晩夏と蜩

あきらけく

晩夏と蜩

 蝉が、遠くで止むことなく鳴いている。

 生成色の壁に反響しながら、何処か責める様な静けさで部屋の中に沈殿していく。心なしか足下は、ひやりとした予感に満たされているような気がした。その予感は日々、緩慢なスピードで密度を増していく。


 僕は気づかないふりが上手くなった。都合の良いことだけ、苦しくないものだけを見る様にすることにも慣れた。こうして立ち尽くして壁に向かいながら、今だって悲しみの気配に気づかないふりを続けている。




 ぺたりぺたり。




 マスキングテープや鋲で壁に磔にされた写真たちは、いろんな色彩で部屋を彩る。確かに過去に存在していた景色や人を写して飾るのは、僕にとって失ったものを忘れないよう羅列する作業だった。




 がちゃ。

 重たい音がした方向は玄関で、音の原因は華奢な靴を脱ごうとしている彼女。その後ろで閉まろうとしている扉の奥に見えるのは、晩夏の恨めしげな空だ。恐ろしく高いコントラストの青と白に、目眩がする。がちゃん。再びの重低音に意識が戻る頃には、彼女は短い廊下を抜けて部屋へ足を踏み入れていた。






「秋に追いかけられてきた。もう、すぐそこまで来てる」





 神妙な面持ちで、夏の中を走って逃げてきたとは思えないような涼しい顔で、彼女は言う。蝉が遠くで止むことなく鳴いている。もう此処まで夏の終わりが来ているよと、いのちの終わりの、そんな響きで。






 偶然と呼ぶにふさわしい、日常に淘汰されたとしてもおかしくなかったありふれた出会いを、僕たちは数ヶ月経った今でも引きずっていた。出会ったその瞬間から、なにひとつ進展しない関係のままで。


 踏み込むことを望まないようにしてきた。きっとこんなにもぎこちない指では、増えてしまった大切たちを僕は取りこぼす。欲しいと思うかどうかはまた別のお話で、そんなことを弱い僕が願ってしまわないよう、初めから"進まない"前提で、何時だって世界に座っていた。


 では何故この距離を保って日常を続けるのかと問われれば。彼女の耳の下で切り揃えられた黒髪や、硝子を思わせる瞳や、その無表情が時折崩れる瞬間が。僕は気に入っているのだろう。危険な兆候だと気付いていた。僕が今まで自分のため築いてきた城壁を僅かに乗り越える彼女の存在は、何かを壊そうとしているような、気がして。






「僕、秋はきらいだ」





 言葉を誰かに手渡すのは苦手だった。口をついて出るのは、何時だってなんの飾り気のないもので、けれどきっとそれは彼女も同じだった。その言葉少なな居心地の良さは、一度失えば、もう二度と手に入らないような気がしている。






「夏に煌めいていたものが、落ちて、腐って、終わっていくの、私はきらいじゃなかった」

「秋から、逃げてきたのに?」

「今年は、追いつかれたら、だめなような気がしたの」





 なんでかな。そう言いながら伏せられた睫が小さく小さく震えている。目を逸らせなかった。気付かないふりが、彼女といるうちどんどん下手になって行く。






「私を写真に、撮らないの?」何時だったか、壁を彩る無数の写真たちを眺めていた彼女に、何のために写真を撮るのかと問われたことがある。カメラのシャッターを切る理由を告げた僕に、彼女は続けてそう呟いた。僕はなんと答えただろう。硝子のような瞳が、あの時、写真の色彩を拾ってさまざまな色に輝いていた。






 沈黙は苦痛ではなかった。静かな部屋の、僕と彼女の間に何か、特別なものを感じるからだった。

 けれど今日、なにか途方もなく悲しいものが、落ちる静寂の中に息を潜めていること、気付いてしまう。扉の奥には、確かな秋の気配。彼女と出会って初めて、僕は不安を取り繕うための言葉を探した。




 阿呆のように口を開くが一向に音は出てこない。鈍馬な僕を置いて、彼女が先に口を開く。僕は戦慄だとか、絶望によく似たものを感じていた。


 窓から部屋に吹き込む、涼しく湿った風。僕たちが隣あうことを許された季節が、背を向けて去っていく。






 鳴き喚く蝉よ、誰を責める。




「私はこんなだ。だからひとりであることに慣れてた」

「でも此処にいれば、孤独をあなたと、共有できるような気がしてたの」



 泣き喚く蝉よ、何を責める。




「でも、気付いてしまったんだよ」

「わたしは、此処にいても、ひとりだ」





 自分勝手に言葉を求めてしまう。隣にいるのに、世界でいちばん貴方を遠くに感じてしまう。これ以上手を伸ばせば、貴方の世界を壊してしまいそうになる。失う訳にはいかなくてずっと言えなかった。でも心を伝えないまま隣にいるのは、初めから手に入れてさえいないのと同じでしょう。私たち変われなければ、秋が来たならお別れだと、きっと貴方も私も知っていたの。






 初めて見る饒舌な彼女の薄い唇から、言葉は絶えず流れ落ちる。その神々しさにも似た光景に呆然とした。待って、待ってくれ。何か言わなければ。この胸に溢れる感情を伝えるための言葉を探さなければ。早くしなければ。声にしなければ。






「きっともう、秋が扉の向こうで待ってる」






 一筋頬に流れた透明を通して、君の心を見た。立ち上がるその華奢な背中に、美しい強さを知った。言葉を探す。言葉を探す。想いなら積み上げるほど在った。はやく形にしなければ。はやく音にしなければ。







(ああ、そうだ。何時か過ぎ去る過去になんてしたくないから、僕は君にカメラのレンズなんて向けられなかった。

「さみしい」だなんて悲しくて格好悪くて弱々しい思いを、知って欲しいと思うのは。一日の終わりに目を閉じるとき、思い出すのは。不安や悲しみを教えてくれたのは。そんなものでさえ失いたくないと願うのは。)




 君だけだったのだ。







 彼女が薄く開いた冷たい扉の向こう側、深い青の中で、いのちの限り蝉が鳴いている。秋の風に君の髪が踊っている。比べようのないほど明るく美しい世界に、君はいた。


 届くだろうか。僕の知る数少ない言葉ではきっと足りない。足りるだけの言葉を練習するのではきっと遅い。過去の遺物に満ちた部屋を抜け出して、いちばん近くを願う、世界でいちばん遠い君へ手を伸ばす。鈍馬な僕の最速で、軽やかな君を引き留めることができたなら。この腕に閉じこめることが出来たなら。







 ひとりの孤独を共有するだけじゃない。


 こんどこそ "ふたり" になれるだろうか?






 強くなる方法なら、君を捕まえた後で考える。

 安心させる言葉なら、君を抱きしめた後に見つけだす。


 秋よ、こんなにも愚かで浅ましい僕を、落として、腐らせて、終わらせてはくれないか。彼女が好きだと言った季節、僕が隣に居ることを許してはくれないか。


 夏の終わり、蝉が、急かすように鳴いている。

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