6-10

 お兄さまがあっけにとられた様子で口を開ける。


「そんなに面倒臭……いや、時間がかかるのか……。どおりで美味しいわけだよね……」


 あ、料理は工程が多いから美味しいってわけじゃないからね? その考え方はぜひとも矯正していきたい。シンプルで美味しい料理はいっぱいある。

 ただ、自然のものだけを使った天然酵母は発酵力があまり強くないから、生地を発酵させるのに時間がかかるのよ。インスタントドライイーストだったら一次発酵も一時間から二時間で済むから、もっと早いんだけどね。


『エリュシオン・アリス』の世界は十九世紀半ばのヨーロッパがモデル。時代的には、フランスの医学者のルイ・パスツールが発酵の原理を解明するかどうかってところ。そこから研究を重ねて、十九世紀後半になってようやく、現在の生イーストの祖になる市販酵母が誕生するのよ。

 そして、さらに時を経て――第二次世界大戦中に、アメリカのチャールズ・ルイス・フライシュマンによって粒状の感想酵母が開発される。それがドライイーストの祖と言われているわ。でも、これもまだ私たちが知るドライイーストとは違う。その祖が現れるのは、二十世紀の後半のこと。フランスのルイ・レザッフルによって開発された、インスタント酵母がそれよ。

 チャールズ・ルイス・フライシュマンより十年以上も早い一九十五年に、日本の丸十ベーカリーの田辺玄平が、乾燥酵母『マジックイースト』の開発に成功してるって話もあるんだけど、なぜだか乾燥酵母の開発は、チャールズ・ルイス・フライシュマンの名が挙がる。日本の丸十ベーカリーでは、酵母だけで売ってなかったのかな? それが関係してたりする?


 それは置いておいて、とにかく保存がきいて、使用量も少なくて済むからコスパが良くて、予備発酵がいらないうえに短時間で一気に発酵してくれるインスタントドライイーストが生まれるまであと百年以上あるの。だから今は使えない。


 まぁ、あったとしても私は天然酵母のほうが風味も食感も好きだから、できるかぎり天然酵母で作りたいんだけどね。


「つまり、そのバンズとコッペパンに、なにか具材を挟んで提供するってことかい?」


「そのとおりです」


「じゃあ、聖騎士アレンに頼んでいたのはもしかして、その具材に使う食材の確保?」


「はい。明日も同じメニューなのかを確認して、それに使う材料を確保してもらえるようにお願いしました」


 肉団子に使われていた挽肉、オニオン、卵。スープに使われていたジンジャーやにんにくなどの香味野菜とトマト。ふかしていたじゃがいも。あとは調味料。

 ピクルスは自家製のものがあるとのことだったので、それも確保してもらった。

 下ごしらえはオニオンとトマトを輪切りに、香味野菜とピクルスをみじん切りに、じゃがいもを皮付きのままくし切りにしてほしいと頼んである。


「あとは、費用はアシェンフォード公爵家が持つので、神殿がいつも使っている業者から腸詰めと調理油を仕入れてくださいとお願いしました」


 今ごろ、すべての手はずを整えてくれているはずだ。


「そうか……。それで? その昼食でみなをあっと言わせることができるのかい?」


「あっと言わせる……?」


 私はパチパチと目を瞬いた。


 そりゃ、できると思うけれど……でも、なんで?


「ええと? あっと言わせる必要があるんですか?」


「もちろんさ。そこは大事だよ、ティア。君は聖女という立場関係なく、ただ純粋に作業員たちを心配して昼食を作ることにしたんだろうけれど、作業員たちのほうは違う。調理を手伝う修行中の下級神官たちもだ。彼らにとっては、聖女の聖女としての行動なんだよ」


「聖女の、聖女としての行動?」


「そう。それが、聖女(キミ)の印象を決定づける」


「え……? 聖女としてのわたくしの印象を?」


 まだピンとこない私に、お兄さまがきっぱりと頷く。


「そうだ。この国の人間にとって、聖女は王よりも世界樹よりも尊い存在だ。なにせ三百年ぶりの覚醒なんだからね。王ですら、民はその御(み)姿を直接見ることはなかなか叶わないんだ。その王のさらにその上の存在――聖女に、彼らは相まみえる幸運に恵まれた。しかも、王や貴族たちよりも先にだ。それは一生に一度もない、最高の栄誉だ」


 お兄さまが隙のない目をして、人差し指を立てる。


「必ず、みな周りに話すよ。自分が得た最高の誉れを。そして、聖女の印象をね」


「あ……」


 それはたしかに。

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