夜明けの波間に

あきらけく

夜明けの波間に


 夢だと自覚する夢は何度かみたことがあった。夢でなければいいのにと思う夢は、初めてだった。


 名前も知らない色の空だ。

 紺と紫の夜の裾と、オレンジと赤の朝の気配が、遠い山の稜線の程近くで滲んでいる。すぐ近くで星や月がずいぶんと穏やかに光っていて、その輝きはまるで水の底に落ちた硝子のようだった。

 ぼんやりとしながら自分のすぐ脇を見ると、白い塗装がざらざらと剥げた木の縁がある。そこへそろりと手をついて覗いたら、はるか下に黒い墨絵のような街があって、ぽつぽつと光る街灯が見えた。街はまだ、眠っている。






 寝ぼけているみたいに頭の中はふわふわと曖昧で、自分がマジックアワーと名付けられた時間帯のその空の中にいるのだと理解が追いつくまでに、ずいぶんと時間がかかった。

 に、私は腰掛けているらしい。雲や霧の波のなかで揺らめくこの船のことを、眠れぬ赤子をあやす揺りかごのようだと、穏やかな揺れに微睡みかける私は思った。






 不思議な夢だ。波の揺れも、年季の入った木の軋みも、頬を撫でる寒さも白い息も、全てが現実のようなのに。

 でも私は昨夜寝る前に着込んだパジャマと厚いカーディガンをそのまま着ていて、こんな状況にも大して驚くことなく心地よさを感じているのだから、きっと、これは夢なのだ。






「おはよう」

 

 突然、空の中から少年の声が聞こえてくる。私は心臓が止まるかと思うほどに驚いて、大きくバランスを崩してしまった。小さな船は私の動きに大袈裟に揺れて、慌てて船の縁を掴んで、ぎゅっと目を閉じる。このまま遥か下の街へ落っこちてしまうかと思いひどく背筋がつめたくなったけれど、しばらくすればちゃんと揺れは収まってくる。

 揺れが止まってから随分経って、やっと私はそろそろと縁から手を離した。そして、船首のほうをようやく見ると。



 小さな少年が、こちらを向いて座っている。

 白いリネンのブザムシャツ。紺色のパンツ。折り返した裾から、ベージュのブーツ。この気温にはひどく薄着なシャツと髪が、風に靡いている。



 この不思議な男の子を正しく言い表す言葉を私は知らない。いつから彼がいたのか分からない今でさえ、船の一部みたいに違和感なくそこに座っていることを、至極当然のように感じていた。

(私がここへやってくるよりも、ずっとずっと前から彼はここにいたのだろうな)と、何故かわたしは納得していた。







「おはよう」


 あたりまえのことのように小さく挨拶を返した。少年はこくりと頷くと、陽にてらされた湖面のような、きらきらと光る大きな瞳を船の外へ向ける。


 この些細なやり取りは、私がこの古く美しい船に乗っていてもいい証明のように思えた。

 どうしてだろう?ほっとしたような、苦しいような、ずっとこうしていたいのに大きな声で叫びたくなるような、ぐちゃぐちゃになった感情が胸の底でさざめいている。


 私には何もわからないまま、胸の底で静かに波を立てる何かが目から溢れて、視界の一番下が滲んだ。私の住むはるか下の街はいま、海の底に沈んでいるように見えた。








 旧い船の軋みを聴きながら、いつまでも、美しい空の色を二人で見ていた。紺、赤、紫、オレンジ、その色はオーロラのように揺らめいて燃えて――


 ――いつまでも?

 はっと気がつく。たしかマジックアワーの美しさは、日の出や日の入りの前後、ごく僅かな時間しか見られないものである筈だった。わたしたちは今どれだけの時間、この不思議な空のなかにいただろう?







「ここの空は」


 私の疑問を感じ取ったみたいに、少し低くて幼い声が、まだ夜をたくさん含んでいる空気を柔らかく裂く。


「朝が来てほしいと願うまで、ずっとこのままだよ」


 この言葉の意味が分からなくて、でも(まだこのままでいたいな)と思う私のこころに反応するみたいに、朝焼けは、いっそう煌々と燃えるのだった。


「……きみと話したいのだけど、いい?」


 そうやって私が問いかけると、朝焼けの色彩を拾って様々な色に変わるその瞳をこちらに向けて、少年は「いいよ」と返事をした。

 いくつかの会話を繰り返して分かったことだが、少年に名前はなくて、そして話すことが、意外にも好きなようだった。










「ここは不思議なところね。飛行機以外で空を飛んだのは初めて」

「夢の世界の空をはしる乗り物は、星の数ほどあるよ」

「そうなの?」

「空飛ぶ自動車とか、自転車とか、機関車とか。いろいろあるでしょう」

「全部映画とか本でみたことは、あるけれど」

「ここではふつうのことだよ。みんな目的を持って動いてる」

「目的」

「僕の知ってるタクシーの運転手は、『夢でもいいから故人に会いたい』と思ってる人だけを乗せてる」

「わあ……そのタクシーに乗れば、死んだ人に、あわせてくれるの?」




 少年は肩をすくめた。故人に会えはしないのか、それとも少年が答えを知らないのかは、分からなかった。




「アカシックレコード沿いに線路を敷いて走ってる列車も知ってるよ。『選ばれしものに啓示を与える』とか、車掌は言ってた。僕あいつ嫌いなんだ」

「でも列車の窓から、過去も未来も、全てが見えるってこと?すごいね」

「ふん。そんな夢から醒めたら、みんな気が狂ってしまうよ」


 鼻を鳴らして少し怒った顔をする少年が可愛くて、笑ってしまう。きっと昔、この可愛らしい舟守と自己陶酔気味な車掌との間に、なにか因縁があったのだろう。



 



 ――ああ、こころがほどけている。このままここに、ずっといられたらいいのに。




 


 幼くも聡い少年との会話は楽しくておかしくて、くすくす笑いながら、そう思った。

 でも、どうしてかずっとざわざわしているこころの底を、気のせいだって思おうとしている自分にも、もう私は気が付いている。


 時折笑顔を曇らす私を、少年は見つめている。何もわからない私のことを、気付きかけている私のことを、大切なことを考えないようにしている私のことを、何もかも分かっているみたいな、瞳で。

 お願い、何も言わないで。ここにいさせて。こんな小さな少年に縋るみたいで、情けなくて泣いてしまいそうになりながら、こころの中で祈る。


 





 何も言えなくなった私の前で、沈黙は恐ろしい物ではないとでもいうような表情で、髪を風に遊ばせている少年。美しいな。強いな。素敵だな。少年よりもあんまり自分が矮小に思えて、下を向きそうになる。

 でも私は、この船にいることをどうしようもなく切望していた。だから、話さなければ。一生懸命不安を振り切るみたいに話題を探す。そしてようやく絞り出した声は、少し上ずっていた。


「……夢の中のいろんな乗り物の運転手たちは、みんな朝焼けの空を走っているの?いまどこにいるの?」

「夕焼け空が好きで走る人もいるし、星の夜にだけ走っているひともいる。朝焼けの時間にいるのは、僕くらいだから、ここには誰もいないよ」


 夢の世界の空と言うのは、パラレルワールドのように、同時にいくつもの時間帯や気象条件のものが存在するのだろうか。少年につられて見回した美しい夜明けの空のどこにも、この船以外のものはない。


「きみはどうして、夜明けの空にいるの?」

「――きっと、あなたと同じ理由だよ」


 質問ばかりの私に、しばらく考えてから少年はそう答える。どういう意味だろう?私と同じ理由。私が夜明けを好きだと思う理由って、一体なんだろう。



 


 


「きみは、きみの船は、何を目的に動いてるの?」


 私を見ていた少年は、ひとつふたつ瞬きをした後、ずっと太陽が隠れたままの山へ目を向けた。

 影絵のような山の稜線から、いろんな色が閃光のように空に伸びている。少年の小さな唇から白い息がたなびいて、空の沖の方へと流れて溶けていく。わたしは知らぬうちに息を止めて、返事を待っていた。


「……どうかな。僕や船には、目的はないのかもしれない」

「じゃあどうして」

「この船に乗る人は僕が決めるわけじゃないよ。自分たちで選んで乗りに来るんだ。だからきっと、目的があるのはあなたたちの方」


 、そう言われて、わたしは、ひどく動揺していた。

 ――そんな。そんなことあるはずないよ、こんな船に用事はないもの、だって、わたしは。







「車も自転車も、運転手が握ったハンドルの通りに進む。列車は敷かれたレールの通りにね。でも船は、船だけは、放っておけば波といっしょにどこかへいってしまうんだ」


 ほら。そう言いたげに、床の上に転がしてただの一度も触れることのなかったオールを、小さな人差し指で示して見せる。


「僕の船へ乗りに来る人たちは、みんな、『どこかへ行ってしまいたい』って思ってる。あなたもそうだ」






 ぎい。ひときわ大きく船の軋んだ音が、静かに心臓へ刺さる。もちろんそんな幻の感覚は痛くなんかなくて、痛くはないのに私は何かを確かめるみたいに、胸に手を置いた。







「……どこかへ?」


 ――一体、どこに行きたいと言うのだろう?いろんな、いろんなものがわたしの家や生活や日々の中にあって、それを置いてはどこにも行けないというのに。


「どこかに行ってしまいたい。でもどこへも行けない。だからみんな、夢の中で、僕の船に乗ってくる」


 呆れるでもなく、蔑むでもなく、憐れむでもなく、少年はこちらをまっすぐ見ている。夜明けの波間に揺れる船首で。朝の気配を感じ取った山鳩が、船の下を通り少年の背後へ飛んでいくのを、わたしは、泣きながら見ていた。







「――どこにも、どこにも行けないよ」


「私じゃなくても誰でもいいはずなのに、私なんかが歯車になっている場所が、たくさんあるの」


「そこから抜け出すことなんて、できないの」






 

 ひとのように出来ない自分。変わりたいのに変われない自分。ぜんぶ放り投げて消えてしまいたいのにそうできない自分。こんなにも私はどうしようもないのに、みんなと平等に与えられている権利、義務、そんなものすら重荷に感じている自分。家族。友達。仕事。社会。


 数え上げれば、自分を嫌いになる理由なんて星の数ほどあった。こんなにも美しい夢を見られることくらい自分を認めてあげれたらいいのに、現実で私を苦しめるものが、いまもそれを赦さない。


 





「朝が来たら、また始まってしまうから」

「うん」

「どうか夜のままで、って、毎日思うの」

「うん」

「朝が来なければいいって思うの」

「そうだね。僕も知ってるよ、夜は優しいからなんにも見なくて済む」

「……うん」

「でもただ暗いんじゃ悲しいんだ。僕もあなたも。だから、ほんとは夜明けを待ってる。ここに居たい理由が僕とあなたはきっと同じって、言ったでしょう」







 頬を伝う涙の跡がきんと冷えて、耳は感覚を失うほどに冷たい。私や少年の吐く白い息と、夜の終わりを、まだ隠れたままの朝陽が淡く照らしている。

 分かっている。まだ来ない朝の暖かさを、私はちゃんと知っている。





 


「あなたも気がついてる。僕もあなたも、夜明けが好きだと思うのは、ここにいたいと思うのは、まだ、陽の当たる場所を諦めきれないからだ」


 少年の言葉に目を閉じた。


 受け入れてゆく。夜の心地よさを知ってもなお陽の当たる場所は、きれいで、賑やかで、明るくて、暖かいこと。そこで同じくらい眩しく生きられたら、好きな場所へ行けたらと、本当は願っていたこと。

 諦めきれなくても良いのだろうか。どうにも上手に生きられない、私でも。


 随分前から気が付いていた。ここにずっと居たいのにこんなにも胸がざわめくのは、(世界が待っている、もう起きなくちゃ)って、ちゃんとわかっているからだ。







 「太陽が昇った先の世界には、いろんなものがあるよ。苦しいことも、哀しいことも。だから夜に癒される。でも、陽の当たるところにしかない素敵なものや場所も、たくさんあるんだ。それを想うことの、何が悪いと言うの」






 少年は、大人のくせに何時までもぽろぽろと泣いて、要領を得ない私を責めたりしない。きっと、私のようなひとをたくさんこの船に乗せてきたのだろう。






「慰めるわけじゃないけど、聞いて。今日の朝焼けはすごく凪いでてきれいだ。僕も久々にこんな朝焼けの中を漕いだから嬉しい。乗せる人によったら、大しけの日だって、あるんだよ」





 マジックアワーの色彩の中で、空を抱きしめるみたいに、少年は腕を広げる。シャツの袖や髪の毛が風に揺れながら空を透かしている。



 


「ほら見て、きれいだね。いろんな色が光ってるよ。これが、あなたの内側にある、あなただけの穏やかな夜明け」


「だからきっと、あなたはまだ、ちゃんとどこかへ行けると思う」






 行きたいところへ。生きたいところへ。






 そうだね。行かなきゃね。私はこんなだけど、まだ明るい世界を諦めきれないのだから。

 がこ、と音を立てながら、床に転がされていたオールを片方掴んで、私へと差し出す。


「どこかへ流され続けることも選べるけど、舟だってちゃんと進めるんだ。漕ぎ方だって、みんな本当は憶えてる。でも、無様に動かすのがはずかしくてみんなやらないんだ。澄ました顔して流されていくのと、無様でもどこかへ向かおうとするのは、全然違うのに」





 

「安心して。こんなに凪いでる、どこへでもいけるよ」






 少年の言葉のひとつひとつが、私のこころへ落ちてくる。波打つこころの底に吸い込まれては、溶けて、私とひとつになっていく。

 ――きっと、大丈夫だ。

 少年が差し出すオールを見つめて、私はひどく久しぶりに、そんな気持ちになっていた。


 オールの持ち手を恐る恐る掴もうとして、はっとして少年を見た。もう、ここへは来られなくなるのかもしれないと思って。

 私の心を読んだように、少年はこの日初めて眩しいほどに笑った。






「もう二度と来ないで。あなたがいきたい場所へいくんだよ」






 オールに指が触れた瞬間、地平線から鮮烈に陽が差し込んで、少年の姿も小さな船も星も月も眼下に見えた眠る街も、すべてを白く飲み込んで、――











 ――そうしてわたしは、人生の中で一番やさしい夢から目醒めた。

 胸の中には、どうしようもない喪失感が確かにあって、ぽろりと一粒夢の続きのように涙が落ちた。窓からは、厚い遮光カーテンから黄色い朝陽が漏れている。


 近づいてそっとカーテンをひらけば、もう、世界はすっかり目覚めて陽の光のただ中にいた。水色に澄んだ秋の空は高い。雲間にどうしても船を探してしまう自分に、少し笑ってしまう。ひどく久しぶりに朝を美しいと感じている自分に、安心しながら。

 

 美しい夜明けの夢が、終わってしまった。いや、「いま始まったんだ」と少年に叱られる気がして、わたしはカーディガンの襟元をぐっと掴む。


 朝が、やって来た。







 秋と冬のあいだで。

 空と街の真ん中で。

 夜と朝の隙間で。

 きっといまもあの船はどこかにゆらゆらと浮かんでいて、弱いひとたちを朝へそっと帰してあげるあの少年も、朝焼けを見つめているのだろう。

 そう思うだけでわたしは、何にでもなれる気がするのだ。




 


「こんなに凪いでる。どこへでも行ける」






 お守りのように口遊む言葉を持って。

 どこへだって。

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