八十一輪目

 カッコーン、と。

 どこかから良い音が響いてくる。


 夏の蒸し暑さもこの露天風呂を前にすれば、それほど気になるものではない。


「ぁ〜……」


 身を綺麗にし、足からゆっくりと入っていけば。

 どこかに溜まっていた疲労が湯に溶けていくような心地よさから思わず声が出てしまう。

 空を見上げれば綺麗な星空と月が。


 男性御用達なのか、そこそこ広い作りとなっているが今は自分一人。

 うーん……なんて贅沢な。


 こうやって一人でボーッとしていると、年一くらいで行っていた旅行を思い出す。

 このまま目を閉じて、再び開けたら元の世界で。

 本当は一人旅の途中だったりするのだろうか。


 ……まあ、夢にしてはリアル過ぎるし、そんな事は無いのだろうけれど。


 でも実際、何がキッカケでこうなったのだろう。

 それが分からなければまた、ふとした時に戻ってしまう。

 元に戻ったらまた働くだけなのだが、甘い甘いこの世界に未練たらたらである。


 創作によくある話だと事故が多いけれど、そんな記憶ないしなぁ……。


「…………」


 徐に水面に映る月を両手で掬い上げるが。

 緩く形取った器のため。すぐに指の隙間から湯が抜けていき、手の中には何も残らない。

 でも水面には月が映っているし、空にも変わらず浮かんでいる。


 これまでの夏月さんたちはこうやって恋焦がれるだけの存在だったのに、手が届く、側にいてくれる。


「そりゃ、手放したくないよな……」


 この世界に来て。

 いい方に転がって。

 そして今がある。


 ……なんか厨二病みたいな考えで少し恥ずかしくなってきた。


 湯から上がり、最後に身体を流してから軽く水気を拭って脱衣所へ。

 鏡に映る自分は平々凡々そのもの。

 今があるのは流れもあるけど、奇跡みたいなもの。


 でも人間、手に入れたものがデカいと変わっちゃうんだなって。

 独占欲がここまで大きくなるとは正直思ってもみなかった。


 浴衣へと着替え、忘れ物がないか最後に確認してから部屋へと戻るが、まだ冬華は戻ってきていないようだ。


「ん?」


 温泉に向かう前までは無かった、いくつか見覚えのある荷物が置いているため。

 夏月さんたちも仕事を終えて着いたのだろう。

 ここに居ないから温泉に入っているのかな。


 スマホと飲み物を手に謎スペース……広縁ひろえんと言うらしいが、そこのイスに腰掛けてノンビリと待つことにしよう。


 なんて思っていたが。


 何やら騒がしい音が聞こえてきた。

 しかもそれはだんだんと大きくなっており、この部屋へと近づいてきているような。


「優君!?」


 スパーンッ! と音を立てて襖を開け、名前を呼びながら夏月さんが入ってきたかと思えば。

 部屋を見回して俺を見つけるや一直線にこちらへと向かってくる。


「フユカから話は聞いたけど大丈夫? 怪我は無い?」

「え? ……ああ、うん。ちょっと押されただけだし大丈夫だよ」


 ペタペタと身体を触って確認している夏月さん越しに、高瀬さんと秋凛さんが冬華の両脇を固めながら入ってくるのが見えた。


 今気付いたけどみんな浴衣に着替えているけど、髪がまだ湿っているような……?


「ほら、冬華ちゃん。正座だよ?」

「逃げないでね?」

「逃げないわよ。……ところで、座布団は」

「あると思う?」

「……まあ、そうよね」


 何してるんだろうと思いながら三人をみていたら、冬華が畳の上に正座をし始めた。

 …………何故?


「それじゃ、優君も冬華の隣で正座ね」

「…………え?」

「優君にもちょっとお話があるからさ。ね?」


 高瀬さんが冬華の隣に座布団を持ってきてくれているが、あそこに座れって事なのだろう。


 …………何故?

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