第5話 闇夜の終幕
真夏の夜を温めるじっとりとした空気。
街頭の明かりのみが光源となった通りを歩く、一人の男。
真夏にも関わらず、黒いオーバーコートに身を包んだ褐色の年若い男は無感情に、無機質に、慎重な足取りで夜闇を練り歩く。
「暗いな、どの家も。誰もいないのか」
玄関の開いた家々を見回しながら進んでいると、額に当たる何か。
「……いや、それも希望的観測か」
その正体を懐中電灯で照らして、男は重い息を吐いた。
灯りの中に浮かび上がったのは、木に吊るされた首吊り死体。
先程の感触は、そのつま先が当たったことに由来している。
「甘ったるい腐敗臭、残留する虚数の痕跡……。死後数日ってとこか」
ゆっくりとライトを動かし、辺りを順に照らしていく。
街頭に吊るされた者。
電線に吊るされた者。
そして、木々から吊るされた者。
既に頭上は首吊り死体で埋め尽くされていた。老若男女問わず、数え始めればきりが無い程に。
「さながら死のイルミネーションだな」
淡々と感想を述べ、尚も調査のために探索を続けていると。
「──っ……ひっ、うぅ……ぅぅ…………」
風に乗って鼓膜を震わせる、すすり泣く声。
虚数的実体による罠を考慮しつつ、男は音の方を警戒しながら移動する。
木々に呑まれ、死を堕ろしている古びた車道。家々の距離は広く、一瞥しただけでは
意識を鋭敏に、武器はまだ。
森に沿ってカーブを描く道の右沿いを、茂みに身を潜めて進むこと数十秒。
そこには真新しい一軒家がポツリと一つ、玄関の灯りで闇夜から浮いていた。
そしてその手前、枝葉で玄関をアーチ状に飾る小さな広葉樹。
そこには無惨な姿の夫婦と思しき吊り下げられた死体と、ソレを前に呆然と
「パパ、ママ、なんで……なんで」
死が満ちるこの場所で、まだ十代にも満たない普通の少々の姿。
この場における明らかに異常な存在。
男の心は冷たく燃え、そして静かになった。
虚数の痕跡がこびり付いているものの、少女自体は実数体である。
精神も肉体も浸食されてはいないが、最低限の警戒を残しつつ、男は対象へと近づいて行った。
「お前の両親か」
背後から声を掛けるが、少女は心ここにあらずと言った様子で男の存在に気付かない。
かつての自分に似ているものの、男が同情する事は無かった。
「辛いとは思うが受け入れろ。さ、二人を降ろしてあげるんだ」
少女を移動させるための言葉、ありきたりで充分。だが彼女の口から飛び出したのは、予想外の呟きだった。
「なんでここにいるの? パパもママも、お風呂で死んだんじゃなかったの……?」
涼しげな表情はそのままに、男が重心を変化させる。
戦闘の
少女の発言が故か? 否。
その理由に向けて、男は視線を巡らせた。
風も無いのに揺れる、吊るされた死体の数々。
空気中の虚数濃度が先程からやけに高い。
「何かがおかしい、既に攻撃は始まっていると見るべきか」
泣き続ける少女、振り子のように振れ幅が増大していく死体達。
実に不気味な状況だが、だからこそ男は冷静沈着に事象を観察する。
──パタパタパタパタ
街路樹の陰から響き出す、乾いた小さな足音。
ビクっと肩を震わせた少女とは対照的に、男は少女を庇うため静かに体を移動させた。
物音を立てている存在こそが、この異常の元凶であることを察知して。
「え、うそ……やだ、やだよ」
少女は音の方角へ恐る恐る振り返りながら、ゆっくりと後ずさる。
そこで少女はようやく男の存在に気付いたのか、
「アイツが、来ちゃう。お願い、逃げて」
「あの音の主のことか。何か知っているのか?」
男の疑問に答えず、サッと視線を前に戻す少女。
その眼は恐怖で大きく見開かれ、青白かった肌は更なる恐怖で土気色に染まっている。
「もう……おそい…………」
男は街路樹へ目を戻すと、その根元には異様なカラスが一羽。
──クーチャンダヨー
鼻声に近いしゃがれた鳴き声で頭を傾け、
──アーソビーマショ
リズミカルに頭を左右に振っている。
「いや、いや、いやああああああ!!」
絶叫と共に少女がその場にしゃがみ込む。耳を塞ぎ、恐怖を見ないようにと身を縮こませて。
──ブランコデー、アーソビーマショ
「くっ、呪言か」
ぐらりと男の意識が揺らぎ、身体は崩れ落ちるようにたたらを踏む。
──クーチャンダヨ、アーソビーマショ ブランコデー、アーソビーマショ
「やめて、まだ死にたくない! オバケになんかなりたくないっ!!」
耳を塞いでいる少女の両手に、力が入る。
そのままゆっくりと、ゆっくりと、後ろへ向けて
「お兄さん、助けて……」
消え入りそうな、か細い少女の声。
それを
──ゴキャッ
──クーチャンダヨ、アーソビーマショ ブランコデー、アーソビーマショ
ぷらぷらと目玉を揺らし、馬鹿にした調子で頭を振り続ける八咫烏。
周囲で死体が振り子の様に大きく揺れる中、動かなくなった少女のしなびた首に、頭上から垂れ下がって来た縄が引っかかる。
「なるほど。洗脳によって対象を死に至らしめ、死因に関係無く首吊り死体に変えてしまうのがキサマのやり口のようだな」
守ろうとした少女が絶命したにも関わらず、男は残酷なまでに冷静沈着だ。
落ち込む意味などない。
護りきれなかったのならば、弔いのための敵討ちとして確実に仕留める。
そのためには、とにかく非情に徹するのみ。
──ガァッ?
男の様子に八咫烏は微かに怯み、咄嗟に思考を巡らす。
(おかしい、先程までは確かに暗示が効いていたはず。なのに何故平然としていられる)
暗示が浅かったのだろうかと
──クーチャンダヨアーソビーマショブランコデーアーソビーマショ
呪言が、首の動きが、加速する。
最早周囲の死体は先程の少女を含め、互いにぶつかり合う程に大きく、激しく揺れ続けている。
中には腐敗によって首が耐えられらなくなり、頭と胴体が遠心力で切り離される者も出始めた。
「もう止めろ、不愉快だ」
途端、男から放たれる
暗示はもう、通用しない。
「
オーバーコートの内側に男の手が差し込まれる。
そして引き抜かれた手には、9.6インチの黒い大型拳銃。
作動方式はシンプルなブローバックだが、内装式ハンマーによるシングルアクションと思われる撃発機構。
銃身とボルトアッセンブリーを擁するレシーバー、前部のヒンジピンで結合されたトリガーとハンマーを擁するグリップフレーム。
そしてそれ等に挟み込まれるように装着された電磁加速レール。
上部前半のレシーバーにはピカティニーレイルが掘り出され、フロントサイトは前端付近に、リアサイトが後端付近に備わっている。
モールドされたアクセサリーレイルが備わるグリップフレーム前部下面、ウェポンライト等を装着することも可能な造りとなってはいるが、現在は何も着けられてはいない。
其は──混沌を撃ち抜く筒。
其は──悪逆を挫く凶器
其は──秩序有りし復讐に寄り添う対障害用戦闘決戦兵器。
与えられし其の名を、
──クーチャンダヨクーチャンダヨクーチャンダヨクーチャンダヨクーチャンダっガァア!
刹那、興奮して羽ばたき始めた八咫烏の片翼が、高密度に圧縮されて放たれた虚数の弾丸によって千切れ飛ぶ。
「鳥頭に何を説明しても無意味だろうが、これからキサマが敗北する理由を教えといてやる。一つは人間様を侮辱し過ぎたこと」
一歩踏み出して、男はより明確な殺意と共に銃口を合わせる。
だが八咫烏は、足掻くのを止めない。
──クーチャンハネー、オシャベリダヨー タックサン、ヨロシクネー
一斉に男を鬼の形相で見つめる、千切れ落ちた生首の数々。そして男の脳内に直接響き出す
──取れる、貴方は取れるわ。昔から捻るのが好きだったでしょう?
──そうだとも、昨日も取れていたんだから、今日はもっと楽に取れる。
──いつだって自由に、楽しく、笑いながら。
──だから早く取らなくちゃ! もちろん、
──頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を
「邪視を使っても無駄だ」
百発百中。無造作に放った複数の虚数による弾丸が、刹那の内に生首を撃ち砕く。
「さて、もう一つの敗因だがな。それは俺という虚数使いを相手にした事だ」
不吉の怪鳥とて馬鹿では無い。この鳥は今、人の形をした深淵を覗いているのだと自覚し始めていた。
「俺は、この実数世界に危害を及ぼす虚数の獣が気に入らない。故に
男──叛真定紡は今、呪言を発した。
其れは、八咫烏が用いた生半可な洗脳では無く、この世の
即ち、この村一つをたった一羽で滅ぼした三つ脚の黒鳥は、この男に勝つ事が完全に不可能となったのだ。
──クーチャンハシル ヨイショ、コラショ
踵を返し、残った片翼をばたつかせてパタパタ駆ける八咫烏。
これまでのふてぶてしさは失われ、よろめきながらも地を
「……見るに耐えん。そろそろ
尚も生き延びようと足掻く鳥に向かって静かに吐き捨てると、定紡は冷酷に引き金を絞った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます