第2章

第9話 ……えと……心の準備が……。

「しまった……」


 桃香は寝る前に自分のスマートフォンを見ながら、自分の失敗を嘆いた。


「……塔矢くんと連絡先を交換するの、完全に忘れてたよぉ」


 彼と付き合うことになったのに舞い上がっていて、肝心なことをすっかり忘れていた。

 これでは連絡の取りようもない。

 いや、彼の妹である凛の連絡先は知っているから、いざとなれば連絡できない訳ではないのだが、流石に恥ずかしくてそれはできなかった。

 たぶん、塔矢もそれは同じだろうから、向こうから連絡が来るのも期待できない。


「うぅ……。困った……」


 桃香は頭を抱える。

 if帳に書き記してある『もしも、同級生の彼氏ができたら』のページには、『おやすみの挨拶』や『寝不足になるくらい長電話する』などが書かれている。

 なのに、連絡できないのでは何もできない。


「仕方ない……。学校で聞くしかない……」


 桃香は悶々としながらも、愛用の抱き枕をしっかりと抱いて目を閉じた。

 もちろん、頭の中では新しい妄想を繰り広げながら。


 ◆


「なあ、今日の熊野さん、いつもよりさらにオーラが出てないか……?」


 桃香が塔矢と付き合うことになった次の登校日。

 いつものように、塔矢を含むグループは休み時間に雑談をしていた。

 その中の1人がちらっと桃香の方を見て、小さな声で呟いた。


「……確かにな。眉間に皺入ってるし、絶対機嫌悪いって」

「美人なんだけど、近寄りにくいよなぁ」


 塔矢は他の男子が言い合っているのを、あまり関わらないように聞いていた。


「――塔矢はどう思う?」

「えっ⁉ そ、そうかなぁ……? 僕にはいつもと変わらないように思えるけど……」


 突然振られて驚いたが、塔矢は苦笑いしながら答えた。


「いいや、絶対いつもと違う。何かあったに違いない」

「……あっ、そういえば土曜に事件あったろ? 熊野さんの近くじゃね? 確か丸中出身だったはずだし……」


 1人が先日の事件のことを口にした。

 そのことに塔矢は内心ドキッとしたが、塔矢も桃香も異能症持ちであることから、名前などの報道はされないはずだ。

 それほど異能症は忌避されているという証でもある。


「まぁナイフ持った男が出たってだけだし、関係ないか。……それはそうと……」


 話が逸れていくことに、塔矢はホッとする。

 彼女が険しい顔をしているのは少し気になるが、神社での様子からすると、今日もそう振る舞っているだけなのだろうと思えた。


 ふと、塔矢は彼女の異能のことを思い出す。

 もしかして、ここで何か強く思い浮かべたら、彼女に伝わるのだろうかと。

 そう思い、桃香に意識だけ向けて、頭の中で『熊野さん、可愛い!』と何度も強く念じてみた。


「――――っ!」


 すると、本を読んでいた桃香が突然バタッと机に突っ伏した。

 ……なるほど。

 これは間違いなく伝わっているのだと確信して、塔矢は『やっぱり熊野さんは可愛いなぁ』と改めて思った。


 ◆


(――って、なんでこんな時にぃ……!)


 桃香は机に伏せて顔を隠しながら、心の中で呟いた。

 先日、塔矢と付き合うことになってから、油断しているとすぐに顔が緩んでしまうので、今日はずっと緊張したまま過ごしていた。


 そこに、突然彼の声が頭に響いてきたことで、プツンと緊張の糸が切れてしまい、もうどうにもならなかった。


(嬉しいけど……どうしたらいいのよぅ……⁉)


 どこかに逃げ出したいくらいだが、たぶん耳まで真っ赤になっているだろう自分の顔を想像すると、このまま顔を上げるのも無理だ。


 彼のことを恨めしく思いながらも、桃香は休み時間が終わるまでそのまま我慢するしかなかった。


 ◆


 放課後――。


 塔矢は家に帰ろうと、履き替えるためにスニーカーを手に取った。


「……ん?」


 そこには一通の手紙が挟まれており、手に取った拍子に、はらりと床に落ちた。

 拾ってみると、裏には綺麗な字で『桃香』とだけ書かれていた。


 塔矢は人に見られないように、そっとポケットに仕舞って、とりあえず校舎から出た。

 そして、人目のつかないところで手紙の中を確認する。

 手紙には桃香の電話番号と、塔矢の電話番号を教えてほしいということ、それと最後に小さな文字で『好き』と書かれていた。


 塔矢は照れながらも、すぐにその電話番号に電話をかけた。

 3コール目で電話が取られる。


『……も、もしもし?』

「えっと、熊野さん?」

『中村くん? よかったー』


 最初は電話越しにも緊張しているのがわかる桃香の声だったが、相手が塔矢だと確信したのか、安堵の言葉を漏らす。


「うん、僕だけど。手紙に電話番号書かれてたから。これ僕の番号だから、登録しておいて」

『わかった。ありがとう。この前聞き忘れたから、困ってたんだ』

「熊野さんは今どこ?」

『茶道部だよー。あ、そうだ、他に誰もいないから来る? お菓子あるよ?』

「んー、それじゃ行くよ。待ってて」

『うん、待ってるね』


 電話を切った塔矢は、もう一度上履きに替えて、桃香の待つ茶道部に向かった。


 ◆


「急に誘ってごめんね」


 ノックしてから部室に入ってきた塔矢を見て、桃香が声をかけた。


「ううん、別に用もないから。熊野さんに会いたかったし」

「ん、私も……」


 塔矢が言うと、桃香は少し俯いて小さく頷いた。

 そんな彼女に塔矢が聞く。


「そういえば、休み時間だけど……。僕の声、聞こえたりした?」


 彼の質問に、桃香は急に顔を真っ赤にしてまくし立てた。


「――聞こえた! もう、聞こえまくりだよっ! どうしようか困ったじゃない」

「ごめんごめん。もしかしたら話しかけなくても伝えられるのかなぁって、試してみたくて」

「……うぅ、話しかけてくれるのはすごく嬉しいんだけど……でも一方通行だし、耳塞いだりもできないし……」


 桃香は少し目線を逸らして呟いた。

 自分の意思とは関係なく、突然流れ込んできてしまうので、どうにも対処に困るのだ。


 そこでふと思いついて、桃香は言った。


「……そうだ、罰としてこれから私のこと桃香って呼んで。私も塔矢くんって呼ぶから」


 桃香は顔を逸らしたまま、目線だけちらりと塔矢に向ける。


「わ、わかったよ。……も、桃香?」

「うん!」


 下の名前を呼ばれて、桃香は頬が緩むのを我慢できなかった。

 if帳にもちゃんと書いていた。『下の名前で呼び合う』と。


「でもちゃんと伝わってて良かったよ。それじゃ、たとえばこんなのは……?」


 桃香の嬉しそうな様子を見た塔矢は、そこまで言ってから、じっと見つめてその後の言葉を頭の中で思い浮かべた。


「――ふえっ⁉ ちょ、ちょっとそれはまだ……早いんじゃない……かなぁ? ……えと……心の準備が……」


 あたふたと戸惑う桃香を見ていると、相変わらず可愛く思う。

 しばらくの間、視線が宙をぐるぐると舞っていた桃香だったが、ようやく小さく頷いて塔矢の顔に視線を戻した。


「…………よし。い、良いよ……?」


 そして、桃香はそっと目を閉じる。

 そう、塔矢が思い浮かべたのは『キスしたい』だったのだ。


 すぐに受け入れられるとは思っていなかった塔矢だったが、桃香のその様子に引くに引けなくなる。

 ほっそりとした彼女の肩にそっと手を添えると、ぴくっと体を震わせた。


 そして――。


 塔矢が顔を寄せようとしたとき、部室の扉がノックされる音が響いて、ふたりは慌てて体を離した。

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