気を付けてー天ぷらー 第九話

「あなたが淹れるコーヒーは苦くて」

「なに。小春はブラックが苦手なだけだろ」

「そうじゃないわ。砂糖とミルクを入れても苦いのよ」


言って二人で笑った。こうしている時間が何よりも愛おしい。だが別れの時間は刻々と迫っている。


「コーヒーです、どうぞ」


東郷が白いコーヒーカップとミルクを持ってきて、目の前に置く。


勝也はブラックが好きだ。小春はテーブルの端に置いてあった砂糖をとり、ミルクと一緒に入れた。一口飲む。透き通った味がした。


「天国でもコーヒーを飲んでいるが、やっぱり味がしなくてな。こうして本格的に味を感じられるのは実に久しぶりで嬉しいよ」

「味を感じられないのに毎朝飲んでいるの」

「ああ、日課でな」


勝也はコーヒーをゆっくりと飲んだ。


その仕草は生きていたころと全く同じだ。勝也の時は止まっている。


小春の止まっていた心の時間は、少しずつ動き始めている。生き抜いてこその天国。その言葉が、妙に刺さって、小春の心を揺り動かしている。


でも、この人ともっと一緒にいたい。もっと時間が欲しい。


どうして十五年前、この人が死ななければならなかったのだろう。まだ五十手前だった。人生八十年とすれば、後三十年は一緒にいられると思っていた。


勝也が起こした事故も、寿命のうちに入るのだろうか。でも天国にいるのならもう、死ぬことも怪我をすることも病気をすることもない。それだけが救いだ。


コーヒーを飲んだらお別れ。その心の絶叫を隠して、何気ない会話をする。


「仕事がないならあなた、いつも何をしているの」

「あの世で知り合いも友達もできたし、昼間からカラオケに行ったりもしている」

「天国にもカラオケがあるの。娯楽があるって言ってたけど」

「なんでもあるさ。食事が楽しめない分、俺は風呂が天国での生き甲斐になっている。温泉もあるんだ」


天国ってどこにあるのだろう。温泉はどうやって引いているのだろうか。わからないことだらけだ。そうして、わからないことは天国に行って初めてわかるのだろう。


勝也の淹れる苦いコーヒーを、口ではあれこれ言いながらも許していた。本当に勝也のことを愛していたのだと今更ながらに実感する。せめて、また会えるだろうか。


そう思うといてもたってもいられず、東郷を呼んだ。


「はい」


東郷はすぐにやってくる。


「忙しいところすみません。あの、この人にはまた会えるのでしょうか」


言うと東郷は「いいえ」と言った。その言葉に、若干のショックを受ける。


「どうして会えないのですか」

「当店では、死に分かれて後悔の念を持っている人、心に重いものを抱えている人をお招きしています。お会いすることによって後悔が晴れれば、もう二度とここに呼ぶことはできません。ですがまた後悔することが出てくれば、会える可能性もあります」

「なぜ東郷さんは招く客が後悔を持っているとわかるの。今ここに来ている人たちも、みんななんらかの後悔を抱えているということよね」


東郷は背筋を伸ばし、紳士的な態度で言った。


「それは、秘密です」


教えられないことなのか。だが、おそらくそれがルールなのだろう。


小春の後悔は、無視をして気を付けて、と言えなかった一点のみだ。他に思い当たる後悔はない。


そして後悔を口にして、勝也から様々な言葉を貰って、後悔は薄くなっている。


なら、勝也と会えるのはこれっきり。今日こうしてこの場で死んだはずの勝也と会えたことには感謝をするべきなのだろう。


「わかりました。ありがとうございます」


とはいったものの、感情面では嫌だと叫ぶ。もっと勝也といたい。別れの時が来てほしくない。この世にとどまらせる方法があるのなら、何でもする。


「ごゆっくりしていただいて構いませんので」

「はい」


涙がでそうになるのをこらえて、頷く。


東郷は呼び出され、ほかの客のもとへ行った。 


「まあ、なにか思い出話でも語ろうか。時間はまだあるんだ」

「時間……もうないわ」

「まだある。なにを話そうか」


初めて出会った日のことを語りだした。勝也とは、会社の同期だった。


入社式で隣にいて、小春は緊張のあまりよろめいて勝也の足の甲をヒールで踏んづけてしまった。それが始まりだった。


必死になって謝り、それから話すようになって良好な関係が続いた。結婚したのは早かったけれど、三十過ぎまで子宝に恵まれずに、二人で悩んでいたこと。最終的に拓也と光也を授かったけれど、それまでは懸命に気を遣ってくれていた。基本、優しい人なのだ。


「子供ができてからも、あなたは優しかったわ。おむつも変えてくれたし、ミルクもあげてくれたし」

「そりゃ俺たちの子供なんだから、そうするのは当たり前だろう」


世の中、そういうことすらしない男性もいるのだとか。思えば勝也は育児にも積極的だった。


小春が疲れていれば、仕事があるのに夜も厭わず子供をあやしてくれていた。


「私はあなたに出会えてよかった。あなたと結婚できてよかった。感謝しているの。世界で最も大切でかけがえのない人よ」


もう会えないのならば、思っていることを全部言ってしまおう。


すると勝也は頭を掻いた。


「なんだか照れ臭いな」

「喧嘩も絶えなかったけれど、いつもどちらかがお詫びしていたわね」

「そうだな」


小春が怒れば、勝也は夜お土産を買ってきた。勝也が怒れば、小春は勝也の好物を食卓に出した。喧嘩が絶えなかったといっても、夫婦喧嘩は犬も食わぬといった状態で、険悪さが続くことはなかった。


「俺が死んだ日も、夜、お詫びにお土産でも買おうとしていたんだ」

「何を買おうとしてくれたの」


カップの中のコーヒーが、どんどん減っていく。


「小春の好きな、押し寿司だよ」


押し寿司。それを持って明るい笑顔で帰ってきてくれたらどんなに良かっただろう。


「あなたと食べたかったわ」

「そうできたらよかったな」


勝也はそうしてじっと小春の目を見つめる。


「急に死んでしまって、本当にすまなかった」


頭を下げる。


「それは謝ることじゃないわよ。やめて。頭をあげて」


言うと勝也は頭をあげた。

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