3/D


「大瑚ーはやくー」


 玄関先から呼ぶ声がする。一階にいる母に気づかれないよう、自室のベランダから庭へそっと飛び降りると、適度に引き締まった大瑚の体は布団の干された隙間に収まった。結局、放課後は潤に付き合うことになった。このいきなりできた用事を終わらせて早く流華の元に行くことが今日の課題となった。


「急かすなよ」

「遅いよ。この後デートだからって着替えなくても良いじゃん。なんも変わってないよ?」

「うるせえ」


 漁港とはこんなにも臭うものか? 毎度、生魚やゴミだけではない、何か得体の知れない酷い悪臭が鼻をつく。人が密集し、屋台の煙が充満するため酸素が薄い。暇なのか道に寝そべって動かない人もいる。放し飼いされた犬が怖い。狂犬病だったらどうすんだよ、といつも内心ビクビクしている。犬は茶色いドラム缶の上へ乗り、大瑚をじぃっと見つめていた。

 子供が手を出してくるのを申し訳なくかわして、見ていなかったふりをする。潤は物乞いする子供の手に何故かハイタッチをして歩いていた。すれ違った歯の無い女性は左右に体を揺らすように歩く。灰海街は色がない。

 潤がひょいっと軽々しく、黒い雨筋のついた高いブロック塀に飛び乗ると、周囲のゾーオンは大瑚たちをハイマだと認識し、そっとさりげなく距離をとった。


「いた、愛地!」


 潤は何かと理由をつけていつもこの男に会いに来ていた。


「潤〜会いたかったよぉ。もちろん大瑚も」


 前方でスキップをし、踊っているようにも見える。彼は学校にいる数少ないゾーオンと違い実に陽気だ。伸びた黒髪を後ろで束ね、日焼けた額に凛々しい眉が目立っていた。同い年に見えるが潤と大瑚よ1つ年下である。それにしても近づいてくるだけで汗臭い。


「よお」


 一応の挨拶をするが大瑚はこの男が気に食わない。相手もヘラヘラと笑顔のようでこっちを睨んでいるのがなんとなくわかる。


「これ、渡したくて」


 潤はガラスのボトルを手渡した。


「わぁ、もしかしてオリーブオイル?」

「うん」


 嬉しい、と彼ははしゃいだ。その様子は大袈裟のように見えるかもしれないが、湿度の高い町近郊では風通しの良い地域でしか栽培されないオリーブは大変高値で取引され、一般的なゾーオンではなかなか手に入れることができないのだ。潤は昔からこの男を気にかけ、灰海街によく足を運んでいた。


「ちょっと待っててね〜」


 屋台のほうへ消えた彼が再び戻ってきて、太ったアジの塩焼きを二本手渡しされたが、自分の分は後で潤にあげた。


「美味しいのに」


 潤はそう言ったがハイマ町のスーパーで売られているものしか食べる気にはなれなかった。


──潤、大瑚、驚くべきことだ! 今すぐ来て欲しい。


 微かに届いた深波の声は珍しく張っている。

 灰海街から大瑚の家を挟んで深波の家まで約15キロメートル。よくピーキングが届いたものだ。遠すぎて大瑚と潤は深波に返事を返すことができなかった。


「走れば30分で着くね」


 昼間行ったばかりの豪邸へもう一度走り出す。

 大瑚はこの彼からのピーキングで自分たちの運命が左右されることなんて知る筈もなく、ただただ彼に呼ばれ、彼のもとへ飛んでいく潤の後を当たり前のように追った。






「まだ君たちに紹介してない部屋だよ」


 一階の一番端の扉の前で、深波は家政婦がいない事を確認すると、自分たちを中へ入れた。そこは他の部屋より比較的小さく空気も少し籠もっていた。グラウンドピアノが一台、その上に幼少期の深波が写った写真が一つ飾ってある。


「この部屋、ピアノしか無いし普段は誰も使ってないのさ」

「それが驚くべき事なのか?」

「なんか面白い匂いがするね」


 少し落胆する大瑚をよそに潤は筋違いな事を言う。


「違う。これだよ」


 深波はピアノを片手でずらすと、敷かれていた絨毯に手をかけた。赤や金で刺繍されたその柄は美しかったが、そんな事は一瞬にしてどうでも良くなった。彼が絨毯をめくると床の窪みに現れた小さくも頑丈な鉄の扉。シェルターのようなそれは隠されているようだった。


「凄いね、地下室?」

「そう。ピアノは壊れているから触らないようにと昔から言われていたんだが、いっこうに処分する気配もないし、気の迷いでさっき弾こうとしてしまって。それで椅子に座ろうとしたら足元が落とし穴みたいになっていて驚いたよ。僕が見せたいものはこの下にある」


 深波はそれを開けた。


「螺旋階段可愛い」

「薄暗くて気味が悪いな」

「入りたい?」

「もちろん」


 躊躇する大瑚を他所に二人は階段を降りていく。


「大瑚お願いついて来て」


 上目遣いで振り返った彼女のそういうところが狡いと思う。深波に言われた通り、できるだけ扉が絨毯に隠れるように配慮して閉めた。

 降りたそこは誰かが出入りしている様子もなく物置らしい物置で、辺りに薄らと埃が確認でき、あまり手入れはされていないようだった。深波が今日まで知らなかったのにも納得がいく。オレンジ色の小さな電球がいくつもぶら下がりアンティークな机の上には書物が沢山積まれている。そんな中、二体のマネキンが硬そうなベストやアウターを着ていた。

 先頭を歩く深波は他のものには目もくれず、一番奥にあった棚の引き出しを開き、封筒を取り出す。潤はマネキンのベストを着て触り、単独で地下室を物色している。


「写真か?」

「そう」


 黄ばんだ写真に何隻もの小型船が写っている。


「こんなに沢山……すげえ」

「うん。素晴らしいよ」


 大瑚はふと写真の日付が目に入る。


「……30年前……」

「これ着てみて。大瑚に似合いそう」


 潤が手に持つのはマネキンが来ていた丈夫なアウター。彼女はちゃっかりベストの方を着ている。


「それは初期の頃の防爪牙だよ」

「へー」


 深波は潤に答えると再び大瑚を向き直った。大瑚は写真から目を離さずに集中していたものだから潤に無理やり防爪牙を着せられても気にならなかった。肩から腕が重くなったのは意識の端で何となく感じている。


「そうだよ大瑚、30年前さ」

「割と最近だな」

「うん。それに何か気づかないかい?」


 深波は写真を指で小突く。

 大瑚はハッとした。


「これ、海の上じゃねえ」


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