈は弾かれたように、床へ倒れこんだ。殴られた箇所を押さえながら、驚愕の表情をこちらに向ける。


 「な、なぜ! どうし」


 杏奈の言葉を待たず、宏昭は安奈の髪の毛を掴み、パソコンの前まで引きずっていく。杏奈は、苦痛が入り混じった悲鳴を上げながら、もがいていた。


 パソコンの前まで辿り着くと、髪を掴んだまま、杏奈の顔をモニターへ向けさせる。


 モニターの映像には、クローゼットの中から、古ぼけた体操服を持った杏奈が出てくる姿が映し出されていた。


 「お前の仕業だったんだな」


 宏昭は、さらに強く杏奈の髪を引っ張った。


 杏奈は呻きながら、答える。


 「違うわ。これはクローゼットの中に落ちていたものを拾っただけ」


 「嘘をつくな!」


 宏昭は怒鳴った。杏奈は殺人鬼でも見るような恐怖に満ちた目で、宏昭を見た。


 「答えろ。なぜこんなことをする」


 杏奈をこちらに向けさせ、問い質す。


 杏奈は涙を流していた。心底怯えているようだ。これは演技か? まだ騙し通せると思っているのか。


 「だから知らないわ」


 杏奈は悲鳴混じりに答える。この状況でシラをきるつもりらしい。


 宏昭は、杏奈の首を絞めた。グッと杏奈の喉が鳴る。そのまま手の力を増していく。やがて、杏奈の顔が紅潮し始めた。


 寝室の入り口で、叫び声が聞こえた。振り向くと、穂香が必死の形相で、声を張り上げていた。


 「パパ止めてー!」


 宏昭は一瞬、ハッと我に返り、手の力を緩めた。杏奈はその隙に脇へと逃れ、倒れ込む。首を押さえ、溺れたようにぜいぜいと息をしている。


 「どうしてこんな……。本当にクローゼットの中にあっただけなの」


 杏奈は嗚咽交じりに呻く。


 「ママが言っているのは本当だよ。私もクローゼットの中から筆箱見つけたもん」


 宏昭は、穂香の顔をギョッとしたように見つめた。


 「あなた、信じて。私達、あなたを愛しているじゃない」


 杏奈の言葉に、宏昭はハッとした。


 安奈の言葉そのものにではない。大きな疑問が生まれたのだ。


 なぜ今まで気が付かなかったのだろうか。


 愛している、と妻は言った。だが、俺は一体いつ、安奈と結婚した? 杏奈といつ知り合った? 穂香は一体いつ生まれたんだ? 一体仕事はどうやって就いた?


 この新居にやってくるまでの記憶が、なかった。全ての記憶が、ここにやってきてから生まれていた。


 宏昭は立ち上がり、クローゼットへと夢遊病者のように歩み寄っていく。


 そして開く。


 そこには、クローゼットの中ではなかった。アルコールの臭いが鼻をつく、高校の理科室だ。


 宏昭は理科室の中へと入った。背後を振り返ると、寝室は消え去っており、理科室の壁が見えていた。


 その壁に鏡が掛かっている。そこには夏用の制服を着た、気の弱そうな少年が映っている。通学鞄を肩にかけていた。


 宏昭は、全てを理解した。理解したというより、思い出した。あの写真の少年は自分だったのだ。


 そう、俺はこの日、自殺をするために理科室へやってきたのだ。


 足が自然に進み出す。これは記憶だ。記憶の再現。


 開き戸の窓を右手で開け、サッシに足をかける。足には通学用の運動靴が履いてあった。


 通学鞄を持ったまま、身を乗り出す。遥か下に、コンクリートの地面が見える。


 自分はすでに死んでいたのだ。杏奈や穂香も始めからいない。死ぬ間際の幻想。


 宏昭は窓の外へ身を投げた。みるみる地面が迫り、ガクンと強い衝撃を全身が受けた。

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