第2話

獣に遭遇しないように注意して森を進むと、徐々に道が開けてきた。曇り空が木々の間から顔を覗かせる。目の前には大きな城があった。水堀に囲まれて、城に立入るには正面の橋を渡るしかないようだ。人気のなく、不気味なその城に僕は妹の姿を思い描いた。

 城へと続く橋へ一歩踏み出すと、大きく軋んだ。木製の橋は見た目こそ巨大で堅牢だが、よくよく見れば朽ちかけている。僕は気を付けて歩いているつもりだったが、置いた足がバキッと音を立てて沈み、僕はバランスを崩した。手を着いたらその手も橋に穴を開ける。あれよという間に僕は傾く橋とともに下へ落ちた。


 空気の代わりに鼻腔から侵入してくる水。パニックに陥る。恐怖と混乱が押し寄せて止まらない。暴れれば藻が身体にまとわりついた。黒い水は僕の体を覆い、包み、流し込むように地下へと進む。明るい水上を目指してもがくが、なんの意味も成さない。光に手を伸ばしても届かない。水は肺に満ちる。頭がぼーっとして、苦しくなる。指先が痺れる。流れてきた流木に首を強く殴られた。僕は目を閉じ、意識が飛ぶのを待った。苦しみから解放されて、楽になるのなら……いや、いや! 僕には、まだ。だけどもう……。

 気がつくと僕は橋の前に寝転んでいた。体を起こすと頭がぼんやりと働き始める。水にのまれた記憶が鮮明にあり、あの苦しさを一瞬追体験する。これが夢だとでもいうのだろうか。橋には穴が空いていた。穴を避けて、慎重に慎重に歩を進める。妹は、この先にいる。そう信じている。縋るように。

 

 門を抜けると、灰色の城が僕の正面に立っていた。無機質で冷たい雰囲気、そしてなぜか前にも来たことがあるような気がした。既視感というのだろうか。

 城の扉に手をかけて、押してみる。とても重い。なんとか開いた扉の向こうから、とても透き通った歌声が聞こえてきた。扉の隙間に身を滑り込ませる。

 か細い歌声はエントランスの冷たい壁に吸い込まれるかのようだ。聞き取ろうとしても、耳にそれが言語として届くことは無かった。ハミングなのだろうか。僕は走った。声の元へ。幼い女の子の声にも聞こえる。僕は広間の階段を駆け上がる。目頭が熱かった。


 声の聞こえる部屋を見つけた。そこだけドアが開いていて、薄暗い城内の廊下に一筋の薄明かりを落としていた。覗き込むと、白い部屋が僕を迎える。中に人の姿はない。だが歌は続いている。

 部屋の中に立ち入って声の主を探す。歌は明らかに部屋の窓付近から発せられている。しかし誰もいない。

 ねえ、君はだれ。僕はそう喋ろうとした。喉から出たのはしわがれた酷い声。意味のある言葉にはとても聞こえなかった。歌が止まる。

 と、その時、部屋に踏み込む人影があった。水晶のような透き通った眼に、陶器のような白い肌の少年。彼は浮世離れした美しい容姿を歪めて、僕を非難する。

「彼女に近付くな」

 僕は慌てて言い訳をしようとした。少年は僕と同じか、僕より少し年長に見える。大人よりは安心できる。

 だけどやはり声を発することが出来ない。古い時計が無理やり動くような、耳に汚く届く音がする。人の声とは思えない。

「喋れないの」

 少年は酷く冷たい目で僕を見た。僕の横を通り過ぎ、誰もいない窓辺に手を差し伸べる。誰かの手を取るような動きをして、少し微笑んだ。まるで誰かを安心させるかのように。あまりにもその横顔が優しい。先ほど僕が見た彼の目が嘘だったのではないかと思う。

 僕は少年に声をかけたかった。女の子を見ていないか、と。使えない喉を震わせて、唇を動かす。嫌そうな顔をして誰かの手を引っ張り少年は歩き出してしまった。強引に肩を掴む。彼はぎょっとしたようだ。

「何? 汚い手で触らないで」

 女の子、女の子、と繰り返し言って、妹の背丈を手で表した。

「ああ、人を探して迷い込んだの。たまにいるんだよね。早く出て行って。好きに探し回っていいから」

 彼は肩についた黒い煤を綺麗になるまで叩き落とす。今度こそ部屋を出ていってしまった。


 ここは城にしては小さいが、がらんと人気がなく、とても広く見えた。エントランスの階段はとても高く長い。歩き回ってみたが、どの部屋にも人はいなく、生活感がない。ホコリや蜘蛛の巣がかかっているわけではなく、まるで時が止まっているかのようだ。

 ふいに腹部がぎゅぅっと音を立てた。お腹がすいた。もうずっと森を歩いていた気がする。そこから屋根も壁もある今の城まで来れて、気が抜けたようだ。ここは静かで、獣の気配もない。

 倉庫や客間を覗いて、食堂までたどり着いた。そのすぐ横の部屋が調理場だった。食料を漁り、リンゴを見つけた。貪り食らう。

 芯のギリギリのところまで噛み付いて、もう食べるところがない。まだ空腹だ。

 パンがあった。誰もいないのにかまどの火が点いている。パンを焼こうと近付いた。火だ、熱い、と思ったら、何かが背中を強く押す。そんなことが起きるだなんて僕は思いもしていなかったから、かまどの火の中に落ちそうになった。慌てて鉄の扉を素手で掴む。肉の焼ける音がして、とても熱かった。痛い。起き上がろうとしたが、何かに頭を押さえつけられている。息が出来ない。熱せられた空気が肺を周り、体中火傷したみたいだ。髪が燃える! 不思議と懐かしい。

 押さえつけているこれは人の手だ。押し込まれるまま抵抗も出来ずに焼かれていく。頭の中は大混乱。なぜこんなことを。なんとか振り向いて誰なのか見たら、そこには誰もいなかった。

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