第一章  元・悪役令嬢、パンを焼く。

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 アヴァリティア・ラスティア・アシェンフォードはエリュシオン王国の剣――アシェンフォード公爵家の娘で、大人気乙女ゲーム『エリュシオン・アリス』の悪役令嬢だ。


 名前の由来はラテン語の『強欲(Avaritia)』。美しい容姿とは裏腹に、その名のとおり我儘で傲慢、自分の望みのためならどんな悪逆非道なことでも涼しい顔でやってのけてしまう恐ろしい女だ。


 いえ、恐ろしい女だったと言うべきね。二年前に『断罪イベント』を終えて、王太子殿下からは婚約破棄され、アシェンフォード公爵家からは勘当されて、しっかりがっつり破滅済だから。


 お察しのとおり、アヴァリティアの中の人と化している私は、ブラック会社で社畜をやっていたアラサーのヲタク。ちなみに、『エリュシオン・アリス』の大ファンだった。


 いったいなにがどうなってこうなったのかは、私にもわからない。

 気がついたときには、私はアヴァリティアになってしまっていた。


 私は死んだのか、それとも生死の境にいる状態なのか、寝てる間に魂がお出かけしちゃったのか、死んだ私がアヴァリティアに転生したのか、私の魂が憑依した状態なのか、なに一つわからない。


 とりあえずはっきりしたことといえば、これは夢ではないってことと、だから待っていても目が覚めることはないってことだけだった。


「さて――」


 キッチンの木窓を開けると、東の空はすでに白みはじめていた。


「はじめますか!」


 私は素早くエプロンをつけて腕まくりをすると、戸棚を開けた。


『エリュシオン・アリス』の世界観のモデルは、十九世紀半ばあたりのヨーロッパ。

 とはいえ、そもそも魔物が存在する異世界で、科学の代わりに魔法が発達したって設定のうえ、ゲーム進行においてノイズになるようなところは結構調整してるから、その時代にあるべきものがなかったり、逆にあるはずのないものがあったり――わりとゴチャゴチャしてたりする。


 たとえば本来は白熱電球が発明されたぐらいの時代感なんだけど、ここには光の魔法があるからボタン一つで部屋の照明をつけられるし、それも現代のものと遜色ないほど明るい。


 キッチンもそう。見た目こそその時代に使われていたキッチンストーブというか――調理レンジ台だけど、石炭製じゃなくて火の魔法が使われているから機能はほとんどガスコンロとオーブン。

 壁から下がる調理道具は鉄製かホーロー製だし、古めかしい陶器の食器が並ぶのは飴色になったアンティーク食器棚なのに、その隣にはしっかりシンクがあり、水道があり、氷の魔石が使われた冷蔵庫がある。見た目はレトロだけど、おそらく昭和の台所よりずっと使いやすいと思う。昭和の台所なんて使ったことないけど。


 でも、もうすでにその時代にはあったはずの鉄道や蒸気自動車、初期のガソリン自動車なんかは影も形もなかったりする。まぁね、あったら異世界感が薄れちゃうもんね。


「おお~! 膨らんでる膨らんでる!」


 戸棚から取り出したボウルの中には、一時発酵を終えて膨らんだ、白くて艶のあるパン生地が。昨日の夜に仕込んでおいたものだ。


「どれどれ~?」


 粉をつけた指を差してみると――穴は指の形のまましっかりと残っている。うん、いい感じ!


 パン生地の表面を拳でトントンと叩いてガス抜きをしたらボウルから取り出して、軽く捏ねる。そのまま素早くひとまとめにして、スケッパーで等分する。

 今度はそれらをそれぞれ平たく伸ばして、両端から固く巻いてゆく。閉じ目をしっかりと閉じて一本の棒にしたら、固く絞った布を被せて二次発酵だ。

 発酵を待つ間に、戸棚からパン生地たちを出して、それぞれ手際よく整形してゆく。


 今日焼くのはバゲットとブール、そしてふんわり柔らかいバターロール!


 パン作りは、前世――になるのかなぁ? アヴァリティアではなく、私自身の趣味だった。


 まぁ、ブラックな会社でごりごりの社畜をやってたから、パンを焼けるのは二か月に一度ぐらい。朝から晩までパンを焼きまくって、すべてカットして、冷凍して――次の休みまでは朝も昼も晩もそれをリベイクして、あるいはアレンジ料理にして食べるというのを繰り返していた。

 時短になるし、バターも小麦粉も業務用食材の店でまとめ買いすれば安いし、なによりも一番はパンが大好きだったから。


 それなりにこだわってもいて、酵母は自家製。レーズンやバナナから自身で作っていた。

 まぁまぁ満足いくものはできていたけど、そりゃ当然プロが焼いたパンのほうが美味しいよ? 本当は作るよりも人気のパン屋でパンを買いたかったよ? だけど、一個で三百円も四百円もするパンなんて貧乏社畜には手が出なかったのよ。悲しいことに。


 アヴァリティアになって――最初の試練は『食事が口に合わない』だった。


 昔のヨーロッパには、調理の工程は複雑であるほど上級の料理と考えられていた時期があって、このエリュシオン王国でも手順の少ない料理は下品と考えられていて、そのためアシェンフォード公爵家の食事は……なんて言うかもう……たとえば鶏肉のロースト料理でも、無駄に下茹でして、お腹の中に詰めものをしてから丁寧に取ったブイヨンで煮て、それから釜で焼いたりするのよ。

 そんなことしたらどうなるか、言わなくてもわかるよね? ――そう。肉汁は抜け切っちゃってパッサパサで、食感もモロッとおかしなローストになるの。美味しいわけないでしょ? そんなの。


 味つけももちろん日本人向けじゃないし、とにかくなにを食べても美味しくない。とくにパンはひどいの一言。ライ麦パンなんだけど、たとえるなら、焼いてから一週間乾燥させたパンって感じ。ふんわり感なんてゼロ。柔らかさの欠片もないのよ。そんなガッチガチに硬いパンを薄ーく切って食べるの。二十一世紀の日本のパンを食べ慣れている人間には、罰ゲームでも食べたくないパンよ。一枚食べただけで顎が疲れ切ってしまって、翌日は顔面筋肉痛で口が開けられなくなったんだから。


 幸いアヴァリティアはアシェンフォード公爵家の一人娘。これ以上はないほどのお金持ちだもの。


お金ならどれだけかかっても構わない。小麦のふんわり柔らかいパンを作らせようと思ったのよ。パン作りの知識ならあるし。

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