第3話

 数多の鏡と時計が歪み、割られ、壊れている。僕は身動き出来ない体で、城の広間に横たわっていた。体中が痛い。顔が特に酷く熱い。水が飲みたくて呻いた。

「死ななかったの」

「そうみたいだね」

 儚げな女の子の声がする。あの歌を歌っていた子だ。僕は見えにくい視界で女の子を探したが、例の少年しかいない。少年は僕をまるでゴミでも見るように見下ろして、玉座の後ろに立っていた。

 助けて、という声が出ない。

「ミディアムがウェルダンになった」

「そうね。でもどうしよう」

「置いておけば……」

 気が遠くなる気がする。会話が所々聞こえない。少年は何か頷いている。こちらへ近付いてきた。僕は足蹴にされる。蹴り転がされて、広間を追い出され、もう死んでしまいそうなのに、エントランスの階段の上から下へ向けて無慈悲に蹴り出された。人の心が無いんじゃなかろうか。

 意識を手放しそうになるのを、妹のためと思い踏み止まる。激痛を抱えた体に更に転げ落ちる衝撃が加わって、僕はもう全てを諦めたくなった。

 次、目が覚めた時は獣の唸り声がした。いつか見た、悪臭のする獣だ。獣は僕をじっと見て、今にもその牙で僕の体を引き裂こうとしていた。森に横たわっている僕の体はもう全く動かせない。僕の体は裂かれて、少し寒かった。


 雨の音がする。僕は濡れた土に頬をめり込ませて倒れていた。体を起こして、瞬間僕に何が起きたのかを思い出す。ゾッと全身に震えが走った。なんて酷い、だけどあんまりじゃないか。神という存在がいるのなら、僕はその人を呪うだろう。

 獣に貪られた、骨肉の碎ける音。壮絶な痛みも、暗闇の中にある。あまりにも苦しくて、逃げ出したいのに逃げ場がない。あの感覚、あの場所、あの少年……どれもが死を連想させ、苦痛に結びつく。

 目の前には橋があった。僕が落ちた大穴もある。僕はいつから死に続けている? 僕は……妹を、探していた。一体いつから?


 獣が怖くて、森にいられなかった。暗い森は雨を吸ってじっとりと毒を深めているように見えた。恐る恐る橋を渡り、また城の前に来る。人の気配はしない。あの少年もいない。

 僕はひとつ大きな仮説を立てた。突飛な発想かもしれないが、あの少年の隣にもう一人誰かがいるのではないだろうか。歌の主、そして僕をかまどに押し込んだ者。声と触感だけの生き物。

 そう考えると、少年の言動にも納得がいく。少年にだけは、見えているのだろうか。死んでも死ねないこんな世界だ、ありえないことなんて、ない。

 彼女に気づかれず、少年にも会わないように、と注意して、城の庭を探し歩いた。寒くて震えていた。僕はろくに服も着ていない。黒い肌が雨水を吸う。空には雲が敷きつめられている。

 そして僕は、黒い壁でできた、細長い塔を見付けた。


 塔の入口は簡素な造りで、木製だった。目の高さに横長の長方形の穴が空いており、僕はその穴を覗き込む。中は暗くてよく見えない。僕は扉を開けようと力を込めるが、大きな音で扉は軋み、開かない。鍵穴がある。

「ねえ、誰かいるの」

 発声したら、声がガサガサで老人のようだった。期待せずに問いかけたが、なんと扉の向こうから物音がする。かすれた幼い声が僕を呼ぶ。

「助けて」

 助けて、お兄ちゃん。言葉はそう続いたような気がした。僕は脳味噌が痺れるようだった。ここに妹がいる。閉じ込められているようだ。早く出してあげなければ。

「わかった! 待ってて!」

 僕は塔の扉に体当たりする。古ぼけた扉は力ずくでも開くのではないかと思わせた。大きな音がして、肩も痛むが、そんなことはどうでもいい。何度も扉に体を打ち付ける。「あっ」声が漏れたのは、扉から突き出た釘に当たったから。痛みをこらえてその箇所を押さえる。じんわりと痛みが回り出す。

 遠くから僕に呼びかける声が聞こえた。走る音が近づいてくる。

「ちょっと、何してるの?」

 怪訝そうな美しい少年がこちらにやってきた。僕はさっきの記憶を思い出す。アイツ、僕を殺した。死の恐怖と痛みが蘇る。死ぬのはとても苦しいのだ。塔から離れて逃げる。鍵を探しに行こう。

「待ちなよ! ねぇ、イライラするなぁ……」


 走る内に足はぐにゃぐにゃと崩れていく。バランスを崩しかけて危うく転ぶところだった。壁に手を付いて息を整える。少年の足音は遠く離れて聞こえない。ここはどこだろうか。闇雲に走ってきた。蝋燭の火が灯る城の中の階段にいる。下りの螺旋階段の途中に立っていた。胸が苦しい。

 僕はあてもなく階段を降りた。いつまでも降りた。ゆっくりと確実に一段一段降りていった。まだまだ底にはつかない。上から部屋の扉の開閉音がする。

 すっかりくたびれてしまうくらいの段数を降りた。蝋燭の薄明かりだけで息苦しかった階段に、変化が見えた。階段の終わりがある。そこにある扉が半開きで、光が漏れている。

 僕は光に吸い寄せられる羽虫のように、おぼつかない足取りでその扉へと向かった。


 扉は木製で古びていた。漏れる光が目に入って眩しい。目を押さえて扉に開けると、中から明るい人の声がする。

「うわぁ! 焼けたのね? びっくりだよ、丸こげじゃないか」

 何のこと? と思い、声の主を見たら、深緑色の軍服に身を包んだ女の子がいた。足を組んでいて、黒光りするゴツいブーツに目がいく。愛嬌のある笑みを見せるが、よくよく見ると、片方の服の袖が結ばれていて、腕が一本欠けているようだ。

「何が焼けたって?」

 動揺しつつも、それだけは聞いた。狭くて雑多な雰囲気の部屋だった。ナイフや重火器が壁に飾られている。使われた形跡はない。

「何って、君の体でしょ?」

「焼けた……?」

 少女は面倒そうにため息をついた。ここに来るまでに鏡一つ見なかったのか? と問うてくる。

「ここがどういう世界なのかまだわからない? 私はテラ。これでも生前は軍人だよ。君は戦災孤児? 君は焼死体。そんな体でよく歩けたね」

 彼女がガラガラと姿見を動かして僕を映す。そこには、赤黒く焼けただれた皮膚が全身を覆う、痩せ細った体の子供が一人いた。剥き出しの歯茎がいやに白い。小さな挙動一つ一つが僕とその鏡の中の子供と一致する。僕がその姿の子供その人だと認識したその時、言いようのない感情が胸奥から蠢き湧き立った。気持ちが悪い。すぐに体を捨てて逃げ出したい。こんな筈ではなかった。まるで僕が僕ではないかのようだ。見たくないのに、目が離せない。

「死んだ子供の世界だよ」

 テラはいくらかニヤけた風に見える表情で言った。

 流石に死んだことは覚えているだろ、と言われた。そんなこと覚えてはいなかった。覚えていることはただ一つ、僕は妹を探している。


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