新生

笠井 野里

しんせい

「新生」

 長い間気だるい無言が続いた居酒屋の一席で、石川いしかわは不意にその二文字の言葉を発した。

「ん?」

 スパリと切られたかのような短い疑問文が私の声に反射的に出ていた。

「新生って煙草、吸ったことある?」

 私は煙草を吸わない。どころか煙草文化の外に生息していた。マクラーレンつながりのマールボロしか私は知らない、というと少し古くさいだろうかと思いそのくだりを話すのはやめた。この席に座る我々二人は未だ大学生の身分だ。


「ない、まず煙草自体吸わんからね」

「俺は一度だけ、その煙草を吸ったことがある」

 アイコスを片手に真白のランプがついた半個室の天井を眺める石川は、上に煙を吹き付けながら話している。

「新生は昔の煙草なんだ、もう売ってない」


 石川の顔は呑んだわりに青白く、二枚目の顔貌がんぼうは崩れることもない。引き締まっているその口元と、幼さを感じるような輝きの瞳は、不思議な釣り合いによって彼を魅力的な男にしていた。

「うまいのかい」

「わからない」


 石川はふと瞳を閉じて、妙にしんみりした顔をした。私はそれを眺めて思った。つくづくこの顔で浮いた話さえないのが不思議だと。無口でぶっきらぼうのような石川だが、この美貌びぼうならミステリアスと持てはやされてもおかしくはない、いや実際その類の話は学内で何度か聞いているぐらいだ。しかし彼は寄る女をはねのける。ひそかにゲイなのではないかと思ったこともある。

「俺の昔話、聞いてくれるか?」


 石川は、瞳を開くとすぐさまこう言った。そのあと流し込むようにビールに口をつけ、あの瞳に濁りを少し加えて私の答えを待った。私自身はなんの話なのかもわからないので、さっきから会話がすべてが唐突だという多少の変な気分だけを胸に、コクリと頷いた。

 石川は、重い口をゆたりゆたりと動かして、一つの恋愛話をした。彼の言葉はときに変で詰まっていた。以下はおおよそ彼の語りである。



 ――十七歳のころ、恋をした。初めてだった、あんな感情はなかった。十七のとき俺は病院にいた。怪我をしたんだ、体育祭で足を骨折した。全治一ヶ月だった。

 地元の小さい病院に入院したんだけど、同じ病室にサキさんという落ち着いた雰囲気の二十歳の女性がいた。その人はひと目見て美人、最初はその程度だった。四人部屋で俺とサキさんは南側だった。白髪の目立つ骨折のおじいさんと、肝臓を悪くした、よく飴をくれるやさしいおばあさんも居た。


 はじめのころ、サキさんとは話さなかった。俺はやっぱり口下手なんだと思う。あいさつを抜きに初めて話したのはある月の綺麗な夜だった。秋だし満月だったから、あれは中秋の名月の日だったかもしれない。

 その日は暑くて夜中にふと起きると、向かい側のサキさんも起きて空を眺めていた。月明かりが眩しくて、横顔が光でよく見えたのだけど、あれは――ともかく美しかった。なにかに例えたかったが、あれより美しいものは、それどころかあれと同じぐらい美しいものさえ未だにみたことがないから仕方がない。

 彼女は俺に気がついて声をかけてきた。

「月、キレイだね」


 彼女の声は感傷的な響きをはらんでいた。彼女の瞳の先にある空は、青白い光をこちらに見せていて、小さい雲が一つだけ、月のすぐ下にあるぐらいだった。満月さえも青白い。

「そうですね」

 俺は月並みの返事しか返せなかった。ただ、その日から、二人で深夜に夜の月を眺めるようになった。


 月が半分以上欠けたある日、サキさんは夜空を眺めながら俺に話しかけてきた。

「退院、いつ頃なの?」

 それをたずねる彼女の顔は、心なしか沈みがちに思えた。それは俺の錯覚だろうとそのときは思った。

「次の満月あたりです」

 俺はこの解答をしたあとすぐに小っ恥ずかしくなった。芝居掛かっていすぎたからだ。彼女は珍しく笑った。ふとサキさんのほうを向くと、目を細めて口元を隠す彼女がいた。俺は月よりよっぽどこっちのほうがきれいだと思った。

「そっかー、さびしいな」

 一通り笑い終わった彼女は、ぽつりとつぶやいた。今は空の代わりに、窓の前においてある花瓶に入ったピンクの花を見ていた。

「サキさんはいつ退院なんですか?」

 俺の問いを聞いた彼女は一瞬複雑な表情をしたあと、またニコリとして

「わかんない」

 と答えた。俺はそのとき、彼女の美しさは花のようだと思った。



 それからまた少し経って、上弦じょうげんの細い三日月が見えた日。俺は大体のリハビリも終えて、松葉杖まつばづえをつけば歩けるようになった。サキさんは以外と笑うし喋る女性であることが、そのかんわかった。

「ね、歩けるようになったんでしょ?」

「はい」

「じゃあさ、散歩しない?」

「いいんですか? 消灯時間過ぎてますけど」

「いいの」

 サキさんは笑って俺のもとにきた。真白い患者着は、彼女の清潔感をより際立たせていた。彼女の誘いは悪いことではあったが、そのような雰囲気さえ、俺に感じさせることはなかった。


「車椅子で押したげよっか?」

「いいですよ、松葉杖ありますし」

 半月前に比べて会話の数が増えていたことが、俺の中でほのかな喜びとなっていた。

 病院の南側玄関を出た先には、公孫樹の木が三本並んで、ベンチがあるような広間があった。都会の公園じみた殺風景なこじんまりした感じだが、病院自体小高い丘にあるので、眼前には地元のそれぞれの家庭を思わせる住宅が小さく並ぶ風景と、海と、綺麗な空が眺められた。添え物のようにある公孫樹いちょうも、あの秋の夜の涼しい風に当たってざわざわと黄色い葉を揺らし、ときたまそれを落として、秋の感じをさせている。いい景色だった。


「風がきもちーね」

 ベンチに座る彼女が風で踊る首元より少し長い髪を抑えながら上を眺めて言う。

「そうですね、ここ、夜だと景色いいですね」

「でしょ? お気に入りなの、特に月明かりが映る海の部分が好き」

 たしかに彼女の言う通り、少し遠くの海は月の光を映していた。

「月、好きなんですか?」

「うん」

「どうして?」

「月ばっか見てたからかな」

 そういう彼女は俺の顔を見ていた。


「そういえば」

 俺は彼女の顔を直視できなくなって、月のほうを向いて話を変えた。

「んー?」

 妙に間延びした声は、朗らかで緩やかな優しさを持っていた。

「サキさん、なんの病気なんですか?」


 俺は実は今までこの質問をしていなかった。不思議と意図的にというわけではない。普通は二十歳の若い人が病院にいたら、しかもギプスもなにもつけずにいたら不思議に思うはずだが、俺は彼女の美しさかなにかにつかれていたのだろう。

「えっとねぇ――」


 彼女の口から出た病はやたらながたらしいものだった。指定難病していなんびょうであることを語っていたが、身体にはあまり異常も見られない。薬のおかげだと言って、似たような小説が最近流行ってるねなんて話もした。その小説は読んだことさえなかった。俺も自分がなぜ怪我をしたのかの話をしなきゃならなくなって、体育祭のリレーでバトンを渡すときにコケたというダサいエピソードをしぶしぶ話した。彼女は俺がその話をしている間、くすくす笑ってやまなかった。

 それからは、毎日このベンチで二人、空や景色を眺めて話した。


――――――

 退院の日が翌日に迫った、満月にほど近い夜、俺とサキさんはまたあの公孫樹が近くにあるベンチに座っていた。

「明日には退院か、はやいね」

 白い患者着を着た彼女は今度は薄黄色い光に照らされながら、光の先にある月を見ている。

「あっという間だった気がします」

 実際あっという間だった。この景色がもう見納めであることは、感慨かんがい深いものだった。

「……さびしいな」

 いつの間にかうつむいていた彼女は、そう漏らした。俺は気の利いた言葉の一つもかけられなかった。俺自身が寂しいと思っているのだから。


「――新生」

 気まずい沈黙を破るようにサキさんはふと話した。

「シンセイ?」

 あまりに急で、新生という漢字に変換することさえできなかった俺は、変な発音のオウム返しをした。


「知ってる? 煙草なんだけど、つい最近生産終わっちゃったの」

「初めて聞きました、シンセイって、どんな字書くんですか」

「新しいの新に生まれるの生で、新生」

 俺はいい言葉の響きだと思った。

「いい名前ですね」

「私もこの名前好き、ワクワクするよね」

 再び沈黙。公孫樹の葉が一枚、ゆったりと落ちてゆく。

「――吸ってみない? 一緒に」


 彼女はいつの間にか公孫樹の葉のような黄色のパッケージをした煙草の箱を手に持ってこちらを向いて微笑んでいた。未成年喫煙を誘っているような顔に思えないような、清潔さだった。

「駄目ですよ、俺未成年だし」

 彼女はふふと笑って続ける。


「……これさ、死んだおじいちゃんがくれたんだよね。二十になるまで生きられるようにって願掛けみたいな感じで、好きだった煙草をくれたの。今はもう売ってないみたいだしもったいないから吸わなかったんだけど…… 今日ぐらい、いいかなって」

「病人なんだからやめといてくださいよ、肺関連じゃないにしてもです」


 彼女はなかなか意固地いこじだった。なぜかその煙草を吸いたがっていたし、吸わせたがっていた。多少欠けがある月は、そんな二人を見下ろすように空に浮かんでいた。

「……そんなに言うなら一本だけ貰います」

 彼女は嬉しそうにライターを取り出して、こちらが咥えた煙草の先のほうに火をつけた。そして自分の煙草にも火をつけた。あまり慣れた所作しょさでないことに俺は少なからず安堵あんどした。

 煙草の味は覚えていない。苦かった? それさえわからず、ただゴホゴホむせて、それをサキさんが笑っているという感じだった。サキさんは、月に向かって煙を吐く動きをしていた。煙が一瞬雲のように月の近くにあらわれたと思ったら、次の瞬間には消えている。煙草を咥えているくせに清潔感があるその姿を、俺は不思議に眺めていた。


「今度煙草のおかえししますね。お花かなんか持ってきますよ」

 指に煙草の燃えている部分の熱が伝わってくるころ、俺はまた会おうという約束をしていた。

「そんなことしなくていいのに」

 彼女は嬉しさを隠せてはいなかった。

 そのまま二本目に火をつけた彼女は、薄く笑って、

「月、キレイだね」 

 と言った。俺はそうですね、と力強く頷いた。


――――――

 翌朝になって退院が決定すると、同室だった骨折のおじいさんと、肝臓の病気のおばあさんはお守りをくれた。「交通安全」と「安産祈願」という、怪我で骨折した俺には変なお守りではあったけど、嬉しいし効能がある気がした。サキさんも慌ててお守りを探したが、手元にはないようだった。


「これ、あげる」

 あげるものがなくて困っていた彼女が渡したのは、あの窓辺にあったピンクの花を使った押し花のしおりだった。窓辺の花瓶は、今はからになっている。

「ありがとうございます」

 花に造詣がない俺に彼女は花の名を教えてくれた。コスモスらしい。俺はサキさんに出会うまで、コスモスの名前だけ知って花を知らなかった。

「さびしくなるね」


 彼女は口元と声色は笑って冗談のふうにしていながらも、目は言葉と同じ色を帯びている台詞を発した。

「会いに来ますから」

「でも月は一緒に見れない」

「同じ空の下に居るんだから、月が浮かんでる限り、一緒に月を見られます。だからそんなにさびしがらないで」

 彼女の瞳は俺の気休めのような台詞でいくらか潤みを止めた。

「じゃあ、今日の満月は一緒に見ようね」


 その提案に頷いて、皆に手を振り病室をあとにした俺は、公孫樹の落ち葉舞うあの広場から、先ほどまでいた病室を見上げ、窓から見える小さい人影に手を振って小高い丘の病院を退院した。


――――――

 それから月が少し欠けたぐらいの時間が経った日、俺はサキさんの見舞いとお花のプレゼントのために病院にやってきた。白いガーベラが入った袋を片手に持って受付の人に

「お見舞いに来ました」

 と伝える。受付は少し声のトーンが落ちたまま、見知った部屋番号を口にした。病室の前まできた私は、サキさんの名前がないことに気がついた。不審に思いながらも病室に入った私は、おじいさんとおばあさんの二人に気の毒な顔をされた。


 ――サキさんは死んでいた。話をきいていても不思議と現実感はなかった。急に件の難病が悪化云々と言われたが、どうもよくわからない。悲しいとかそういう感情はない代わりに、心に穴がぽっかり空いたような気持ちになった。窓際の席は二つ空いていて、空の花瓶も片付けられている。死んだ? 看護師にたずねて回っても答えはイエスだった。満月の日の夜、急に容態ようたい云々うんぬん――芝居がかった現実は、俺をあまり悲しませないようにという配慮なのだろうかとさえ思った。


――――――

 そのあと知ったサキさんの墓に墓参りきた俺は、白いガーベラの代わりに線香をプレゼントしていた。線香の煙が、白い線になって空に向かっていったと思ったら消えてしまうその様子に、俺は新生の煙草を思い出した。そのときふと、サキさんが俺に煙草を勧めた理由がわかった。そしてようやく俺は彼女が死んだ現実を理解できた。



 ――話し終えた石川はまた、天井の光を眺めていた。私はこの清い恋愛悲劇に多少の滑稽感こっけいかんを感じたのは否めないが、清いものは清い、いいものはいいと思った。少しの陰鬱いんうつさが混じった清潔感で、心地よく物寂しくきくことができた。


 また私は、石川がこの淡い恋愛から未だ「新生」していないことに多少の満足感を得ないでもなかった。

「帰ろうか」

 ジョッキに入ったビールを飲み干したあと、私は彼にそう提案した。

「ああ」

 石川は持っていたアイコスを一吸いする。そのときまた上を見ているという彼の癖に、あの受け継がれた清潔な美しさを感じた。


「今夜の月はどうだろうね」

 私はそうひとりごちながら、会計のために半個室を去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新生 笠井 野里 @good-kura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ