第一章 金文使い五 尋炉、王に謁見す

 太河たいがの砂を使った版築はんちくで固められた滑らかな道路を馬車は走り、腸国の都結腸けっちょうの城に入った。

 太河は世界の中心を東西に流れる最も長く大きな河だ。その支流は複雑に腕を伸ばし、北の果てから南の果てまで、無数の毛細血管のように世界全体を抱いている。微細な砂で黄色く濁った悠久壮大な本流から、清らかなせせらぎの支流まで、様々な表情を見せるその景観は古今幾多の歌い手たちによって詩に吟じられてきた。


 腸国は膵国を挟んで太河の本流から隔たっているが、城壁も舗装も黄土が使われ結腸の都は全体が黄色みを帯び陽光を照り返している。広い大通りの両脇に商店の建ち並ぶ活気に溢れた城下街を通り抜け、一行は馬車を降り王のいる宮殿へと至る司馬門をくぐった。

 門番に止められ、しばらく待たされたが、張県令の印綬と尋炉の評判が功を奏し、いきさつを話して少しすると門が開かれ取り次ぎの従者が恭しく宮殿の中へ招き入れてくれた。

 謁見の間の前まで案内されたところで、回廊で待っていた王自らが一行を出迎えた。

「おお、あなた方ですか。あのやっかいな饕餮とうてつを退治してくださった勇敢な戦士たちは」

 王は肥り気味で肌のきめが細かく小熊のようなつぶらな瞳をしていた。華美ではないが上質と一目でわかる絹の衣を何枚か重ね、衿で色が映えるように軽やかに着こなしている。

「戦士たちではありません。饕餮を退治したのはこの者のみ。戦士は彼です」

 拱手きょうしゅして形式的な挨拶を済ませた後で張県令が答えた。

「何と。たった一人であの化け物を退治したとは。これは宴で話を伺うのが楽しみですな」

 王が人好きのする笑顔で睨鬼げいきに向かい、また深々と一礼した。

「俺は褒賞金さえ貰えればそれでいいんだ」

 睨鬼は礼を返さず照れ臭そうに鼻の頭をかいた。


 宴の準備はすっかり整っていた。広間は甘い酒と肉の焼けるにおいで満ち、腸国の文官武官がずらりと並んでそれぞれの席に坐し、酒杯を前にして客の訪れを今か今かと待ち構えている。

 各膳に盛られた鮮やかな美味珍味の間を尋炉たちは案内され、尋炉と睨鬼と張県令は王の居場所よりも一段高い上座へ導かれた。先に伝令が行っていたので予め支度していたのだろうが、それにしても豪華な酒宴の座に一行は息を呑み、とりわけ睨鬼は驚きとはしゃぐ気持ちを隠そうともしなかった。


 ただ一人、尋炉だけは、煌びやかな御馳走を前にしても茫洋とした表情を崩さず静かだった。しかし、北面の壁に描かれた絵を見ると途端に破顔した。

「あの壁の絵は素晴らしいですね」

 尋炉は言った。

「流石です。よくお気付きになられましたな。私の先々代の王が、王室と国の繁栄を願って、高名な絵師を招き寄せて描かせたものです」

「環の聖帝令寿れいじゅが南面して政をしている図ですね。横にいるのは、令寿が幼帝だったころから常に支えた右腕で丞相じょうしょう景蝉公けいぜんこう

 王が尋炉の酒杯に酒を注ごうとした。尋炉は絵に見惚れ、王が酒壺を手に身を乗り出していることに気が付かなかった。

「先生、先生」

 四季弟子の中でも一番年長の子春ししゅんが横から囁いた。

「おっと、これは失礼を」

 尋炉ははっと我に返り、気恥ずかしそうに王の酌を受けた。

「つい恍惚としてしまいました」

「いえいえ」

 王は愛想よく言った。


「先生は聖帝令寿の残した言葉と環の遺物を探しておられるとか」

「そうです。数々の遺物や記録があるにもかかわらず、環帝国は長らく伝説の国とされてきました。私は各地に点在するその名残を集めています。ゆくゆくはまとまった伝として編纂へんさんし、人のあるべき規範とされる彼らの記憶を、今世と未来の世の、日の当たる場所へと送り出したいと願っています」


 尋炉の言葉には熱が籠もっている。


「何でも、聖帝の時代、天下は環という一つの国家で統一され、戦乱はなく、民は豊かで、亜獣に悩まされることもなく、人々は皆生まれながらの真名しんめいを名乗ったとか」

 王が持てる知識を披露した。実は参謀に尋炉にはこう言えと献策された聞き齧りの話だが、尋炉は覿面、無邪気に瞳を輝かせた。

「そうです、そうです。今では信じ難いことですが、古の環では誰しもはじめから真名を名乗りました。人が人を疑わなかった証拠です。帝は仁愛をもって民を統治し、税は最小限しかとらず、経済は潤滑で、科学、とりわけ文字学技術はかつてない高い水準に達し、その恩恵に与った人々は赤子から老人まで穏やかに幸福だったといいます」

 そこまで話すと、ふと、尋炉の表情が寂しげに翳った。

「しかし、素晴らしい環の国は失われてしまいました」

「なぜですか?」

 王が心持ち眉をひそめて尋ねた。

「それが最も謎な点です。伝説では最初の消滅が起きたといわれています。反乱を企て亜獣を呼び起こした腎国の祖に攻め滅ぼされたのだとか、文字学技術の実験に失敗し歪んだ空間に取り込まれたのだとか、様々な言い伝えがあります。案外消滅説が正しいのかもしれません。今よりもはるかに優れた文字学技術を誇ったにもかかわらず、現在それが残されているのは各地に散らばった小さく断片的なものだけです。繁栄を極めたという都の数里城も、跡形もなく消失し、城壁の跡すら残っていませんから」

「確かに奇妙ですな」

「そういえば、肺国の一部で消滅が起きたとか。ここへ来る道々、流民の姿を見ました」

「はい。逃げ延びた領民が流れてきておるのです。気の毒なので、領内で彼らを見つけたら、いじめずに施しをするようにふれを出しております」

「それが良いです。王は仁のお方ですね。覇道の刃を振りかざす腎国のやり方とは大違いです」

 王は満足そうに、酒のにおいのする息を吐いた。

「腎国の侵略は酷いものです。幸い我が国は小国ながら外交的な取引でどうにか和平を保っておりますが……」

 睨鬼は王にも尋炉にもそっぽを向き、ひたすら御馳走を取って来ては食べていた。良い食べっぷりだ。尋炉はちらと彼のほうを向き、悲しげな目元を微笑に変えた。


「文字の墓場を探しています」

 不意に、尋炉が言った。

「文字の墓場……? あの幻の」

「はい。幸運な選ばれし者だけが辿り着けるという彷徨える空間です。一説にその正体は、環帝国の都、数里の廃墟が現実の土地から切り離され、時空の狭間を彷徨っているのだとか。私が諸国を旅する理由は、聖帝令寿の記録と環の遺物を集めるための他に、もう一つあります。文字の墓場への入り口を見つけたいのです。どちらかといえばそちらのほうが真の目的です」

 王は無言で深く頷いた。感じ入ったのではなく、彼の聞き齧りの知識では、到底想像できない領域に話が入ってしまったのだった。


 尋炉はまた睨鬼のほうへ顔を向けた。

「私ばかりおしゃべりしてしまいます。今日の英雄は彼でしたね。睨鬼さん、睨鬼さん」

 肉の串焼きをのせた鉄の炉の前に立っていた睨鬼が、肉で頬をいっぱいに膨らませた顔で振り返った。王と尋炉は二人でおいでおいでと英雄を手招きした。睨鬼は肉を咀嚼しながら面倒臭そうに獣のように唸り、肉の串をもう一本取ってから、尋炉らと隣り合う自分の座へ戻って来た。

「何か用か?」

 口の中の肉を見せて青年はもごもごと言う。

「あなたの亜獣退治の腕は見事でしたね。しかも金文使いとは、なかなか出会えるものではない……。私が本物の金文使いに会ったのは、頸国のすい県で見て以来七年ぶりです」

「そりゃあ、どうも」

 尋炉が身を乗り出した。

「古代の文字が記された金文板きんぶんばんも、たいへん貴重なものです。あなたはお持ちでしたね?」


 熱っぽい眼差しが睨鬼の胸の辺りを探った。何だ、これを見せてほしいのか。それならそうと頼めばいいものを。まったく、学者先生というのは回りくどい人種だぜ。

「これのことか?」

 睨鬼は外套の裏から闘いに使った金属板を出して見せた。

 尋炉の目の色が変わった。文字どおり、燭の炎を映して煌めく瞳の色が濃くなったように見える。肉付きの骨をちらつかせたときの犬みたいだぜ、と睨鬼は思った。まさかこの先生、俺の金文板を盗ろうってんじゃないだろうな。

「素晴らしい。どこでこれを手に入れましたか?」

 丁寧に手に取った尋炉が、金属に刻まれた古代の文字をじっと見つめながら呟いた。文法も字体も今のものと大きく異なり、解読するのは難しい。今の文字よりも複雑で意味を多く含み、衿に織り込む紋様のようだ。緻密で、象徴的で、謎めいている。

「まだあるぜ」

 睨鬼は外套の裏に手を差し入れ、二枚目、三枚目の金文板を出して見せた。尋炉が息を呑む音がはっきりと聞こえた。

「こんなものは俺の故郷にはいくらでもあった。たいがい地面の下に埋まってるんだ。反応させられる人間は少なかったがな」

「どちら出身でしたっけ? 金文板のかけらがそれほど多く残された場所とは」

がん国だ」

「眼国の、どこです?」

「山奥のしがねえむらだよ。探してももうないぜ」

「ない、とは……」

「消滅した」


 不思議な金属の板は、歪に反り返り端に一度熔けたような跡が残っているが、表面に冷ややかな青緑色の光沢を帯びて、少しも錆びていない。

 尋炉はしばらくの間黙ってそこに刻まれた文字を目で追っていたが、やおら掌を当て、指先でゆっくりとなぞっていった。すると触れた先から、文字が淡い光を放っていった。

「反応してる」

 自分以外にこいつを反応させられる人間をはじめて見た。睨鬼は素直に驚いた。そうか、彼も金文使いだったのか。しかし睨鬼の経験からいうと、尋炉の文字への触れ方はまるで出鱈目でたらめで、少しでも術を使いこなせる人間の動きではない。


 と、文字を光らす尋炉の指先から何かが現れた。赤ん坊のこぶし大の、綿? 繭玉? 何か、灰色のもやもやとした丸いもの。いくつもいくつも、文字が反応する度にわやわやと溢れ出てくる。

 繭玉には眼と嘴がついていた。ふよ、ひよ、ひよ、と小さく鳴きながら、群で転がって尋炉の袖や睨鬼の外套に纏わりついてくる。

「何だこいつらは……うっとおしい」

 睨鬼が払い落とすと、羹の器にぽちゃぽちゃと入って、溺れた。思わずつまんで引きあげてやる。

埃鳥ほこりどり、または句鳥くどりと呼ばれるものです。これでも亜獣の一種で、私が金文を反応させようとすると、どういうわけかこれらばかりが湧き出てしまうのです……」

 尋炉がはーっと溜め息をついた。

「いやはや、まことに奇なことで。しかし大丈夫ですかな? 亜獣の一種とは」

 王が「しっ、しっ、あっちいけ」と埃鳥を払い除けながら言った。

「害はありません。しばらくすると自然に消えます」

 尋炉は埃鳥を掌に掬いあげた。三羽団子になり、頼りない羽毛をか細く震わせながら、指や手の皺をしきりに嘴で突いて探っている。嘴は飾りで、普通の鳥のように開く構造にはなっていなかった。


「もしあなたが禁断の沼で……」

 何の前置きもなく、いきなり尋炉が尋ねた。

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