ペンローズの階段は、どこまでも
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ペンローズの階段は、どこまでも
学校の六限目の授業が終了した。
授業の鐘の響きが渡った後、教室は一変する。
教科書やノート、ペンや鉛筆が騒がしく片付けられる音が響き、友達同士が集まり、授業や学校の出来事について話し合う。
笑顔や笑い声が教室内に響き、友情の絆が広がっていた。
やがてクラスメイトが慌ただしく帰宅していく中、少年はマイペースに鞄に教科書とノートを入れた。
やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。
小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。
アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。
これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。
酷な言い方をすれば、
イモ。
それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。
……でも、何だろう。
イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。
素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。
そんな、少年だった。
名前を
「光希」
帰宅しようと席を立った光希は、呼び止められて教室を振り返った。
一人の少女が居た。
ショートヘアの少女。
気さくなボーイッシュな雰囲気は、さわやかな印象がある。
青空を見上げ時に感じる、その快いさまは清々しく、それが明度となって輝いている。
見方によっては童心を持った男の子のような様子もあるが、イタズラっぽく笑った時に覗く八重歯は、子猫のような愛らしさがある。
やんちゃで元気な様子が魅力的な少女であった。
名前を
「由貴……」
光希は迷惑そうな表情を隠そうとしたが、隠しきれずに、その色が滲み出ていた。
互いに名前で呼び合っていたが、彼氏彼女の関係ではない。入学して魔もない頃に知り合い、それ以降も関係は切れず、気さくな由貴の性格から男友達のように、いつの間にか名前で呼び合っていた。
学友であるが、光希から見れば若干悪友に入っている気もした。
「なあ光希、勉強教えさせたる」
由貴の日本語の使い方に光希は違和感を覚える。関西弁が入っているからかと、額に指を当てて考える。
「え? 何」
「鈍いやっちゃな。ウチの先生をさせたるって言うとるんや」
呆れ顔で由貴は理解させる。
「……それって、数学のテストのこと」
「せや」
由貴は胸を張って答えた。
「いや。そんなこと言われてもさ。テストがいつか知っているだろ?」
「明日」
真顔で言う由貴に、光希も真顔で答える。
「……無理」
「せやから言うとるんやろが。ウチが昨日までカゼで休んどったやろ。これ見てみ」
由貴は答案用紙を三枚取り出して光希に持たせる。
光希の中学は週に一度、学力維持と向上を目的にテストが行われていた。生徒の理解力を細かく確認することで、学習の遅れを回避し授業のペースを調整。場合によっては放課後に補習を行っていた。
「英語85、数学56、国語87か。英語と国語は良いけど、数学は壊滅的だね」
「でも、女としてはええ数字やろ」
光希の感想に、由貴は腕組みをし得意気にした。
「……何が?」
訳が分からず、光希は訊く。
「スリーサイズ」
美樹は右手を頭の後ろに、左手を腰に当て胸を張って決めた。
セクシーポーズを。
光希は路傍の石を見るような眼で由貴を見、手にした答案用紙が折れて項垂れる。
由貴のボケに、光希はどう突っ込みを入れて良いのか分からなかった。
「……何か言うてや。ウチがバカみたいやないか!」
無反応の光希に、由貴は寂しげに噛み付いた。
光希は視線を逸らせて、相手にしたくない様子を見せる。
「いや実際そうだし」
その言葉を由貴は見逃さない。彼女は、指を光希に向けて諭し始めた。
「認めたな光希! そんなウチを可哀想とは思わへんのか。次のテストでこんな点数取ったら親にも先生にも怒られるんや」
「……僕だって人に教える程、数学の成績は良い方じゃないよ」
光希は同情しつつも、少し考えて断った。
すると由貴は、立てた人差し指を左右に振ってチッチッチッと言うジェスチャーをする。
「だからや。先生ちゅうもんは、人を教えるために教わる人以上に努力せなあかんのや。ウチの勉強をみることによって、光希も勉強できる。ウチも成績向上。小遣いア……」
由貴は柄にもなく慎ましく口元を押さえる。
「……今、小遣いアップって言いかけなかった?」
光希は由貴の顔を覗き込むように首を傾げジト目で見ると、由貴は視線を反らして話を逸らす。
「男が細かいこと気にしたらあかん。それより。な、助ける思うて引き受けてえな」
由貴は手を合わせて拝み始めた。
平身低頭で頼まれると、光希は嫌とは言えなかった。
「分かった。週一テストはいつも基礎的な内容だし、僕も勉強させてもらうよ」
光希は、流されるままに応じることにした。
そのまま教室に残ることにした二人は、まずは前回のテストからの復習を行い理解した上で、次のテスト範囲に取り掛かる。
16時頃から始め、たっぷり2時間をかけて由貴に勉強を教えていった。
「……こんな所かな。テストは復習を兼ねて前回の問題も出るから6~7割りは簡単なハズだよ」
「悪いな光希。数日分の遅れを一気に取り戻せたみたいや」
由貴は礼を言い、二人は学校を後にした。
夕闇が迫る時を光希は帰宅し、間もなく家に着こうとしていると携帯電話が鳴った。彼が使うのは、二つ折りのガラケーだが、光希は通話とメールしか使用しないので不便に思うことはない。
見ると由貴からだった。
電話に出た光希に由貴は唐突に訊く。
「なあ光希。あんたウチの教科書持って帰ってへん? 家に帰って鞄見たら教科書が無いんや」
「教科書? ちょっと待って」
光希は自分の鞄を開けて中を探るが、自分の教科書があるだけだった。
「無いよ」
「さよか。じゃあ学校に置き忘れたんやな。おおきに。戻って探してみるわ」
由貴は電話を一方的に切った。
光希は携帯電話を畳むが、再び開くと家族に学校に忘れ物がある旨をメールで送り、学校へと戻ることにした。
光希が学校へと着くと、あまり間を置かずに由貴と鉢合わせた。
「光希。何で、学校へおるん?」
「一緒に勉強した手前、気になってね。探すなら一緒の方が早いだろ。見つからなかったら僕の教科書をコンビニでコピーすることもできるし」
「律儀やな」
由貴は口では呆れ気に言ったが、本心では嬉しく思った。
二人が学校に戻った時は午後6時50分を過ぎていた。
風が少し強く見上げる4階建ての校舎が、風を吹き下ろしている。
風音が校舎にぶつかって風鳴りとなり、校庭の砂埃を舞い上げ、由貴は乱れる髪とスカートの端を押さえた。
本当に風だろうか。
いや、校舎が生き物のように喉を鳴らしているように思えた。そびえ立つ校舎が巨大な魔物のように感じたのは気の所為か。ほんの30分前に帰る時の見た校舎はこんなにも不気味だったかと光希は思ったが、早く用事を済まさなければと行動した。
「由貴。早く職員室に行こう。教室の鍵を借りれなくなるよ」
「せやな」
光希は1階にある職員室に明かりがあるのを見つつ、由貴と共に昇降口を抜けて職員室に行くと、何人かの教師が居た。
遅い時間の生徒の訪問に教頭は少し驚いていた。由貴が事情を説明し、教室の鍵を借りると4階にある一年生の教室へと向かった。
静かだった。
廊下を歩けば生徒たちとすれ違い、会話の喧騒が途絶えないというのに、今は光希と由貴の足音が響くのみだった。
まるで廃墟に迷い込んだような感覚さえある。
「夜の学校って不気味だね」
光希は呟く。
由貴は自身も怖さを感じていたが、気弱な女と思われたくなかった。
「なんや光希。アンタ怖いんか?」
由貴は光希が強気なことを言うのを期待し、そこに付け込んだ会話に持っていこうと思ったが、光希はあっさり認めた。
「怖いよ。何か凄く嫌なものを感じる。妖気って言うのはこういうことなのかな」
「ヨウキ?」
訊き返す由貴に、光希は周囲に気配せしながら答える。
「何か悪いことが起きそうな気配のこと」
二人は階段を上り、一年生の教室がある4階に着く。自分たちの教室である1-2の教室へと向かった。
光希は教室の鍵を空けると、入り口にある照明のスイッチを入れる。教室内が明るくなる。まるで命が宿ったように、安心するものがあった。
由貴は自分の机の中を探ると、声を出して喜ぶ。
「あった。ウチ何考えとったんやろ、帰ってからも勉強すんのに机ん中に戻しとったわ」
光希は由貴の探し物があったことに安堵し、二人は教室の施錠を確認した。
「良かったね」
「いやぁ、すまんな」
由貴は笑いつつ廊下の暗さに驚いた。教室に居たのは、ほんの1、2分間のことであったが、廊下が闇に浸っていた。
「……何か、えろう暗いな」
「そうだね」
光希と由貴は闇が続く廊下の先を見た。教室を出た時に時計を見た時は午後7時3分だった。
数秒の沈黙。
静寂が、耳障りな音になっていた。
光希は、鞄に入れてあった手のひらサイズのLEDライトを点灯させる。小さいながらも、希望を照らす明かりだった。
「お。ええもん持ってんな」
「安物だよ。さ、帰ろう」
二人は廊下を歩き南側の階段を降り始めた。
「足元に気をつけて」
光希は足元を照らしつつ、由貴を気遣った。
「ウチを、そんじょそこらの女といっしょにせんといて」
階段をヒョイヒョイと降り、残り三段になったところでプリーツスカートを広げて踊り場に飛んで降りた。
「早うし」
由貴は階段下から促した。光希は由貴の元気さに気苦労した面持ちで階段を降りる。
不意に光希は
「地震か?」
「何や光希。変な感じがしたな」
由貴は周囲を見回し、光希は階段を降りた。
「……何か嫌な感じがする。早く帰ろう」
今度は光希が由貴を促す。
1階分を降り、2階分の階段を降りた所で、光希は異様なことに気がついた。
4階から3階分の階段を降り、1階に着いたハズであるにも関わらず折返しを見ると階段が濃く暗い空間に続いていたのだ。
そのことは由貴も気がつき、光希の方を向いて訊く。
「……光希。ウチら3階分降りたよな。何で階段があるんや」
光希が階段近くの教室札にライトを向けると、1-5とあった。その事実に由貴は青ざめる。
「……何でや。何で一年生のクラスがある4階に居るんや」
現実に由貴が混乱した様子をみせていると、光希は言った。
「学校の怪談……」
光希の言葉に由貴が反応する。
「当たり前やろ。そのまんま学校の階段や」
由貴は階段を指し示すのに対し、光希は本当に伝えたいことを言う。
「由貴が言っているのは1階、2階の階に段数の段での《階段》だろ。僕が言っているのは、怖さや怪しさを感じさせる話の《怪談》。
学校の怪談というのは、学校やその周辺を舞台にして、子供たちよって語られる怪談のことだよ」
言われて由貴は理解した。
「あれか。トイレの花子さんとか、赤い紙・青い紙とか言うやつやろ」
由貴は小学生の頃にあった話を思い出した。そういった類の話をしては怖いながらも面白がったものだ。
「これは、恐怖の階段の一つ、『異世界に続く階段』という奴だね」
光希は言った。
【異世界に続く階段】
夜中に忘れ物を取りに教室へ行き、さて帰ろうと階段を降りるが、いくら降りても1階に着かず、そのまま行方不明になってしまう。
3階建ての校舎のはずが、なぜか4階に続く階段がある。4階に行ってしまうと戻れなくなるという怪談。
「そんなアホな……」
由貴は窓から見える風景が変わっていないことから、同じところを巡っている事実を認めた。
「それにしても光希。あんた、えらい落ち着いとるなあ」
動じた様子をみせない同級生に、由貴はそちらの方にも驚いていた。
「いや。びっくりしているよ。
でも、由貴だって不思議な体験の1つや2つあるだろ。僕は子供の頃に幽霊やUFOを見たことがあるから。どんなに不思議で説明できなくても、自分の目で見て確かめたことが真実だよ。
何が起こって僕たちが学校から出られなくなったのかは分からないけど、一種のタイムループが起こっているんじゃないかな」
光希は階段上と下の階段を照らし、由貴は訊く。
「タイムループ?」
由貴は首を傾げた。
「時間の輪だよ。これは時空を超えて未来や過去に移動するタイムスリップの特殊なケースかも。時間は過去から未来に向けて逆戻りできない方向性を持っていて、これを《時間の矢》って言うんだ。
例えば、水の入ったガラスのコップを床に落としたとする。どうなると思う?」
光希の問いに、由貴は少し怒った様子をみせる。
「バカにせんといて。そんなん床でコップが割れて水が飛散るやろ」
「そう。割れたコップがくっついて再びコップになり、水がそのコップに戻ることはない。絶対に。
もし、これが起こるなら、時空に歪みが生じたとしか考えられない」
荒唐無稽な話しではあるが、1階に向けて降りたにも関わらず4階に降りているのは、光希の云う例え通りあり得なかった。
下に落ちた物が上に戻るように。
「……でも、過去に戻るなんて。そんなことが現実に起こるん?」
遭遇した奇現象を目の当たりにしても、由貴は、この状況が信じられなかった。
「記録としてはあるよ。有名なのはトリアノンの幽霊」
光希は事件の内容を説明した。
【トリアノンの幽霊】
1901年8月10日。
2人のイギリス人女性、エレノア・ジュルーダンとシャーロット・アン・モバリーに起こった事件。
その日、フランスのベルサイユ宮殿敷地内のプティ・トリアノン近くを歩いていた2人は突然酷く気だるい感覚に襲われた。それと同時に急に周囲が静かになり、見るとまわりの人間がマリー・アントワネットの時代のような服装になっていた。そこは18世紀のベルサイユ宮殿になっていたというのだ。
10年後に2人は、この不思議な体験を本にし、一大センセーションを巻き起こした。
2人が権威のあるオックスフォード大学の学寮長を努めた人物だったことも、彼女たちの話に一層の真実味を加えた。
由貴は、考えて口にした。
「つまり。今この階段で、一種の時間の逆流が起こっとるんか? 光希の云うた二人は過去へと行ったように、ウチらは下に未来に行こうとしとるのに過去の上に戻る」
光希の話しを鑑みながら、由貴は推測を入れた。
「突き詰めれば矛盾や疑問は生じるけど、単純に考えるとそうかも知れない。眼には見えないけど、この階段は下から上へと時間が逆流している」
「ま、まさか……」
由貴は疑った。
「図形にすればペンローズの階段を想像してみて」
光希は口にした。
【ペンローズの階段】
ライオネル・ペンローズ(1898~1972)と息子のロジャー・ペンローズが考案した不可能図形。
ペンローズの三角形という不可能図形の一種。そこからの派生形の一つで90度ずつ折れ曲がって、永遠に上り続けても高いところに行けない階段を二次元で描いたもの。三次元で実現するのは明らかに不可能であり、歪みのパラドックスを利用した二次元でのみ表現できる。
由貴は手を打って思い出した。
「美術で見た永遠に上にも下にも行けない不可能図形やったな。……なるほど何となくイメージできたわ」
由貴は頭の中でペンローズの階段を巡っているのを想像し、光希は腕時計を見た。
「午後7時18分か。由貴、階段を降りて確かめてみよう」
「分かった」
二人は3階の階段を降りていくと、再び4階から4階へと戻っていた。
光希が時計を見ると、午後7時3分を指していた。
「15分も戻っている」
「何やて!」
由貴は光希の腕時計を覗き込んで、現実を確かめると不安を顔に出した。
「ほんまや。じゃあ、ウチらは4階の時間に閉じ込められたんか」
光希は焦る由貴をなだめる。
「落ち着いて。階段は、北側にもあるし、渡り廊下を渡った2号棟にも階段はあるから、そこを確かめてみよう」
「ほな、手分けしてみるか?」
「いや。二人一緒。もし別々に階段を降りて、バラバラになったら一人はここに取り残されてしまうかも知れないからね」
「そやな。ホラー映画でも単独行動は死亡フラグやった。効率悪うても一緒がええねんな」
由貴は強気にする。
それから二人は1号棟の北側の階段を確かめ、次に2号棟の北側の南側の階段を降りて1階まで降りれるかを検証しようとしたが、2号棟へ行く渡り廊下は施錠されており確かめることはできなかった。
現状として、二人が居る1号棟の南北にある2つの階段は4階まで堂々巡りをするだけだった。
光希は4階の窓を開けて下階を見る。
本来ならば、窓の下には学校の敷地が広がっている。敷地の向こうに民家があり、その先には国道があるはずだ。
だが、今は1階までの地面が暗くて見えず、闇という大海原に小舟で投げ出されたような気分でいた。
見れば校舎の近くに樹木が見える。4階までは距離はあるが、1階へと続く手がかりにはなりそうには思えた。
由貴も、その木を見る。彼女が口を開こうとすると、光希は生徒手帳を取り出す。
光希は何を思ったのか、窓下に向かって生徒手帳を闇に向かって落とす。
手帳はページを開きながら、飛ぶ力を失った鳥のように落下していく。それはやがて、闇の中に消えていった。
「光希。あんた何を……」
由貴は下階を見下ろす。
すると、彼女の真横でパシッと音がして、光希の手に生徒手帳があった。
由貴が唖然としている中、光希は手に持っている手帳を開く。間違いなく、自分の手帳だった。
それはつまり、落とした生徒手帳が上から降ってきたことを意味していた。
「……完全に閉じ込められているね」
淡々と話す光希の言葉に、由貴は息を飲む。
由貴は、改めてここが密室であると認識するしかなかった。
「どうしたらええんや」
由貴は不安な面持ちで光希を見ると、彼は考えて結論を出す。
「よし。勉強しよう」
「何言うてんねん」
予想もしない光希の答えに、由貴は驚く。
「こんな現象が永遠に続くとは思えない。台風が通過すれば暴風雨が止むように時間が経てば、この現象が収まる可能性がある。窓から雨樋パイプを伝って降りれば、もしかしたら出られるかも知れないけど、今生徒手帳を落としたものが上から降ってきたように結果は同じ可能性が高いし、上から戻って来たら足場が無いだけにケガをする可能性もあるよ」
冷静な光希の言葉に、由貴は肩をすくめた。
「無理にあがいても危ないだけか。光希が言うた、トリアノンの幽霊事件なら18世紀に行った二人も戻ってこれとるからな」
「それに由貴。これは、チャンスだよ。僕たちは奇妙な時間の中に居るんだ」
光希の言葉に由貴は気づく。
「……そっか。階段を降りたら時間が戻っとったな。ここで勉強して何時間経っても現実では時間が経ってへんちゅうことか」
「あくまでも予測だけどね。じゃあ、教室で勉強しようか」
二人は自分たちの教室に戻ると、自習を始めた。
由貴は授業で習った数学の出題を最初から始める。回答を導き出し解き方を確立させる。
そこから別の問題に取り掛かる。
パターンが分かれば数字が異なるだけだ。引っ掛け問題につまづきながらも、基本的な解き方は理解できている。
一通りやり終えると、光希と答え合わせを行う。間違っていた所を二人で考え理解した上で回答を導き出す。
途中、小休憩を挟みながら、そんなことをして繰り返していると、午後11時8分になっていた。
単純に4時間は勉強したが、この異様な空間に居るせいか、不思議と空腹や乾きを感じることはなかった。
「ウチ。こんなに長時間勉強したんは初めてや」
「僕も。由貴の言うように僕も、より理解できたよ。さて、十分に勉強できたし階段を降りてみようか」
「せやな」
由貴は教科書とノートを片付けると、二人は再び下階に降りる階段に立った。
暗い空間が下へと続いている。
改めて見ると、まるで奈落に通じるようだった。
「行こうか」
光希の呼びかけに由貴は不安なものを含んだ口調で応じると、二人は階段を一段一段降り始めた。
「なあ光希」
由貴は呼びかける。
「ん?」
「もしまた4階に逆戻りしたらどないする?」
光希は少し考えて口にする。
「また勉強しようか」
その答えに由貴は笑う。
「真面目なやっちゃな。ウチらもしかしたら、永遠にここから出られへん可能性もあるんやで。テスト勉強なんて意味ないものになるし。ウチ謝りきれんへん……」
「どうして?」
光希は足元を照らしつつ訊く。
由貴は脚が止まり、少し呆然とする。恨み節の一つも言わない光希に。
「元はと言えば、ウチが教科書を忘れたせいやろ。それが、こないな変な現象になってしもうて……」
由貴は複雑な表情をした。
それに対し、光希は苦笑した。
「僕が勝手に学校に戻っただけだよ。それより由貴が一人で、こんな現象に巻き込まれていたかと思うと、そっちの方が気がかりかな。由貴って結構無茶するから」
「例えば?」
由貴が訊くと、光希は考えること無く答えた。
「4階から木に向かって飛び降りるとか」
「そんなんするか」
由貴は否定したが、実は校舎に近い樹木に飛び移ることを考えていたことに。
「由貴」
光希は呼びかける。口調に驚きが混じっていたことから何かあったのは確かだ。
「どないした」
緊張を以って尋ねる由貴に、光希は階段下を照らした。
二人は3階分の踊り場を通り過ぎていた。つまり、その先にあるのは1階であり、階段は終わっていなければならない。
光希が照らした先。そこに階段は続いていなかった。
「1階に着いたんやな」
由貴は喜び勇んで1階を踏みしめ、両腕を高く上げ跳ね全身を使って喜びを表現させた。
「脱出成功や!」
光希は階段を降りて自分も1階を踏みしめると、時計を見た。午後7時5分を指していた。
教室で4時間も勉強していたにも関わらず、教室を出て2分しか経っていなかったことになる。
二人は職員室で教室の鍵を返し、学校を出ると校舎を見上げた。
「ウチら幻でも見てたんやろうか?」
由貴の疑問に、光希は体験したことを思い出す。
「まさか。由貴と勉強した時間は覚えている。テストの結果が出ていれば疑う余地はないよ」
「せやな」
由貴は、難しいことを考えるのを止めた。
◆
翌日のテストを終えた由貴は、採点後の解答用紙を受け取った。
由貴は点数を見て驚愕した。
「日下さん。休んでいたのに頑張ったわね」
数学の女教師は、由貴の努力を褒めた。
「おおきに」
由貴はクラスメイトを見渡し、光希を見つける。
視線に気づいた光希は由貴を見る。
由貴は八重歯を見せて微笑み、Vサインをして吉報を知らせていた。
テスト前夜の出来事が、現実だったことに……。
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